↑rensenki-TOP / ↑site-TOP
*...*...* 仙女の手 *...*...*
「亮、早く逃げるんだ。逃げて……、母上と、家族を頼む」
「父上!!」
「この小さいの、どうしますか? ……洗脳するにはちょいと年喰ってるな」
「顔を見られてるからな……。面倒だ。殺せ」
 
 薄曇りの山中、銀色の刃が蝶のように翻る。逃げなきゃいけない。頭でわかっているのに身体は言うことをきかない。
 振り下ろされる槍の輝きが不自然に綺麗だと思った。刃先には父上の血がべったりと張り付いている。
 今、この槍先が翻ってボクの身体に刺さったなら、ボクの身体には父上の血が入るのかな。その想像はボクを恐怖から掬う。だったら全然怖くない。それに痛くないはずだ。父上はボクの憧れだった。たった今、殺されるこの瞬間もだ。
 
「父上……?」
 
 刺されることを覚悟して目を閉じたボクが再び目を開いたときに見たものは、槍に身体を突き抜かれ、微かに痙攣を繰り返している父上の横顔だった。
 
「亮。……逃げるんだ」
 
 生温かい手が背中を伝うやいなや、ボクは弾かれるようにして走り出す。そして考える。
 どうして賊を取り締まっている父上が、こんな目に遭うのか。店がつぶれて、人がいなくなって、不作が続いて。どうして今は、こんな風に生活が悪いほう悪いほうへと流れていくのか。
 どうして正しいことをしている父上が、正しくない人に殺されなくてはいけないのか。
 ボクがもう少し大人で、あの賊たちを倒す力があったなら、父上は殺されずにすんだのかな。
 無力なのはもういやだ。頭からぬるりとしたものが流れ落ちる。怪我なんてしてないはずなのにどうして、と手の甲で拭えば、それは父上の血糊だった。
 
「亮、……今お前はなにをしようとしている?」
 
 亡くなったはずの父上は、思いのほか優しい声で問いかけてくる。
 
「母上の許しも得ないでこんな遠くにまで来て。……まったく困った奴だ」
 
 父上を殺した仲間とともに洛陽を目指す行軍。父上からしてみたら、洛陽へ向かう黄巾党に付き従うボクは、自分を殺した仲間と息子が手を組んだ構図そのものだ。
 父上に伝えたい理由はたくさんある。知らなかったことを知るため。なにが正しくてなにが正しくないか、ボクの目で確かめるため。
 あのね、この反乱軍を指揮している花が言うんだ。
 
「亮くんのお父さんが殺されてしまうこの世の中は嫌い。許せない」
 
 って。
 ボクは見てみたい。花が望む世界はなんなのか。
 今のボクはなにもわかっていない。わからないことがなんなのかがわからない。今、この国に起きているいろいろなことを理解するためには、今ボクが持っている知識では全然足りない。
 父上はいつも正しいことを行っていた。今までのボクはそれを疑ったことなんて一度だってなかったよね。だけど、今のボクは考える。父上は正しかった。だけど、黄巾党のみんなも正しいんじゃないか、って。女の人や子どもが大切に守られているこの行軍は、とても正しい。だけどこの二つの正しさの違いが、今のボクにはわからない。負けず嫌いなボクが、わからないことをそのままにしていられないこと、父上ならわかってくれるよね。
 
「父上、ごめんなさい。ボク……」
 
 だから、ごめん。どうか許して。
 ボクは父上が亡くなった理由が知りたい。父上が亡くならないですむ世界というのはどんな世界なのか。どんな秩序の中、人々はどんな顔をして暮らしているのか知りたい。
 知って、ボクが本当にやるべきことはなんなのか見つけたいんだ。
 
「亮、お前は……」
「……う、うわっ!」
 
 父上の大きな手が伸びてくるのを力任せに突き飛ばして目が醒める。墨を流したような暗闇の中、声の大きさに一番驚いているのは自分自身だ。目が慣れるにつれおぼろげに天井が見えてくる。
 ……これは、家の天井とは違う。白い布。組木に巻かれた紐。……天幕? 天幕って……。
 
