*...*...* 幼馴 *...*...*
 鬱陶しいほどの どんよりとした雲が恨めしげに山頂を覆っている。
 川沿いにいる蛙が何を思ったのか一斉に鳴くのを止める。
 僕は空気の匂いを嗅ぐように息をする。

 これは一雨来る前の合図。

 僕は神子たちを振り返る。
 誰一人として、簑も、代わりの着替えも用意していない、か。

 僕は吐けるだけ息を吐くと、みぞおちが痛くなるまで境内の風を吸い込んだ。
 ──── 変わってない。
 陰鬱で、だけど日差しが差し込む一瞬は、信じられないような鮮やかな色を写す森の木々。
 今日も誰かが掃き清めたのだろう。整然とした玉砂利は箒の線が清々しい。

 朔殿は仏門に入った身であるという習慣がそうさせるのだろう。
 胸元で両手を組み、本堂の方角に身体を向けると深くなにかを祈っている。
 望美さんは、そんな朔殿に釣られるようにして慌てて手を合わせると、幼女のように無心に目を閉じた。

「確か、弁慶殿はここで修行していたのですね」
「ええ、僕はほんの子供の頃、ここ比叡に預けられて育ったんですよ」

 僕がこの地で修行をしていたのは、今から10数年前のこと。
 『修行』という言葉が、果たして正しいのかどうかは今となってはわからないけれど。
 ここで得た知識や学問が、今の僕の立場を形作っている、といえば言えなくもない。

 父がいて、母がいて。兄弟がいて。
 僕が時折足を向ける五条の貧しい人たちの生活を、『ごく普通の生活』と位置づけるのなら。
 僕は確かに『ごく普通の生活』は送ってこなかったらしい。

 時間が経てば経っただけ、記憶が遠くになれば嬉しいのだけど。
 案外人の記憶というのは残酷で、忘れたいと考えている事象ほど、鮮烈に浮かんできたりする。

 薄い髪色。2年近く母親の胎内にいた、異端児。
 鬼子と言われ、母にさえ疎まれていた僕の居場所は、ここ延暦寺しかなかった。
 だからと言って、拾われた場所が極楽というわけでもなかった。
 師と仰ぐ僧侶には、抜け目のない奴と疎んじられ、先輩風を吹かす仲間には容姿のことで理由のない非難を受けた。
 居場所を作るためには、自分が強くなるしか方法がなかった。

 財も、地位も。阿弥陀も、権力も、大して役には立たない。
 自分の脳内に押し込んだ知識ならば、たとえ僕が眠っているときであっても、誰からも盗られることがない。
 そう身を以て知ったのはいつのことだったか。

 ただ、1つだけ誤算があった。
 それは、自分自身、自分がこの年まで生きていることを想像していなかったこと。

 どうしたわけか望美さんは嬉しそうに目を細めて、比叡の山々に目をあてている。

「すごく空気が美味しいです。ここは弁慶さんの故郷だったんですね」
「……ええ。まあ」
「小さい頃の弁慶さん、可愛かっただろうなあ。昔のお話、聞いてもいいですか?」

 この数ヶ月の間、彼女と、ともに暮らしてわかってきたこと。
 それはたくさんあるのだけれど、もし問われたら、誰しも皆、剣の鍛錬に熱心なことを挙げるだろう。
 だが最近の僕は、もう1つの彼女の特性を知った気がする。
 それは、『とても子ども好きなところ』。

 身体が小さくなった白龍の世話を買って出ているところもそう。
 それに、この前、五条で薬を配っていたときも。
 やることをやって帰り支度を、というときも彼女は最後までまとわりついてくる幼い子と一緒になって遊んであげていた。

 子どもなど、なんの興味もない。むしろ足手まとい。
 ただ、その子どもが権力者の縁戚なら使い道もある。
 それくらいの考えしかなかった僕にとって、何の益もない子どもと一緒になって遊んでいる望美さんは、ひどく不思議な存在だった。
 
 望美さんは楽しい話の続きを待つかのように、僕の口元を見て微笑んでいる。
 ……参ったな。
 ──── 僕はあまり彼女を楽しませるような子ども時代を送っていないようだ。

 僕はさらりと笑顔を作ると、望美さんに笑いかける。

「これでも僕、昔は荒法師として悪名をとどろかせていたんですよ」
「荒法師、ですか」
「言葉のとおり、荒事をなす乱暴者の僧侶って意味よ」

 朔殿は望美さんの疑問にわかりやすく説明をする。
 言葉の意味を知って、望美さんは大きな目を落ちそうなほど見開いた。

「ふふっ。信じられませんか?」
「はい! だって、今の弁慶さんからは想像がつきません。……弁慶さん、穏やかで優しいから」
「そう言ってもらえるのは嬉しいですね」

 僕は本堂の壁に目をやる。
 10年前に、僕が付けた傷が、時間の風化とともに、少しぼやけて見える。
 暗いところで本ばかり読むな、という昨日の九郎の小言が、耳元で聞こえるような気がする。

 僕は事実を淡々と説明した。

「でも荒法師だったというのは、本当なんですよ。
 ……ここでは経文だけでなく、医学や薬学など、有意義な学問を授かりました。
 それでも、こんな山奥に閉じ込められて勉強三昧の日々です。何かで発散させないと耐えられなかったんでしょう。
 仲間と徒党を組んで京で、暴れたりしていたんです」
「弁慶さんが徒党を組んで暴れてたって……。想像つきませんね」

