「……ちいねえ」

 私のことを『ちいねえ』と呼ぶ人はこの世で1人。
 私は、その声の優しさに惹かれるようにして、1歩足を踏み出した。  
*...*...*  約束 8 *...*...*
 私は目の前にいるナオくんを初めて出会う人のように見つめる。
 背も、……違う。
 髪も。
 着ている服も。
 声のトーンも。話し方も。
 私の記憶の中で学ラン姿だったナオくんは、今は清潔そうなスーツを身につけた、1人の男の人になっていた。

「ちいねえ。……約束、守ってくれたね」
「ナオくん? 本当にナオくんなの?」
「うん。オレだよ。わからない?」

 私は薄暗がりの中、目を細めて私の前に立つ男性を見上げた。

「う、ん……。だって私が知ってるナオくんとは違う人みたい。だ、だって背が」
「高校生になってから伸びたんだよ」
「えっと、その、こ、声も!」
「んー。そうかな。自分じゃあまり自覚はないけど」
「そう、だ。その、話し方も」
「……社会人になった男が、中学生の頃のような話し方をしていたらおかしいでしょう?」

 理路整然と説明されて、グッと言葉に詰まる。
 別に、私、この人がナオくんじゃない、って疑っているワケじゃない。
 だけど……。
 照れくささのような、恥ずかしさのような、……嬉しさのような。
 10年前の約束をナオくんが覚えててくれたことがくすぐったくて、私は気の抜けた反論を繰り返した。

「そ、そう! ナオくん、その、着てる服が違う」
「ははっ。ちいねえは変わってないね。……服は誰だって着替えれば替わるでしょ?」

 お互いが手を伸ばしても届かないような距離の中、ナオくんの優しい視線が降ってくる。
 離れていた10年という時間は、ナオくんの上にこんな大きな変化を作った。
 ──── 私は?
 今の私は、ナオくんにはどんな風に映ってるんだろう。

 かさり、と草を踏む音とともに、ナオくんが1歩、近づく。
 その動きが、私の知ってるナオくんじゃないようで、私はナオくんが近づいてくる分、後ずさった。

 この10年、何度も今日のことを考えた。想像した。
 だけどどれだけ考えても、この場所にくるのは私1人の映像しか見えなくて。
 10年前もの約束を、ナオくんが覚えててくれるなんて考えてもなくて。
 気持ちが、なかなか今の状態に追いつかない。

「……あ!」
「……っと。ここは山道だし、それに暗いから、足元には気をつけて?」

 ぐらりと重心を失ってよろけると、とっさのところでナオくんの手に引っ張られる。

「ご、ごめん。私、なんだか信じられなくて」
「……ちいねえ」

 ナオくんの声のトーンが真剣味を帯びる。
 おそるおそる顔を上げると、そこには感情を押し殺したような厳しい表情をしたナオくんがいた。

「オレは今日のために、10年間生きてきた。……誰よりも必死に生きてきたんだ」
「ナオくん……」
「オレ、胸を張ってそう言えるよ? ちいねえを迎えに来られる男になるために、って。
 オレの目標はそれだけだったから。……一言だけ、ちいねえに聞きたくて、オレはここに来たんだ」

 ぎゅ、っと握られた手に力がこもる。

「ちいねえ。……今、幸せ?」

 いい加減なウソなら簡単に見破られてしまいそうなほど鋭い目で、ナオくんは私の顔を凝視した。
 10年。
 たった10年。だけど、10年。
 私は自分の心の中を覗き込む。
 今、……私は?
 幸せ、かな?
 ナオくんに、胸を張ってそう言えるかな?

 私は真っ直ぐナオくんを見つめ返す。
 きちんと、誠実に、答えなきゃ。
 それは、約束を守ってくれたナオくんへの最低限の礼儀だもの。

「う、ん……。幸せ、だよ? ここ数年は、仕事で海外に出てた」
「──── 幸せ、か。……でも、ここに来た、と。どうして?」
「それは……。そう、その、ナオくんとの約束だったから!」
「そう。……オレとの約束なら、ちいねえは守ってくれるの?」
「はい?」
「オレにも、まだチャンスは残ってる……。そう思っていいってこと?」

 握っているだけの手に不意に力がこもる。
 気が付けば、私の身体はナオくんに引き寄せられていた。

「オレはもう、10年前のオレじゃない。背も、ちいねえより高くなった。……力も強くなった」
「……な、ナオくん……」
「──── 大人になった」
*...*...*
 ナオくんにエスコートされるようにして、私は山を下りる。
 降りた先の駐車場にナオくんの車が停めてあると聞いて、私は10年前、ナオくんが自転車でここまで連れてきてくれたことを思い出した。

「ふふ、ナオくん、自転車じゃないんだ」

 バカバカ。もっと私、気の利いたこと、言えたらいいのに。
 なんでそんなことばっかり言っちゃうんだろう。
 今、隣りにいるナオくんは、私の知っている15歳の頃のナオくんじゃないのに。

 ナオくんは微苦笑を浮かべると、15歳の頃と変わらない仕草で肩をすくめた。

「そうだね……。『大人になったから』」

 ナオくんは助手席のドアを開けると、私の背を押す。
 そして、自分も運転席に乗り込むとゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
 夜の町を、静かに車は、滑るように動き始める。
 オーディオは小さな音でショパンを奏でている。

