怨霊を封印する力。
神子の才覚があれば、僕が想像しているよりもずっと早く、この世は太平になるだろう。
そしてさらに、彼女を平家側ではなく、僕と九郎のいる源氏側に引き付けておけば。
源氏はより容易に、勝利を引き寄せることができるだろう。
──── だとしたら、僕の取る道はただ1つ、ということになる。
*...*...* 秘事 *...*...*
水無月の晴れた午後。僕は黙々と部屋にあった生薬を取り出し、広縁で風に当てる作業をしていた。
昨年は長雨が続いたせいか、一部の生薬は真っ白な衣をまとい、異様な臭気を醸し出して。
鼻の利く景時はもちろんのこと、日頃そう言ったことに無頓着な九郎まで大騒ぎだったことを覚えている。
僕は、筵(むしろ)に置いてあった女郎花の葉を手に取ると、そっと指先で潰してみる。
乾いた蕾は指の上で砕いたように粉々になる。……なるほど、今年の出来は悪くない。
この調子なら、五条のみなにもう1度、薬を配ることができるかな。
「おや?」
折れ曲がった向こうの廊下から軽やかな足音が響く。
これは、子ども、もしくは女性の音。
朔殿の歩き方はもっと忍びやかだ。
だとしたら、白龍。……それか、神子。そのどちらか、だろうか。
「弁慶さん、なにをして……。と、なんだかすごい匂いがしますけど、大丈夫ですか?」
足音はゆっくりと速度を落とすと、優しい声を響かせる。
「ああ、望美さんでしたか。しばらくはこの辺りを通らない方がいいですよ。
今日は天気がいいので、生薬を陰干ししたんです。今、片付けているところですから」
「すみません! なんだろう、って思ったら、つい」
「いいえ。そうだ、しばらくこれで我慢してもらえますか?」
僕は自分の勘が当たったことに1人頷きながら、香合わせの道具に入ってい茶葉を取り出した。
神子のうっすらと上気した頬は、季節の移り変わりを告げている。
僕がこの源氏に加わってから、2回目の夏がやってくる。
「あ、いい香り。これはお茶ですか?」
「ええ、生薬の世界では、お茶は立派な薬なんです。
他には……。香りが強くてさわやかな生薬としては、薄荷葉などありますよ。聞いてみますか?」
「はい? 『聞く』? ですか?」
「ええ。香りは嗅ぐものではなく、聞くものとされているので」
「なんだろう……。あ! わかりました。これはミントです!」
広がる臭気に辛そうに眉を寄せていた彼女は、僕の差し出した葉におそるおそる鼻を近づける。
そして首をかしげて、2度、3度息を吸い込んだ後、柔らかな笑顔を向けた。
「ふふ、望美さんの世界では薄荷葉のことを『みんと』と呼ぶんですね。勉強になります」
時折、神子が口にする言葉の中には、僕の聞いたことのない音が含まれている。
譲くんと話すとき、彼女は僕や九郎に対するときのような『気負い』という殻が外れるのだろう。
軽妙な、そして耳障りの良い言葉を口に乗せる。
彼らが言う、『けーたい』というのは、とても便利な道具らしい、とか。
彼らの世界には、『ぷりん』以外にもたくさんの甘いものが存在するらしい、とか。
僕は膝の上に散らかっていた生薬の欠片を手で払うと、静かに腰を上げた。
「さて、片付けも終わったことですし、ようやくこの部屋を開放できそうですよ。
これ以上この部屋を独り占めしていたら、みんなに恨まれてしまいそうだ」
「そういえばこの部屋で薬、って初めて見たかも、です。弁慶さんは、いつもはどこに薬を置いているんですか?」
「ふふ、君は好奇心の強い人ですね」
彼女はなんのためらいもなく、まっすぐに僕の領域に踏み込んでくる。
無知なのか。それとも無心なのか。
神子と目を合わせ、中を覗き込む。
しかし、そこには、吸い込まれそうなほど透き通った目があるだけだった。
「でもこの世には、知らない方が良いこともあるかもしれませんよ」
「知らない方が? ……そうかな。ううん、多分、どんなことでも『知ること』は、良い経験になると思います!」
「困ったな。そんな風に可愛い顔で言われてしまうと、君に暴かれるならそれもいい、と思ってしまいそうです」
このときの僕は他に何の他意もなかった。
