ちいねえは、カバンの中から大振りのスケジュール帳、それに細いペンを取り出すと、オレに目配せする。
 近づいて見ると、そこには流れるようなしなやかな字で、『ごめんね。少し待ってて』とあった。  
*...*...* Pie 2 *...*...*
 オーブンは誇らしげに、音と匂いでアップルパイが焼き上がったことを伝えてきた。
 さらに、知らん顔しているオレのことが面白くないのか、3分おきにアラーム音で存在を主張する。
 オレはノロノロと立ち上がると、オーブンを保温モードに設定して、ちらりとリビングにいるちいねえを見つめた。

「そう。ねえ、ミハエル、もう少し落ち着いて話してみて? 顧客の名前はなんていうの?」

 電話が鳴ったのが、パイをオーブンに入れた直後。
 だから、35分は軽く経っていて。そして、オーブンのアラームはこれで、3回。
 かれこれ、もうすぐ1時間が経とうとしてるのに、ちいねえの電話は終わらない。

 もちろん丁寧に作ったアップルパイというのは、冷めても美味しいとは思うけど。
 今日は、できれば出来たてをちいねえに食べさせたかったのに。

 オレは紅茶を淹れるためのお湯を沸かしては捨て、またちいねえの様子を見る。

 『紅茶ってのはな、茶葉も大事だけど、沸かし立ての湯を使うことも大事なんだ。ナオ、覚えておきな』

 オレの耳は鮮明に、数年前の親父さんの言葉を思い出す。
 その言葉に忠実に、オレはヤカンに水を入れる動作を繰り返していた。

「ミハエル、PCは立ち上がってる? じゃあ、サーバに入れてある社内共通フォルダを開いて」

 話の流れを聞くこともなくぼんやりと追っていると、相手はどうも仕事先の人間のようだ。
 先月末で終わったハズの仕事の引き継ぎが上手く行かなかったのか、
 金の買い付けのレートが客の言い値と違うと、後任者は騒ぎ立てている、らしい。

「まずメールの履歴を確認して? そう。2月下旬頃のメール。相手は、レマルクさん宛よ。……あった?」

 てきぱきと話すちいねえは、なんだかオレの知らないちいねえみたいだ。
 しかも話してるのは、英語。そして時折混ざる、ドイツ語。

 元々、ちいねえは、オレが尋ねることには丁寧に答えてくれるけど、自分からはあまり話してくれない。
 自分自身のことは、なおさらだ。
 仕事のこと。会社のこと。ちいねえを取り巻く人間関係。
 考えてみれば、オレはちいねえのプライベートをほとんど知らない。

 そりゃ、海外に何年もいたんだから、語学に堪能なのだろうとは思ったけど。
 ちいねえって、自慢したり、ひけらかしたり、ってこと、する人間じゃないから。
 オレ、全然気づいてなかった。
 ちいねえの社会人としてのスキルの高さに。

 抱いたときのちいねえは、蕩けるくらい甘くて可愛いのに。
 社会人としての10年のキャリアの違いはこんなところにも顕れるのかな。
 今のオレじゃ、全然太刀打ちできそうに、ない。

「ちいねえ……」

 メモを取っているのだろう。
 ちいねえはサイドテーブルの脇にちょこんと正座すると、こりこりとスケジュール帳になにか書きつけている。
 その様子が可愛くて、オレはちいねえの背を抱え込むようにして座った。

「……少しだけ、いいでしょ? オレ、ここに、いる」

 ほっそりとしたうなじ。それに続くなだらかな肩。小さな耳朶が、息がかかりそうなほど近くにある。
 ちいねえはビックリしたように眉を上げると、メモ帳にサラサラとペンを走らせた。

『ごめんね、もう少しだけ > ナオくん』

 もし、今、この場で、オレがちいねえの胸やうなじに触れたって。
 柔らかそうな貝殻みたいな甘噛みしたとしても、ちいねえは怒ることはしないだろう、って思える。

 だけど……。

 まるで指から紡ぎ出されるようにして書かれていく、膨大なメモと、ちいねえの真剣な眼差しは、
 オレのよこしまな考えをぴしゃんと拒絶しているように思えて、オレは、ただじっとちいねえの背を抱きしめていた。

 あー。ホント、オレらしくない。

 今まで、別の女の人とこんなシチュエーションは何度かあったハズなのに。
 そしてそのときのオレは、彼女が電話を早く終わらせることで、電話相手に勝ったような晴れがましい気持ちを味わっていたというのに。
 今のオレは、自分のことよりもずっと、ちいねえの方が大切で。
 オレの優越感よりも、ずっとずっと。
 ちいねえが満足いくようにするにはどうしたらいい? ってそればかりを考えてしまう。

「大丈夫? そう……。クレームは誠実に対応してね。そうすることで、これからはその人がミハエルを助けてくれるようになる」

 ちいねえは今、オレの腕の中にいる。
 触れれば存在を確かめることができる。ちいねえが呼吸する音さえ聞こえる。鼓動も聞こえる。
 だけど、電話に集中しているちいねえは、ハッとするほど凛々しい顔をしていて、
 ちいねえと約束の再会を果たして以来、どこか心ここにあらずの状態で過ごしていたオレとは全然違う。
 ──── ちいねえの心の中に、オレは存在してない、って思えてくる。