「亮くん? 大丈夫? どうかした?」
「花……?」
「待っててね。灯りは、どこだっけ……。あ、あった」
 
 隣りで眠っていた花はてきぱきと火皿に油を入れると、そろそろとボクに灯りを近づける。朝起きるのは行軍の中で誰よりも遅いのに、こんなときはきりりと立ち働く彼女が珍しくて、ボクはぼんやりと彼女が作る影を目に映す。
 
「大丈夫?」
 
 大きく下がった八の字の眉が彼女の心配ぶりを語ってる。背中を伝う汗が気持ち悪い。こんな夢を見るなんて、あちらの世界で父上が怒っているからなのかな。
 
「すごい汗だね。着替え、しようか?」
 
 ボクの額に浮かんだ汗を見て、花は前の日に干しておいた胴着を手渡してくれる。元の世界で花に弟がいるんだなって感じるのはこういうときだったりする。
 本当に花は不思議な人だ。
 ボクの年頃の子どもの扱いにとても慣れている。でも、晏而や李翔のような男の扱いには慣れてない。自分が今、男からどんな目で見られているか分からないくせに、こういうときは手際がいい。長平の戦いで、趙括がとった行動は説明できないくせに、戦がなくなるための方法は思いつく。行動がちぐはぐで、年下のボクから見てもかなり危なっかしい。そのたびにボクは彼女のことを尊敬したり、そわそわしたりするのに忙しい。
 
「はい。お水も。……まだ夜明けまでには時間がありそうだから、もう少し寝よう?」
「……うん」
 
 ボクに着替えをさせ、水を飲ませ、掛布をかけると、花はにっこりと微笑んで灯りを消した。またさっきのような暗黒が迫ってくる。
 
「ねえ、花」
「なあに?」
 
 目を開けているのか閉じているのかわからない暗闇の中、ボクは花の香りを手がかりに手を伸ばす。……怖いのかな。なににボクは恐怖を覚えてる? 無知なこと。この時代のうねりのようなもの。黄巾党の人たちの死を恐れない真っ直ぐな目。父上の血しぶき。なんだろう。
 すぐ横にある花の面輪が白くぼんやりと浮かび上がる。ボクは丸みを帯びた頬に手を伸ばした。指が触れるか触れないか。中指がかろうじて彼女の頬を掠った。
 
「んー。亮くん、怖い夢でも見たのかな?」
 
 花は伸ばされた手に気づくと、ちょっと待っててね、とつぶやいて、ボクの手をそっと元の位置に戻す。
 ごそごそと敷布に触れる音。背負ってもらった山道で感じた香りが近づいてくる。
 目を凝らすのではなく、気持ちを凝らす。柔らかな空気。小さな、子守歌を歌うような優しい声がする。
 
「今日は隣りで寝よっか? ……はい、どうぞ?」
「花?」
「手はこっちね」
 
 彼女は身体を横向きにすると、ボクの手を両手で握った。
 
「──── 亮くん。大丈夫、大丈夫。……怖くない。怖くない」
 
 しなやかな真っ白な手は、彼女が仙女だと噂が立つのも当然だと思えてくる。
 日頃はあまり感じない甘い香り。それが、この距離だとはっきりとわかる。こんな香りをボクは今までどの女の人にも感じたことがなかった。彼女はよく湯浴みをする。そのせいなのかな? すっきりとして甘いその空気を取り込みたくて、ボクは思い切り深呼吸をする。
 花は一瞬だけ首を傾げると、ボクの手を片手に預け、もう片方の手を髪の毛に這わす。普段一束だけぴょんと飛び上がっている髪は、このときだけは従順に彼女の指に従った。ボクはその気持ちよさに眼を細める。
 
