*...*...* 優しき支配者 (3/3) *...*...*
ふいと一陣の風が吹く。景時邸の庭先に薄桃色の花が広がっている。
俯いた花形がどこか彼女に似ている気がして、この世話をしているであろう人間を思い浮かべる。
……なるほどね。彼もまた、彼女を恋う人ということかな。
半月ぶりの九郎は、鎌倉殿とのここしばらくのやりとりについて一通り僕に聞かせると、
空になった杯を仰いだ。
「……まあ、こんな具合だ。あとは景時が良い返事が来てくれたらいいんだが」
「ええ。彼ならきっと、鎌倉殿との橋渡しも申し分なくやってくれるでしょう」
一本気な九郎は知らない、景時の本心。
どうかな……。
今、ぎりぎりの均衡の中、一つの独楽は回っている。
それが、ふとした弾みに傾いたとしたら。
景時が、鎌倉殿と京の九郎の、どちらを選ぶかは、僕の目には明らかかな。
まあ、朝廷への任官を返上した今の九郎なら、独楽の上でともに回り続けることもできるだろう。
「おい、そういえば望美はどうした?」
「ふふ、今日はいろいろ準備で疲れたようです。……先に奥の部屋で眠っていますよ」
「朔殿もいないが」
「女性陣は早々に引き取ったのでしょう」
「そうか……。久しぶりにお前と話せてよかった。俺も自分の道が見えた気がする」
九郎は気持ちよさそうに伸びをすると、すまんなと言い捨てて厠へと向かう。
(……望美さん)
今夜ここに来たときに感じた違和感を吹き飛ばすような明るさで、望美さんはみなと一緒に笑っていた。
いつも見慣れているはずの彼女は、輪の中でも臈長けて美しくて。
知らず視線が彼女で止まる。
そんなことを二度三度繰り返しているうち、僕と同じように彼女を見つめている熱があることを知る。
──── 僕はいつまでこのまま立ちすくんでいるのか。
好きだから、縛りたくない。
いつかこの世界より、もっと便利な元の世界へ彼女が帰るときに、ちゃんと笑顔で手放せるように。
愛しいと思っているからこそ、これ以上依存できない。
僕のすべてをさらけ出したあと、彼女を失うことになったら……。
……僕はきっと回り続ける独楽と同じだ。僕の均衡を保てなくなる。
火の元の始末がすんだか、厨から譲くんが顔を出した。
「弁慶さん、ちょっと今いいですか?」
「ああ、譲くん。……今夜はお世話になりましたね。望美さんも喜んでいたようです。
彼女に代わって礼を言いますよ。ありがとうございました」
譲くんは僕の礼には応えず、切り込むような鋭い目をしている。
その理由がわかる気がして、僕は真正面からその視線を受け止める。
「……弁慶さん、あなたは一体どういうつもりなんですか? なにか先輩に不満でもあるんですか?」
「いいえ。滅相もない」
「じゃあ、どうしてもっと先輩のこと大事にしてあげられないんですか? 僕なら、あんな状態のままにはしない」
「あんな状態とは?」
「そ、それは……っ」
酒ではない力で顔を赤くしながら、譲くんは口ごもる。
なるほど、望美さんや譲くんがいた世界では、十六歳というのはまだ大人ではない、という言葉どおり、
彼はまだその辺りのことを言葉にするのは難しいのかな。
僕は手にしていた器を高坏に戻すと、譲くんに顔を向けた。
「君は慧眼ですね。夫婦の閨のことまでわかるのですか?」
「そ、それは……! うっかり聞いてしまった俺も悪いけれど、先輩が言ってたんです」
「そうですか。彼女はなんと?」
「……子どもは生まれない、って。そういうことはしてないって、朔さんに話しているのを聞きました」
「おしゃべりは女性の特権ですから。……偶然聞いた話を人に漏らすのは得策とはいえないのでは?
……さて、新妻を放っておくわけにもいきません。僕もそろそろ部屋に引き取りますね」
『新妻』という言葉をことさらゆっくり告げると、僕は広い廊下の端を急いだ。
*...*...*
小さな灯りを手に、彼女が眠っている部屋へ進む。長い渡り廊下を二度曲がった部屋は、以前この屋敷で暮らしていたときと同じ場所だ。
戦場では鬼神と評され平家の中には彼女の存在に恐れる輩もいたと聞く。
なのに、白の着物を身につけて眠っている様子は、本当に儚い。
ほんの半日会わなかっただけだというのに、懐かしくてたまらない。
彼女の背に流れる紫苑の髪を撫でていると、その気配に気づいたのか、望美さんは大きな目を開けた。
「すみません。起こしてしまいましたか?」
「ううん……。私こそかなり早く寝てしまって、ごめんなさい。お仕事は? 大丈夫でしたか?」
「ええ」
飽くことなく髪を撫でる僕の手に、柔らかな彼女の手が重なる。
うす蒼い月光の元、血のこびりついた自分の指が朱に染まっているように見えてくる。
そっと離そうとしたとき、望美さんはふわりと さっき庭で見た花のように微笑んだ。
「弁慶さん……。私、今、幸せです」
「望美さん?」
「──── 弁慶さんがそばにいてくれるから」
共に住み始めてから何度か聞いた話。
白龍の逆鱗を使って、幾度も時空を越えてきたこと。
何度か、僕の死に出会ったこと。
僕の身体が透けていき、消えていくのを見たことは、彼女にとって忘れられないできごとだったのだろう。
この夢を見た朝は、いつも赤らんだ目の端を隠すように横を向く。
どうしたら、今の屈託が消えるのだろう。
どうすれば、彼女の物思いの数を減らせるのかな。
「……僕は罪深い人間ですね。罪を重ねまいと思いながらもまた君に罪を重ねている」
「はい? なんのことですか?」
「君は、君を僕のものにしないことを、不安に思っているのでしょう?」