心地良い風が吹く昼下がり。
木曽の残党とのやりとりも一息ついている。
九郎の手柄話を聞いた鎌倉殿の機嫌も、悪くないものだったと景時から聞いた。
僕の心も、普段より少しだけ穏やかになっている。
「秘密にしてくれるなら、君には教えてもいいでしょう」
「薬の置き場所ですか?」
「ええ、普段、薬は僕の私室に置いているんです。……こちらへどうぞ」
神子たちが京の梶原邸に腰を落ち着けてから、かれこれ2ヶ月。
渡り戸で繋がれた広大な屋敷の一角で、彼女たちは密やかに暮らしている。
僕の私室はここから少し離れたところにあるから、彼女が気づかなくても当然、といったところか。
「あれ? でも弁慶さんっていつもは九郎さんの六条堀川のお屋敷に住んでいるんですよね。
なのに景時さんのお屋敷にも部屋があるんですか?」
「ええ、あちらにも一部屋もらっています。けれどいろいろあって、景時にも一部屋貸してもらったんですよ。
九郎にはいい加減にしろと言われてしまって。ああ、ここですよ」
「いい加減に? 九郎さん、どうしてそんなこと言うんだろう……。な、なんですか? これ」
僕に誘われるままに部屋に足を踏み入れた彼女は、言うべき言葉が見つからないのだろう。
足の踏み場もない床に絶句して、壁に目をやり。
真正面にあった朱い阿修羅の戯画が生々しさに、薄暗がりの中、神子の顔からすっと血の気が引いたのが分かる。
「やっぱり驚かれてしまいましたね」
「怖い絵もいっぱいで、その……。お化け屋敷かと思いました。なんでこんなにものがいっぱいあるんですか?」
「怖い絵? いやだな。これは、僕が比叡にいた頃に集めていた曼荼羅です」
「こっちの巻物の山は? わ、触ってないのに、崩れそう……!」
「こっちは龍神に関する資料や、呪詛に関する資料ですね」
恐怖に引きつっていた神子の顔。
それが『呪詛』という言葉を聞いた途端、真剣な、熱を帯びた眼差しに変わったのを僕は敏感に感じていた。
──── 僕が神子を完全に理解しきれない、と思うところはこの部分だ。
自分の生まれた世界に帰りたい。それはわかる。
だから剣の鍛錬に懸命になる。それもわかる。
だが、どうして彼女は龍神の話になると、それほどまでに真剣になるのか。
目を潤ませて今にも泣き出しそうになるのか。……痛そうな顔をするのか。
僕はそれに気づかないふりをして明るく相槌を打った。
「八葉となったからには呪詛と対する機会も多い。必要となる知識ですよ」
泣きそうになっている理由を尋ねられたくなかったのだろう。
神子は、僕の言葉に釣られるように笑顔で応酬してくる。
「はい。それはすごく心強いです。でも、これじゃあ、本当に悪い魔法使いの部屋になっちゃいます!」
「ふふ、『悪い』、ですか?」
「あ、いえ、悪いって言うのは深い意味があるわけじゃないんです。
薬草の束とか大鍋とか巻物とか、そうだ、曼荼羅の絵も。雰囲気が、いかにも、で」
「沈黙は最大の武器、と言った古人もいるそうです。そんなに必死に弁解されると、却って気になってしまいますよ?」
微笑みながら1歩彼女に近づく。
彼女は自分の失言をすまないと思っているのか、顔を赤らめながら興味深い話を続けた。
「えーっと、あ、そうだ。どこかで預かってくれるところはないんですか? たとえば、図書館のようなところとか」
「図書館? 書物を保管する場所ですか?」
「はい、図書館です。……あ、この世界には図書館はないんですね。えっと、なんて言えばいいかな。
あのね、『図書館』にはたくさん本があるんです。その本は、誰でもただで借りることができるんです。
頼めば、自分の本を寄贈することもできるし。
自分の好きな本をリクエスト……、じゃない、買ってください、ってお願いすることもできるんですよ?」
「君の世界にはそんなに便利なものがあるんですか。……羨ましいな」
書物というものは、人から人へと口移しまたは写経のように写すことで少しずつ世間に広がる。
元来、龍神や八葉に関する知識というのは、知っている人間が限られていることもあって、手に入れることが困難で。
さらに、『写す』という行為を経ることで、写し間違いも配慮に入れなくてはいけない。