 今まで、ナオくんと言えば、小さい頃のナオくんと、そして中学校の制服だったナオくんが目に浮かんだけど。
 スーツ姿のナオくんは、何度も見ても慣れない。まだ威圧感がある。
 『ちいねえ』って私を呼んでくれる声も、少し、ううん、かなり大人っぽい。

 ナオくんの運転する車は、穏やかな速度で夜の街をすり抜けていく。

「ちいねえ。聞いてもいい?」
「う、ん。……なにを?」
「10年前の今日から今まで、どうやって過ごしてきたか。……ちいねえが幸せだったかどうか」
「ナオくん」
「さっき、『幸せ』、って言ったよね。……今、恋人がいるの?」

 私は、ナオくんの迫力に押されるように、ボソボソと話し始めた。
 10年前のナオくんとの話から、まず1歩を踏み出してみようと思ったこと。
 社内の昇級試験に挑戦したこと。転職したこと。
 4年前からはドイツで金と宝石の買い付けをしていること。
 ──── そして。
 ……今、ドイツで知り合った男性に結婚を申し込まれていること。

「……そうなんだ」
「まだ会って2回目か3回目の人なの。自分でも驚いてて。その、私……」
「ちいねえは、その人が好きなの?」

 ナオくんは淡々とした口調で聞いてくる。
 時の流れは、万人の上に平等に流れていくモノだと思うのに。
 ナオくんの上に流れた10年は、私の倍のスピードで過ぎていったらしい。
 ナオくんの態度は、潔くて、鋭くて、少し痛い。

「……嫌いじゃない、と思う」
「ねえ、覚えてる?」
「はい? 何を……?」

 車はするすると海岸沿いに辿り着くと、ナオくんは私を車の外へと連れ出した。
 満天の星が、プラネタリウムのように空に広がる。
 遠くに観光船が、空と海を隔てる直線を作っていく。

「──── 10年前の、オレの言葉。
 『ちいねえが幸せじゃなかったら、オレが幸せにすればいい。
  もしも、幸せだったら、……オレがもっともっと幸せにする』って」
「……うん。覚えてる」

 覚えてる。なんて言葉じゃ足りないくらい。
 10年前のナオくんの言葉は、いつも、どんなときだって、私を勇気づけてくれたっけ。
 たとえ、ナオくんの言葉が、現実のものにならなくたって、そんなのはどうでもいい。
 あのときの私に必要だったのは、私のことを見てくれている人間がいるっていう事実だったんだもの。

 ナオくんは私の返事に小さく笑った。

「この10年のオレの努力は、すべてちいねえに向かっていた。だから、結構楽しかったよ。どんなこともね。
 頑張れば頑張った分だけ、ちいねえはオレの近くに来てくれるって思えたから」
「ありがとう。……私も、私もね」

 私は割り込むように口を挟むと、今できる1番の笑顔でナオくんに笑いかけた。

「私も、頑張ったよ? 今度ナオくんに会うときには、ちゃんと元気な私で会いたい。そう思ったから」
「ちいねえ」
「だから、10年前のナオくんにも、今のナオくんにもありがとう、って言いたいよ。
 あのときナオくんが声をかけてくれたから、今の私がいるの。本当だよ?」

 ナオくんは面食らったかのように私を見て、どういうわけか、ふっと目をそらした。

「ごめんね。私ね、お礼だけは、ちゃんと言いたいって思ってたの。
 だから、あの場所に行ったの。約束した場所に」
「ちいねえ……。困るよ。反則だよ、それ」
「えっと……。反則って?」

 突然、拗ねたような声がする。
 不思議に思って見上げた横顔は夜目にもわかるほど上気している。

「オレさ、確かにちいねえに『人生勉強しておいて』とは言ったけど。
 ちいねえ、10年前よりいいオンナになってる、と思う」
「はい? な、なに、言って……っ」
「……オレも、スタートライン、立てるよね?」
「え?」
「ちいねえにプロポーズしてるヤツと。オレ、同じ位置に立てるよね?」

 ともすれば幼い頃そのままの、私に確認を求めるような話し方に、頬が緩んでくるのを感じる。
 幼稚園の頃の、地団駄踏んでるナオくん。
 中学の頃の、ひょうきんなナオくん。
 そして今。すっかり大人になったと思っていたナオくんに、幼い頃の片鱗を見る。

 私の態度にナオくんも緊張が解けたのだろう。
 ナオくんはそっと私の身体を引き寄せると、腕の輪の中に入れた。

「10年前のオレって、横柄だったね。『オレがちいねえのことを幸せにする』なんてさ」
「ううん、そんな。だって、私、嬉しかったよ?」
「違うよね。っていうか、オレの中にもエゴがあったって今、気づいた。
 オレ、ちいねえを幸せにするのはもちろんだけど、オレもちいねえと幸せになりたい。
 2人で、幸せになりたい」


 ずっと、閉ざされていた扉が、鈍い音を立てて開いていく感覚。
 かすかに漏れた光は、1つの点から線になり面になり、周囲を取り囲む。

「ちいねえ。……10年前みたいに、もう、オレを拒絶しないで」





 上からナオくんの唇が落ちてくる。
 私はナオくんにそっと自分の身体を委ねた。
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