もう半刻もすれば、夏が始まったばかりの空は白々と明け始める頃。
 僕は隣りで眠っている望美さんの鼻先にそっと手を伸ばす。
 普段が表情豊かな少女だからだろう。
 眠っているときの彼女は 儚く、薄白く、まるで神仏から下された預かり物のような心持ちがしてくる。
 
「……今日も問題はないようですね」
 
 彼女が息をしていることを確認し。体温を確かめるためにそっと手に触れ。
 僕はようやくそこで安堵する。
 ──── まだ、彼女は生きている。生きて、僕のそばにいる。  
*...*...* 泣き顔にすら心震える *...*...*
「おはようございます! 今日も一日頑張りまーす!」
「ふふ。いつもの君で僕は十分満足なのですが」
「あ、あのね、すみません。今日、私、景時さんのお邸に行ってきたいと思ってて……。
 朝の診察がすんでから、ちょっと出かけても大丈夫ですか?」
 
 青菜のおひたし。それに、雑穀を混ぜ合わせた湯づけ。
 この時代の、この町に留まって、かれこれもうすぐ一ヶ月。
 最近では、厨(くりや)のこともてきぱきとこなす望美さんは、行儀正しく手を合わせ、箸を取ると、
 ふっと僕を見て恥ずかしそうに笑う。
 僕が、女人と共に住む。
 朝に夕に、彼女の顔を見たいと思う。
 そんな日など、来るべく期待をするまでもないと思っていたのに。
 
「ええ。昨日は薬草があまり採れませんでしたし、干すのは僕一人で大丈夫です。
 どうぞゆっくりしてきてください」
「ありがとうございます! ほら、あの、もうすぐ夏でしょう?
 私、今、朔に、着物の縫い方を教えてもらってるんです。その、できれば……」
「……できれば?」
「はい……、できれば、その……。弁慶さんが気に入ってくれるかわからないけれど、
 弁慶さんの着るものも作ってみたい、って思ってるんです。
 不器用だからできるかどうか不安だけど、朔がね、すごく丁寧に教えてくれるんですよ?
 だからしっかり覚えようって思って」
 
 九郎から鎌倉の布地を譲ってもらったこと。
 萌黄という明るめの色で、僕に似合いそうだと思ったこと。
 少し縫い終えたら、仮縫いをするから身に当てて欲しいこと。
 
 楽しそうに話し続けてた望美さんは、ふと真顔に戻ると、子どものように目の端を赤らめて僕を見上げてくる。
 
「えっと……? あれ? 弁慶さん……?」
「ああ、すみません。どうかしましたか?」
「あの! もしかして、萌黄色、弁慶さん、あまり好きじゃないですか?」
「……いいえ?」
「えっと、じゃあ……。その、私が作る、ってことがすごく不安だとか、かな?」
「ああ。黙っていたことで、かえって君を案じさせてしまいましたか? ……こちらへ」
 
 器を手に、厨に向かおうとしている彼女の腕を引き寄せる。
 着物の上から感じる彼女のぬくもりに、また気持ちが熱くなる。
 
「──── 嬉しかったんですよ」
「は、はい? あの……、えっと、なにが、でしょう?」
「君が、僕の衣類を整えてくれると聞いて」
 
 記憶を辿る。
 忘れようとしている思い出というのは、忘れようとすればしただけ、記憶の礎として焼き付くのか。
 僕が最初に思い出すのは、望美さんのいう、萌黄色の着物だ。
 母に続いて養母も僕を見捨て寺に預けられたとき、なんでも僕は萌黄色の着物に包まれていたらしい。
 貴族の子息なら、食い扶持として米なり絹なりを持たせるのが通例だが、その余裕も無かったのだろう。
 持っていたものは萌黄色の着物、一枚だったという。
 なぜ色を覚えているのかと言われれば、その後、五つになるまで、僕はその着物一枚を着続けたからだ。
 
 『鬼若』と呼ばれ、誰からも必要とされていない少年が生き抜くには、自分の才覚に頼るしかなかった。
 
 大人になって、比叡を出たころ。九郎との争い。
 路銀があれば、どんなものでも手に入った。
 誰が作った、という背景など、どうでもよく、衣類であれ食料であれ、不足がなければそれでよかった。
 
 それが。
 
 彼女とともに暮らし。
 彼女が作った膳を食し。
 季節が変わる頃には、彼女が作った衣装を纏う。
 
 膝の上に抱きかかえられている望美さんの横顔が、それこそ産毛の流れまでつぶさに見える。
 距離が近すぎるからだろう。
 彼女は、緊張に身を固くしている。
 
「あ、あの……っ」
「なんでしょうか?」
「そんなに、じっと見つめられると、その、どうしていいか……。あ、急いで、器、洗ってきますね!」
 
 匂やかな頬に、僕の身につけている墨染めの衣は、やけに不釣り合いで場違いだ。
 僕は彼女に気づかれないようにそっと息を吐くと、紫苑の髪を撫でる。
 
「ふふ、いいでしょう。今日はこのまま解放してあげましょうか」
「うう……。ひどい。やっぱりまたからかってたんですね」
 
 頬を膨らませて抗議する彼女に目を奪われながら、僕も同じように席を立った。
 
 
 
 満ち足りた、穏やかな日々。
 見つめれば、見つめ返され。
 お互いがお互いの唯一無二だと信じられる日常。
 
 それなのに、自分が幸福なのだと納得させなくてはいけないのは、何故なのだろう。
 
 
「あのね、もしかしたら、九郎さんや、景時さん。それに、譲くんにも会えるかもしれないんです。
 会ったら、話が尽きなさそう……。みんな、元気かな?」
「そうですか。……僕も行けたら行きたかったところですが。……みんなに会ったらよろしく伝えておいてください」
「はい。できるだけ早く帰ってきますね」
 
 今日会うであろう面々を思い出して、望美さんは弾むような足取りで歩いていく。
 
(……なるほど。聡い人間には気づかれてしまうかな)
 
 僕は、一ヶ月前と寸分違わぬ彼女の身体の線を見て、眼を細めた。
 
 
 
 ──── 僕たちがまだ男女の関係でないなどと、一体誰が想像するだろう。
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