今、僕がたくさんの書物を手にする理由。
それは多くの虚構の中から、ただ1つの真実を見つける行為だと信じているからだ、とも言えなくもない。
「修行していた頃ならばともかく、今はそう頻繁に比叡へ書物を読みに通うこともできません。
だからなかなか処分に踏み切れないんですよ」
「そうなんですね。……龍神のことが書いてある本なら私も読んでみたいです」
「読んでみますか?」
「はい!」
少しずつ僕という存在に慣れてきたのか、神子は僕の近くまで寄ると、僕の差し出した文献を覗き込んだ。
ふわりと紫苑の髪が彼女の頬を覆う。
幼い彼女の面影がそこだけ、大人びた女性に見える。
「たとえば、そうそう、この書物のここです。先代の白龍の神子について興味深いことが書かれているんですよ。
『いづれのおんときにか、あまたさぶらひけるひとびとの…』のくだりです」
僕の指を目で追っていた神子は、指された箇所に目を遣ると、申し訳なさそうな風情で僕を見上げてくる。
以前譲くんから、神子の世界には男文字である漢語も女文字である仮名も存在していたと聞いた。
今僕が見せているのは、女文字で書かれた書。
これなら神子にもわかりやすいかと思ったけれど。
「ごめんなさい。先に私、この世界の字を勉強しないとダメみたいです。
草書になっているからかな。『の』とか『か』くらいしかわからないです」
「なるほど。君の世界の文字とこの世界の文字。似通ってるとはいえ、まったく同じではないことを失念していました」
「頑張って覚えます。……あ、この文字は『け』かな?」
「ふふ、君のように熱心な人ならば教えるのも楽しいでしょうね」
神子は僕の言葉に、ぱっと顔を輝かせた。
「教えてもらって、いいですか? 私、多分、お料理よりは好きになれると思います!
前にいた世界でも、本を読むのが好きだったんです」
僕は神子の背後に目をやると、周囲を伺う。
いつも彼女の近くでまとわりついている白龍は、気配がない。
譲くんは少し調べたいことがあると言って、昼餉が終わると早々に景時と一緒に邸を出て行ったのを覚えている。
朔殿も、仏前に供える花を摘みに行くと言っていた。
──── 今が、頃合いか。
僕は神子のあごを持ち上げると、自分の顔を近づけた。
「実は僕、ずっと疑問に思っていました。この世に舞い降りた姫神子は、一体何を知っているのだろうか、と」
「弁慶、さん、なにを……?」
「僕の、何を知っている? それとも……、この世情の未来の動きを知っている? どちらなんでしょう?」
彼女は何かを知っている。その何かが何かはわからない。だけど。
僕は彼女をこの源氏の部隊に留めたい。
受け答えの様子でわかる。
彼女は僕を憎からず思っているようだ。
女人とは、誰しも情に脆いもの。
だったら、僕が彼女の思い人になればいい。
余りの近さに神子は声も出ないらしい。
固まったように目を見開いたまま、僕の顔を凝視している。
「ふふ。おとなしい、いい子ですね」
何度も、何度も。ついばむように神子の唇を味わう。
まだ、少女のような、いや、まだ少女の前の子どものような爽やかな口元からは、さっき渡した薄荷葉の香りがする。
「や、やだ……っ。どうして……?」
「……静かに。今は僕に集中してください」
1つ、わかったことがある。
この神子はどうやらあまり男女の仲には詳しくないようだ。
「どうしてこんなこと、するんですか?」
いつしか夢中になって加減を忘れていたのだろう。
望美さんは涙目になって僕を見上げてくる。
「聞かなくてはわかりませんか?」
「はい?」
「──── 僕が君を愛しく思っているから、ということでどうでしょう?」
女は、聡い。いつか、気が付いてしまうときがくるかもしれない。
だが、僕は軍師としての仕事をやり遂げるまで。……戦が終わるまで。源氏が、勝つまで。
僕は神子を、僕の属する源氏側に引き付けておく必要がある。
僕は赤味の増した神子の唇を、再び親指でゆっくりとなぞる。
「君に字を教えるという役得は僕にくれると嬉しいですね。……そして、男女の仲を教えることも、ね?」