「ねえ。……花は、怖く、ないの?」
「……怖い、よ。……ときどきどうしていいかわからなくなる。泣きたくなることもある」
 
 亮くんの前だから言っちゃうけど、みんなには内緒だよ? と彼女は首をすくめた。その仕草はやけに幼くて、黄巾党を率いる張宝さんと話をする彼女とはまるで別人だ。
 
「だけど、決めたことがあるの」
「決めたこと?」
「……私は、この世界から戦をなくしたい。もう、亡くなる人を見るのがいや。亡くなった人の家族を見るのもいや」
 
 燃えた人が、船からどんどん落ちていくの。逃げ場がないの。苦しそうに水を求めて長江に飛び込むの。だけど誰も浮かび上がってこないの。
 彼女は湿った声で、「あんな死に方は、絶対駄目なの」とつぶやいた。
 花が片時もそばから離さない『本』。その『本』の後ろの方を開いて、時折彼女は涙ぐむときがある。だけどそれに気づいているのはボクだけだ。彼女は『本』から顔を上げるときはいつも笑ってる。なんでもないふりをして笑う。だから今だって暗闇を味方にして泣いてるんだ。
 
「今の私にできることはほんの少しかも、だけど、頑張るの。亮くんのお父さんが亡くなったことが無駄にならないように。できることをするの」
「父上の?」
 
 『父上』という言葉に思わず心臓が跳ねる。ボクは夢の話なんて一言もしてないのに。仙女の手は今もボクの髪を梳いている。この手には人の気持ちを読み取る能力があるのだろうか。
 
「あ、……ごめんなさい。思い出させちゃったかな」
 
 身体が固くなったのを察したのだろう。彼女は握っている手に力を込めると、大切なものを扱うかのようにそっと頬の下に滑り込ませる。そして、明日はきっと二人で朝寝坊だね、と小さな声で笑った。  
*...*...*
「まあ、まずは結婚おめでとう、だよね。晏而」
「なんだよ、亮。なにお前、晏而なんかに景気よく、おめでとうなんて言ってやがるんだ? こいつはまたオレを差し置いていきやがったんだよ。まただよ、また!」
「あー。亮。すっかりできあがってる李翔は放っておいてだな。なんだ? 遠方から呼びつけて悪かったな。これでも食えや」
 
 明日は晏而の結婚式だという日。ボクは晏而から書簡をもらい、こうして許都と目と鼻の先の街まで来ていた。
 もらった書簡の中にはたどたどしい字が踊っていた。字というのは読みやすいのが良く、美しければなお良い、という考えでいたけれど、それはボクの誤りだったかもしれない。読みやすくなく、美しくもない文字。でも心を打つ文というのは存在する。晏而の書簡はまさにその類のものだった。
 
「ありがとう。もうかなりいただいたよ。お料理上手な奥さんでなによりだね」
「って、お前も大人になったな、おい。なにこまっしゃくれたこと言ってやがるんだ」
 
 確か、黄巾党の行軍で洛陽に向かっていたときには、晏而も李翔も字は書けなかったはず。
 孟徳の動きと青州兵の様子について必ず状況を伝える規律を作ったのが功を奏した、というところかな。
 
「それで、どう? 最近の様子は」
「ああ。南方にいるお前だって、風の便りに曹孟徳の話は聞くだろう? まあ目から鼻に抜ける御仁よ」
「なるほどね。二心を抱く者を瞬時に見抜くって?」
「恐ろしいほどにな」
 
 晏而はぶるりと背中を震わせると、苦り切った顔で話を続ける。とかく曹孟徳は好き嫌いが激しい人柄であること。二代に渡り忠義を尽くす者よりも、先祖どころかその人自身の半生もわからない者も平気で登用すること。二心を持った者は即座に首を撥ねること。
 
「首を撥ねるって穏やかじゃないね」
「撥ねるくらいなら一瞬だろ? 痛いも痛くないもねえ。まだいいじゃねえか。この前なんざ、生きたまま野犬に食われた官史もいたってよ」
 
