*...*...* 篤実 3 *...*...*
「傷が急所を外れていてよかったですね。応急の処置はしておきましたよ」
「あ、ありがとうございます。弁慶さま」
「看病している君も疲れたでしょう。もう半時もしたら退去命令が出るはずです。
 その時までゆっくりと身体を休めてください」
 
 怪我人だけが集められた帳の中で、僕は人知れずため息をつく。
 長かった夜が明けて、ようやく源氏軍の全貌が見えてきた。
 人づてで聞いたとおり、僕が精鋭たちと共に平家の陣に向かったあと、後方の部隊は巨大な怨霊に襲われたらしい。
 亡くなった人間は数十人。
 この場所まで辿り着けなかった人間も数えると、百人と少し、といったところか。
 怪我人は約その三倍というのが相場。
 
 源氏も浅くない傷を負っている。
 なるほど、平家と和睦を結んだ神子の判断は正しかったと言えるのかもしれない。
 
 ここは一度、源氏の本拠地、京か、平家の裏をかいて平家の息がかかっている福原に拠を張るか。
 
「さて。もうそろそろ、落ち着いている頃合いでしょうか……」
 
 僕は源氏の最奥の帳に目をやる。
 浅黄色の垂幕は、ほかのくすんだ帳が はためている中、一目で源氏の総大将がいることを示している。
 ──── 人の考えというのは、そのときの本人の機嫌にも左右される。
 あの、狩衣に身を包んだ少年のことで、神子とやり合い。
 その後、譲くんと景時の来訪を受け。
 九郎は腰も下ろさず、帳の中を歩き回っている、……そんなところかな。
 
「弁慶さま、こちらの傷兵はどうしましょうか?」
「ああ、そちらの人はもう診ましたよ。少しだけ安静にしてあげてくださいね」
 
 安静に。
 滑らかにそんな言葉を口に乗せながら立ち上がる自分こそ、あの清盛殿と同じ、人ならず身なのかもしれない。
 多分、『そちらの人』は助からない。
 死出の旅こそ静かに、と思う僕も人の心をどこかに置いてきたのだろう。
*...*...*
「なに? 鎌倉への文を書けだと? そんなことはもうとっくに景時がやっているだろう。
 まったく、どいつもこいつもどうして俺の言うことを聞かないんだ!」
「九郎さま、そうは申しましても……」
「お前、俺の気を鎮めようとしてそんなことを言うんだろう。
 ここから早馬を出すより、いったん京に戻り、そこから文を出した方が、鎌倉に着くのは早い。
 そのようなことを知らぬお前でもあるまい!」
「はっ」
「九郎、入りますよ。僕です」
「な? 弁慶か? よし、お前は下がれ。もう、俺に文の話はするな!」
 
 僕は予想が若干外れたことに肩をすくめながら、叱りつけられている小兵に少し同情する。
 今まで九郎と生活をともにして、彼のいいところもそうでないところもたくさん知り尽くしているつもりだけど。
 この、真面目一辺倒の堅物さ加減は、他の人間にはない特性だと思う。
 
「君も、相変わらず融通がきかない人ですね」
「用件はなんだ。傷兵の看護をおいてまで俺を探しにきたんだ。よほどの理由があるんだろう」
「望美さんが看護している公達のことです」
「お前も、その話なのか」
「ふふ、『お前も』なのですか? では, 先客があったというわけですね」
 
 分かっていることを確かめる。本人の口から言質を取る。
 そうすれば、僕が知っているという事実は消すことができる。
 見ると、帳内をぐるぐると歩き続けていたのだろう。
 冷気が残る山の中、九郎は額に玉のような汗をかいていた。
 
「ああ。さっきも、景時と譲がやってきて、あれこれ騒いでいた。
 景時もすぐ兄上のことを口にするから、たちが悪い。いいやつなんだが、ああいうところはどうも俺は好かん」
「それはそれは」
 
 景時。梶原三郎景時。
 元は平家の人間だが、先の石橋山の戦で鎌倉殿を救ったことで一気に重鎮に採用された。
 書もすれば弁も立つ。ああ見えてなかなか優秀な人材だ。平家の面々にも明るい。
 だが、ときおりそのような態度から、僕と同じ匂いがするのも事実だ。
 その両手に、鎌倉殿と九郎を握らされたなら、景時は九郎を捨て鎌倉殿を救う。
 いや、捨てるだけではない。捨てたその手で九郎の首を絞めるかもしれない。
 
 二人に説得されたことがよほど腹に据えかねたらしい。
 九郎は荒だった口調のまま、僕に向かってくる。
 
「平家の人間なら即座に切る。八葉だとしても関係ない。敵ならば敵として扱うだけだ。
 看護などする必要はない。な、弁慶。そうだろう?」
「確かに彼は、少なくとも源氏の者ではなさそうですね。平家だとしたらどうするつもりでしたか?」
 
 あの身なり。それに、神子が言っていた『あつもり』という名前。
 あつもり……。あつもり。敦盛。
 多分『無冠の大夫』の名で呼ばれた平敦盛。
 神子の敵ともいえる、平家の身。それが、八葉とは、龍神もまた……。
 
 あの傷を見るに、普通の人間なら二月。いや三月は休みを必要とする傷。
 ならば、あの傷が癒えるまで、神子は源氏に拘束できるということになる。
 
 そんな様子に、幼い頃の片鱗を見る。
 九郎の噂を聞いた人間は、彼の戦略、経歴から、さぞかし立派な人間であることを想像しているようだけど。
 僕と向き合う九郎は、真っ直ぐで実直な子どものような人間だ。
 
「九郎、聞いてください。……敵だからこそ看護する必要があるんですよ」
「どういう意味だ?」
「彼のあの身なり。それなりの身分でしょう。使い道は多い。情報を聞き出すにしろ交渉に使うにしろ」
 
(神子を源氏側に引きつけておくにしろ……、ね)
 
 無冠の大夫、平敦盛が、叔父である清盛殿に可愛がられていたのは、有名な話だ。
 仮の話を大きくするのはよくないが、彼は駒の一つ。
 上手く使えるなら使った方がいい。
 
 僕のせわしない思惑とはうらはらに、九郎はようやく薄縁に腰を据えると、憮然とした表情をしている。
 
「人質か。俺は好かん」
「好きとか嫌いとかそういうことを言っている場合ではないんです。戦なんですから」
「……お前が正しいんだろうな。だが俺には人質の惨めさがわかるんだ。
 なにしろ、物心つく前から、鞍馬に閉じ込められていたんだからな」
 
 九郎は苦々しげに口を真一文字に結ぶと、からりと晴れた青空を見る。
 夏に近づこうとしているこの時期、今年は空梅雨なのだろう。
 勢いを増した太陽が、南の空に張り付いている。
 
「……この話はここまでだ。いいな」
「わかりました」
 
 心なしか疲れが見える九郎に、これ以上意見を言っても無駄というもの。
 僕は軽く頭を下げ、傷兵たちが集められている帳の横を通り過ぎる。
 
「おい! お前!! 目を開けろよ、開けてくれ!!」
 
 悲鳴のような怒鳴り声。肉体をかき抱く音。
 カタカタと揺れる帷子は、死者が身につけているもの。
 
 ──── 金属片の乾いた音は、平安が失われたこの世への恨み言のようにも聞こえた。
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