「了解。またなにかあったらいつでも電話して。あとで社長からも連絡あると思う。よろしくね」

 ちいねえは静かに電話を切ると、紙面に残った6ケタの数字にグルグルとマルをつける。
 そしてオレの方に向き直ると、手を合わせて謝ってきた。

「ごめんね、ナオくん、遅くなって。何度かお湯、沸かしてくれてたでしょ? 私、用意してくる」

 オレは黙ってちいねえの両手を掴むと、そのまま身体ごと抱きしめた。

「──── ごめん、ちいねえ。しばらくこのままでいて」
*...*...*
「ナオくん、どうしちゃったの?」
「……別に」

 眠りにつく前の、一瞬のじゃれ合いでも無く。
 また、つかの間の先のセックスを感じさせるような愛撫でもない。
 ただ、子犬が母犬の乳首を求めるような、先の見えない じゃれつき方にちいねえは驚いたらしい。
 ちいねえは苦しそうに何度も深呼吸すると、改めてオレの顔を見下ろした。

 そうか。
 気がつかなかったけど、オレがちいねえを抱きしめるんじゃなくて、ちいねえに抱きかかえられている格好になってたんだ。

 ちいねえは額にかかったオレの髪を手櫛で梳くと、遅くなってごめん、とつぶやいた。
 どうやら、電話が長くなったことでオレの機嫌を損ねたと考えているみたいだ。
 オレはちいねえの柔らかな胸を頬に感じながら、口を開いた。

「……ねえ。ちいねえってオレのこと、好きだよね?」
「はい? いきなり、なに言って……」
「10年前だってそうだった。今もそうだ。ちいねえってあまり自分のこと、話してくれないよね。
 仕事のことも、ちいねえを取り巻く人たちのことも」
「ナオくん……」
「昔は、ちいねえが話してくれないのは、オレがガキだからだって思ってた。
 中学生のオレと社会人のちいねえじゃ、オレが理解できないことも多いだろうって、思った。
 だから早く年を取りたかった。ちいねえにふさわしい男になりたい、ってずっと思ってた。
 ねえ、どうしてもっといろいろ話してくれないの? オレって頼りないかな」

 カッコつける余裕なんてどこにもなくて、オレはちいねえに駄々をこねる子どものように話し続けた。

 ──── だけど。
 ちいねえは、怒ることも反論することもなく、ただじっと、傷ついたような目の色をしてオレを見ている。
 時折オレの髪を梳くちいねえの指が優しくて、オレの目は拗ねたように細くなる。

 ズルイよ。
 こんな風にされたら、オレの考えはただのワガママなんだって、認めなくちゃならなくなる。

 ちいねえはオレの髪を耳の後ろにそっと流すと、ぽつりぽつりと話し始めた。

「ナオくん、聞いて」
「なに?」
「……私、学生時代のあのことがあってからずっと、すべてのモノと距離を置いて過ごしてきたの。
 もう、誰とも近づき過ぎませんように。もう、どうか誰も好きになりませんようにって」
「ちいねえ……」
「冷たい人、って言われたこと、いっぱいある。……でも、それで良かった。傷つくより、ずっとマシだって思った」

 ちいねえの顔を直視することができなくて、オレは再び目を落とす。
 真ん前には白すぎる胸元と、8ヶ月前ちいねえを抱いたときに感じた香りが広がる。

 ちいねえは今、どんな顔をして、この話をしてるんだろう。
 知りたい。だけど、顔を上げられない。
 ──── 今、もしかして、オレはちいねえを傷つけてるの?

「だから、ときどき自分以外の人との距離感、っていうのかな。距離を取るのがヘタだな、って思うことあるの」
「ごめん、ちいねえ。オレ……」
「ううん?」

 ちいねえはブンブンと首を振るとぎゅっとオレを抱きよせた。

「でもね、私、ナオくんとだけは、そうやって距離なんて取りたくない。そう思ったの。
 ナオくんとなら、傷ついてもいい。そう思った。だから、戻ってきたんだよ、日本に」
「ちいねえ……」

 じわじわと、胸の奥が暖かいモノに満たされる。

 どうしてちいねえはこう、オレが欲しいと思っている言葉そのものを言ってくれるんだろう。
 『ナオくんとなら、傷ついてもいい』
 なんてさ。
 『好き』とか『愛してる』って言葉以上の破壊力に、胸が熱くなって、苦しくなる。
 ──── おかしく、なる。

「ごめんね。遅くなっちゃったけど、アップルパイ、食べよう?」

 ちいねえは優しい声でそう言うと、最後にオレの身体を抱きしめ、立ち上がろうとする。


 焼き上がってから2時間を過ぎたアップルパイは、まだ暖かみが残ってるのだろうか。
 ちいねえは美味しいって言ってくれるかな? どうだろう。
 2時間が3時間。3時間が4時間になって、すっかり冷め切ってしまったあとになっても。


 オレはちいねえの肩に手を回すと、今度はまっすぐにちいねえの目を見つめた。






「まだ、ダメ。こんなにいろいろ話してくれるちいねえってすごく貴重だから、まだ離さない。
 ねえ、ちいねえ。どれくらい、オレのこと、好き?」
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