僕は隣りで眠っている望美さんの鼻先にそっと手を伸ばす。
普段が表情豊かな少女だからだろう。
眠っているときの彼女は 儚く、薄白く、まるで神仏から下された預かり物のような心持ちがしてくる。
「……今日も問題はないようですね」
彼女が息をしていることを確認し。体温を確かめるためにそっと手に触れ。
僕はようやくそこで安堵する。
──── まだ、彼女は生きている。生きて、僕のそばにいる。
*...*...* 泣き顔にすら心震える *...*...*
「おはようございます! 今日も一日頑張りまーす!」「ふふ。いつもの君で僕は十分満足なのですが」
「あ、あのね、すみません。今日、私、景時さんのお邸に行ってきたいと思ってて……。
朝の診察がすんでから、ちょっと出かけても大丈夫ですか?」
青菜のおひたし。それに、雑穀を混ぜ合わせた湯づけ。
この時代の、この町に留まって、かれこれもうすぐ一ヶ月。
最近では、厨(くりや)のこともてきぱきとこなす望美さんは、行儀正しく手を合わせ、箸を取ると、
ふっと僕を見て恥ずかしそうに笑う。
僕が、女人と共に住む。
朝に夕に、彼女の顔を見たいと思う。
そんな日など、来るべく期待をするまでもないと思っていたのに。
「ええ。昨日は薬草があまり採れませんでしたし、干すのは僕一人で大丈夫です。
どうぞゆっくりしてきてください」
「ありがとうございます! ほら、あの、もうすぐ夏でしょう?
私、今、朔に、着物の縫い方を教えてもらってるんです。その、できれば……」
「……できれば?」
「はい……、できれば、その……。弁慶さんが気に入ってくれるかわからないけれど、
弁慶さんの着るものも作ってみたい、って思ってるんです。
不器用だからできるかどうか不安だけど、朔がね、すごく丁寧に教えてくれるんですよ?
だからしっかり覚えようって思って」
九郎から鎌倉の布地を譲ってもらったこと。
萌黄という明るめの色で、僕に似合いそうだと思ったこと。
少し縫い終えたら、仮縫いをするから身に当てて欲しいこと。
楽しそうに話し続けてた望美さんは、ふと真顔に戻ると、子どものように目の端を赤らめて僕を見上げてくる。
「えっと……? あれ? 弁慶さん……?」
「ああ、すみません。どうかしましたか?」
「あの! もしかして、萌黄色、弁慶さん、あまり好きじゃないですか?」
「……いいえ?」
「えっと、じゃあ……。その、私が作る、ってことがすごく不安だとか、かな?」
「ああ。黙っていたことで、かえって君を案じさせてしまいましたか? ……こちらへ」
器を手に、厨に向かおうとしている彼女の腕を引き寄せる。
着物の上から感じる彼女のぬくもりに、また気持ちが熱くなる。
「──── 嬉しかったんですよ」
「は、はい? あの……、えっと、なにが、でしょう?」
「君が、僕の衣類を整えてくれると聞いて」
記憶を辿る。
忘れようとしている思い出というのは、忘れようとすればしただけ、記憶の礎として焼き付くのか。
僕が最初に思い出すのは、望美さんのいう、萌黄色の着物だ。
母に続いて養母も僕を見捨て寺に預けられたとき、なんでも僕は萌黄色の着物に包まれていたらしい。
貴族の子息なら、食い扶持として米なり絹なりを持たせるのが通例だが、その余裕も無かったのだろう。
持っていたものは萌黄色の着物、一枚だったという。
なぜ色を覚えているのかと言われれば、その後、五つになるまで、僕はその着物一枚を着続けたからだ。
『鬼若』と呼ばれ、誰からも必要とされていない少年が生き抜くには、自分の才覚に頼るしかなかった。
大人になって、比叡を出たころ。九郎との争い。
路銀があれば、どんなものでも手に入った。
誰が作った、という背景など、どうでもよく、衣類であれ食料であれ、不足がなければそれでよかった。
それが。
彼女とともに暮らし。
彼女が作った膳を食し。
季節が変わる頃には、彼女が作った衣装を纏う。
膝の上に抱きかかえられている望美さんの横顔が、それこそ産毛の流れまでつぶさに見える。
距離が近すぎるからだろう。
彼女は、緊張に身を固くしている。
「あ、あの……っ」
「なんでしょうか?」
「そんなに、じっと見つめられると、その、どうしていいか……。あ、急いで、器、洗ってきますね!」
匂やかな頬に、僕の身につけている墨染めの衣は、やけに不釣り合いで場違いだ。
僕は彼女に気づかれないようにそっと息を吐くと、紫苑の髪を撫でる。
「ふふ、いいでしょう。今日はこのまま解放してあげましょうか」
「うう……。ひどい。やっぱりまたからかってたんですね」
頬を膨らませて抗議する彼女に目を奪われながら、僕も同じように席を立った。
満ち足りた、穏やかな日々。
見つめれば、見つめ返され。
お互いがお互いの唯一無二だと信じられる日常。
それなのに、自分が幸福なのだと納得させなくてはいけないのは、何故なのだろう。
「あのね、もしかしたら、九郎さんや、景時さん。それに、譲くんにも会えるかもしれないんです。
会ったら、話が尽きなさそう……。みんな、元気かな?」
「そうですか。……僕も行けたら行きたかったところですが。……みんなに会ったらよろしく伝えておいてください」
「はい。できるだけ早く帰ってきますね」
今日会うであろう面々を思い出して、望美さんは弾むような足取りで歩いていく。
(……なるほど。聡い人間には気づかれてしまうかな)
僕は、一ヶ月前と寸分違わぬ彼女の身体の線を見て、眼を細めた。
──── 僕たちがまだ男女の関係でないなどと、一体誰が想像するだろう。