 譲くんは神経質そうに、『めがね』というのか、鼻の上に乗っているガラスのようなものを持ち上げる。

 昨日、新しいもの好きな景時が、何度も譲くんの顔の上に乗っている透明なものを持ち上げ、眺めて、
 譲くんと望美さんから説明を受けていた。
 その際、冗談で手渡され覗き込んだ世界は、僕が知っているものより、より小さく鮮明に見えたことを覚えている。
 望美さんの世界には、まだまだ僕の知り得ないものがたくさんあると聞いた。
 彼女が謎めいているのはそのせいかもしれない、か。

「今となっては恥ずかしい限りです。……そういえば、九郎と初めて会ったのもその頃でしたね」
「似たような話が僕たちの世界でもあるんです。
 幼い頃の九郎さんは幼少の名を『牛若丸』と言って、その牛若丸と弁慶が五条大橋で戦った、という」
「ふふ。大変よく似ていますね。僕と九郎の昔話に」

 僕は譲の話に頷くと、そっと彼と神子との距離を見つめた。
 譲くんは眠るとき以外は、たえず神子の隣りに位置している。
 ときどき、神子と一緒に眠る白龍に複雑な視線を向ける。

 そんな彼の存在に無自覚な彼女。
 ふふ。良くも悪くも人の機微というのはわかりやすい。
 言葉を尽くす方が取り入る立場。弱い立場に成り下がる。
 まだ、彼にそこまでの策をと言っても無理なのだろう。

「五条だけではありませんが、何度も戦のまねごとをしていましたねえ。
 その頃、九郎も徒党を組んでいて、町で何度かぶつかっていたんです」
「ケンカ、みたいな感じでしょうか?」

 望美さんは心配そうに聞いてくる。

「まあ、そうです。人員の確保はどうするのか。配置はどうするのか。
 夜の戦はどうするのか。少ない人数で勝利を手にするには、どうするのか。
 どうも九郎はその頃の印象で僕を見ているようで。僕としては恥ずかしいから止めて欲しいんですが」
「いいなぁ。弁慶さんと九郎さんはお互いのことを何でも知ってる幼馴染み、ってことですね」

 望美さんは心底羨ましそうに言う。

「やっぱり、小さい頃からの友達って特別な気がします」
「ふふ。望美さんにもそういう幼馴染みがいるんですか?」

 穏やかな会話を続けるための技術。
 それは、相手の発した言葉の言葉尻を上手く取ること。
 人は話すことで、よりその相手と自分は親しい間柄なのだと勘違いするらしい。

「私にとっての幼馴染みは、将臣くんと譲くんかな?」
「マサオミ、くん、ですか。どうやら僕は初耳のようです」
「あ、ごめんなさい。将臣くんっていうのは讓くんのお兄さんです。私と同い年で……。いつも3人一緒でした」
「そうでしたか。では、将臣くん、という方は、今、どこに?」

 望美さんは一瞬だけ困った表情を浮かべたあと、細い肩を落とした。

「どこにいるかわからないんです。時空に流されるとき、手が離れてしまって……」
「望美さん」
「私がもし譲くんもいなくて、1人だったら、って思うと、不安でたまらないのに。将臣くん、元気でいてくれるかな、って」

 本当にその幼馴染みが心配なのだろう。
 望美さんは唇を噛みしめ、必死に泣くのをこらえている。

 幼馴染みのことを思って泣く神子。
 神子というのは、その名のとおり、もっと威厳があって、神々しくて。
 僕たち八葉が近づくのは許されない存在だと考えていたけれど。

「先輩……」
「ごめん。私、泣かないって決めたんだった。忘れてたよ。譲くん」

 神子は桃色の袖でそれこそ幼い童のようにごしごしと目をこすると、僕の前で笑顔になった。

「私、信じてるんです。きっとどこかで将臣くんは元気でいてくれる。また、絶対生きて会うことができる、って」
「そうなんですか?」
「はい! 将臣くんってすごくしっかりしてたから」
「しっかり……、というより、ただ単に恐ろしく要領が良かった人ですね」
「あはは! そうかも」

 その、『将臣』くんと譲くんは実の兄弟だからだろう。
 あっさりと結論をつけると、神子の笑い声にほっとした笑みを浮かべた。


 幼馴染み。神子と、『将臣』くん。僕と、九郎。
 もし、九郎が行き方知れずになったら、か。
 そのとき、九郎。君は、僕と幼馴染みで良かったと、そう思ってくれるのかな?
 そして、もし、僕が行き方知れずになったなら。
 九郎は、前だけを見て進んでくれるだろうか?
 真っ直ぐな気性の君のことだから……。また融通の利かないことを言い出しそうな気もするけれど。

「弁慶さん、なんだか楽しそうです」

 気づかないうちに口元に浮かんだ微笑に気づいたのか、望美さんは僕の顔を覗き込んで笑う。
 その笑顔を見て、僕は少しだけ胸の奥に詰まっていた空気が軽くなる気がした。




「頑張ってくださいね。君はきっと、また君の幼馴染みには会えると思いますよ」
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