「は、はい……?」
「譲くんから聞きました」
「な……っ」
一気に目が醒めたのか、望美さんは慌てて半身を起こした。
紫苑の髪が柔らかく彼女の背に流れている。
「いい子ですから、聞いていてくださいね」
僕はいつものように彼女を膝の上に抱きかかえると、ゆっくりと話し始めた。
共に暮らすようになってから、ずっと考え続けたこと。
なにもかも恵まれた世界から遣わされた君を、ここに留めていいのか。
僕の思いのまま、抱いてしまっていいのか。
「いつか君が元の世界に戻りたいと思ったときに、僕の存在が君の足枷になるんじゃないかとも思ったんです。
……おや? 望美さん?」
ぽたり、と肩口に温かいものを感じる、と思ったら、それは彼女の涙だった。
どんなときもけして涙を見せなかった望美さんがはらはらと泣いている。
温かく湿った息は、僕の一部分を勢いづかせている。
「ひどいです。……弁慶さんは、私がいつか弁慶さんと離れて、逆鱗を使って戻るって思っていたんですか?」
「すみません。……君が信じられないというより、自分自身が君との幸せに慣れてないんだと思います」
「だ、だったら!」
望美さんは溢れる涙を拭おうともしないで、僕の胸を掴んだ。
「だったら、慣れてください。同じ時間を過ごして、同じものを見て、同じものを食べて……」
「望美さん」
「幸せな毎日を、少しずつ積み重ねていけば、それが幸せになると思います」
「……僕、怖かったんです。君にすべて依存してしまうことが」
「弁慶、さん……?」
言葉が出ない望美さんに向かって、僕は静かに話し続ける。
「僕は今まで一人で生きてきました。これからもずっと一人で生きていくつもりでしたから……。
他者に甘える方法を知らないんですよ」
「そんな……。そんなのって……」
「あまり両親のことも覚えていないんです。ずいぶんとまだ小さい頃に寺に預けられましたし」
ともに暮らすようになって知ったこと。
それは望美さんがとても子ども好きだ、ということだった。
白龍がまだ子どもだった頃は、世話をするのが楽しくてたまらない、といった様子だったし、
今日のこの訪問も、黒龍のおもちゃになるものはないかと、あれこれ探していたのを思い出す。
愛情をかけられた子は、なんのためらいもなく愛情を返すことができる。
愛情をかけられたことのない僕は、愛情の受け取り方も返し方も知らないのかな。
……皮肉なものだ。形式的な、打算的な方法ならいくらでも知っているのに。
「……それに、君の住んでいる世界は便利なものがたくさんあるのでしたね。
いつか君が飛び立ちたい。帰りたい。そう思ったときに、僕は君の足枷ににはなりたくなかったんです」
「足枷、なんて……」
「君を僕の思いのままにして……。子どもができたら、大変なのは女人ですから」
ほぅ、と梟(ふくろう)が、夜の闇を飛び交う。
望美さんは一瞬首を傾けたあと、考え込むように視線を膝に移した。
「今まで何もかも自分独りで決めてきました。
食べるもの、身につけるもののような小さなことから、それこそ他人の人生を狂わせることまでなにもかも。
こんな僕が、一度甘える喜びを知ったら、なにをするかわかりませんよ?
君はこんな僕と向き合う覚悟はありますか?」
退路は、絶たない。
数ある兵書の中に有る言葉の一つ。
どんなときも、必ず落ち処を用意する。
そうすることで次の世代の異分子を減らすこともできるし、相手の対抗心を和らげることもできる。
僕は望美さんの身体をそっと起こすと、明るい声を出した。
「夜更けに込み入った話をしてしまいましたね。夜も遅い。今日はもう休みましょう」
「だ、ダメ! そんなことしたら、私、もう、勇気が出なくなる。私……」
なにか思いついたのか、望美さんはぱっと顔を輝かせると、僕の腕を引っ張った。
予想外の動きに僕の身体は望美さんに抱きかかえられている格好になる。
「決めました。私が、弁慶さんのお母さんになります!
お父さんはちょっとなれないかも……。お兄さんもちょっと難しいかな。
だけど、お母さんと、お姉さんと、妹くらいなら、なれると思います!」
「望美さん、一体なにを……?」
「今の私が弁慶さんのすべてを受け止められるか、わからない。けど……。
私は弁慶さんが甘えられるただ一人の人になり、ます。……うう、なれるかな」
「自信がないんですか?」
「う、ううん? すぐにはなれないかも、だけど、いつか、必ず、なりますから。だから待っててください」
細い指が僕の髪を梳いていく。
初めての心地よさに目を細めていると、頭の上から、絞り出すような声がする。
「……甘え方を知らない、なんて。そんなの、あんまりです。
今まで聞いた話の中で、一番悲しい言葉だった、って思う……。
でも、もう、これからは、甘えてくださいね?」
「ふふ。手加減はしなくていいんですか?」
「それは……。う、受けて立ちます」
「確かに、言質は取りましたよ」
恥じらいと、不安と。
僕の言うことにくるくると表情を変えながら懸命に励まそうとしている彼女が可愛くて、僕は腕に力を入れる。
とたんに、これから始まろうとする行為に不安になったのか、望美さんは身体を強ばらせている。
素直すぎる態度に破顔すると、僕は彼女の額に口づけた。
「ああ、期待していたならすみません。でも、景時の邸ではしませんから」
「き、期待、って……っ! 期待、なんてしてないです!」
「そうですか。それは残念だな」
「あっ……。えっと、それは……っ」
「君を抱いたら、しばらく離せそうにないですし。……続きは我が家で、としてくださいね」