 晏而の話をまとめるに、どうやら曹孟徳は人格卑しからぬ人物、というわけではないらしい。この手の話、こと人物評という点において、花はどの権力者のことも友だちのような親しさで呼んでいたっけ。文若さん。孟徳さん。玄徳さん。彼女から言わせればどんな人間だって、欠点なしの優しい人ということになる。そういえば劉玄徳といえば、最近何度か名声を聞く。今度調べてみようか。
 ボクは花の話を思い出しながら、晏而に酒を注いだ。
 
「そういう人間は、かえって扱いやすいよね」
「は?」
「単純に治世する人にとって利になることを行えばいいんだ。こちら側の明示的な指針を示して、ある一定以上の結果を出す。そうすれば相手は言い返せないだろ?」
「って、亮。俺たちはいつまで孟徳軍に属しているんだ?」
「……これから孟徳はますます勢力を伸ばして北方を支配する。あと、三年か四年か。そんなものかな」
「そんなに先か? まあ、おいそれと戦いのない世の中なんぞできないと思ってたけどよ」
 
 ボクは再び煮物に手を伸ばす。ちょっと辛めの味付けは、酒となら上手く調和するのだろう。晏而は美味しそうに何度も箸をつけている。
 
「それでよ。お前のいう軍律とかを青州兵の中では徹底させているんだ。あれはいいな。不公平感がないと評判は上々だ」
「そう? それはよかった」
「洛陽へ向かう行軍も、道士様の一言で、一気に足並みが揃ったもんなあ。お前、あれを真似てるんだろ?」
 
 あれはボクの案だというわざわざ告げる必要もない、とボクはだんまりを決め込む。
 ある規律にしたがって、正当に評価する。世襲は関係ない。正しい者には報償、破った者には罰則を与える。目に見える指針は兵の規律を生み、やる気も高まる。
 黄巾党の行軍でそれを実感したボクは晏而が率いる青州兵にも同じことを課していた。ただ、この軍律にも状況に応じた微修正が必要だ。ボクは二、三気づいたことをまとめ軍律を補正するようにと晏而に伝えた。
 
「了解っと。忘れないうちに、書き留めるか」
 
 晏而はじっとボクの顔を見つめたあと、無骨な字でボクの言ったことをしたためていく。軍律のことを一番の懸念事項だったのだろう。伏し目がちな顔は真剣で、酔いが醒めたような目つきをしている。
 ある一定の熱さと評すればいいのか、ボクと晏而の間には、同じものに恋い焦がれている同士のような熱を感じる。飢えのない国。戦いのない国。晏而と、ボクと、彼女が目指している平和な国を作るのだという思いだ。
 
「はー。これでよし、っと。……それにしてもよ」
 
 晏而は長い時間をかけて書簡を書き終えると、やれやれといった風に相好を崩した。
 
「お前さぁ、洛陽への進軍の間、道士様と一つ屋根の下っていうのか、一つ天幕の下、ってのか、俺たちが知らない道士様の姿も見てたんだよなあ」
「いきなりなにを言い出すかと思えば。……まあね。聞きたい?」
 
 彼女の上着を借りて、晏而の告白を受けたことを思い出す。
 あのときの彼の声は真剣だった。真面目に働く。花に辛い思いはさせない。真剣味を帯びた声が低くなればなるほど、僕は彼女にこの声を聞かせなかったことに安堵した。人を信じることに長けていた人だ。もし彼女がこの告白を聞いたなら、あっさり情に流されていたかもしれないし。
 
「はぁ! ってお前、道士様のなにを見たんだよ? あの細っこい肩とか、その先まで見ちゃったりなんかしたのかよ?」
 
 案の定、ボクの言葉に晏而は色めき立つ。その声を聞いた李翔までむにゃむにゃと細い眼を開けた。
 
「道士様ってなんか良い匂いがしたもんなあ。お前、ホントにいい年齢だったぜ? 小さすぎもせず、大きすぎもせずってさ」
「なにそれ?」
「もう少し小さかったらあの進軍についていくのは無理だっただろうし。逆にもう少し大きければ、お前は俺たちと同じ天幕の中で寝起きしていただろうしな」
「年なんて関係ないよ。ボクと彼女は師弟の間柄なんだから」
「かー。なんか都合がいい言葉だよな。師弟ってさ」
 
 『こ、この子は、弟子なんです! 道士見習い、みたいな』
 狼に黄巾党の食料庫を襲わせたボクを守るのに、あたふたしながらみんなに説明していた花の横顔が目に浮かぶ。ボクを守るために必死についた嘘。元々嘘をつき慣れてないんだろう。少しだけうわずった声が懐かしい。
 
「今日は晏而たちと話せてよかったよ」
「はぁ?」
「話せて、よかった」
 
 邪心もなく本心でそう告げる。話せて、よかった。本当だ。こうして彼女の話をできることが、彼女が存在していたことを感じられることが、素直に嬉しい。
 李翔は残念そうに空になった盃を恨めしそうに見つめると、道士様、元気でやってるかな、と独りごちている。
 
「あれから五年、か。俺たちも老けたように、道士様だってしわくちゃのばあさんになっているかもしれねえなあ」
「李翔、てめえはまた余計なことを。道士様は仙女だったんだ。年なんぞ取っちゃいねえよ」
「あの色気のない顔といい、控えめな脚といい。なあ、亮、お前、自分の中で、こう道士様を崇め奉っちゃったりなんかしてんじゃねえの? ははは」
 
 酔った勢いか、だらしなく伸びきった口元からは酒の雫がこぼれ出す。
 
「つーか、今頃は人妻にでもなって少しは色っぽくなったのかねえ。……った!!」
「李翔。……それ以上変な想像したらただじゃおかないよ?」
 
 ボクの剣幕に李翔は大げさに頭を抑えて床を転がる。
 まったく。花がおばあちゃんというのは許せても、色っぽいとか人妻とかいう想像は許せないんだけど。花のそういうことを想像していいのはボクだけだ。
 
「なあ、亮。……お前はいつまで道士様を待ち続けるんだ?」
「晏而?」
「俺はちゃんと区切りをつけたぜ? 道士様のことは諦めた。明日は別の女と結婚する。身の丈に足りたいい女だ。俺のことを誰よりも思ってくれている。俺の子を産むと言ってくれる。それで俺は充分だ」
 
 しみじみとした口調に、さすがの李翔も口を挟むことなく、ボクと晏而の顔を交互に見比べた。
 いつまでなのか? 待てば会えるのか。そんな問いかけは幾度したか数え切れない。少しでも未来がわかるならと星読みに夢中になったのも彼女に会える日が知りたいからだ。彼女の天命も、ボクの天命もまだ巡り続けている。だから、ボクは待つ。彼女と再び出会える日を待ち続ける。悪友にはさんざん呆れられたけど、かまわない。ボクはボクが納得するまで待ち続けるんだ。
 ボクは薄く笑い顔を作ると晏而を見上げた。
 
「まあ、なに? 晏而は結婚して一抜けた、ってところなんだよね?」
「は?」
「権力者でもない限り、妻帯者が別の妻を娶る権利はないしね。大体晏而の稼ぎだと二人の妻の世話は難しいだろ?」
「て、てめぇ。言うに事欠いてなに言い出すんだ!」
「……ボクはこれからも彼女を待ち続ける」
「いつまでだ? 死ぬまでか? お前だって、家を継ぐ子どもの一人や二人必要だろうが」
「ボクは花がいい」
 
 ボクの返事に晏而はあっけにとられたように黙りこくると李翔と顔を見合わせている。ボクは黙って水の入った杯を手にすると、小さく息をついた。
 そしてそのままじっくりと自分の手を見つめる。五年前よりも確実に伸びた身長。腕もその分長くなった。手も大きくなった。今ならきっと彼女よりも大きい。
 今のボクだったら、父上を助けることができたかもしれない。彼女の手を放さないですんだかもしれない。
 『本』が光り出す。彼女の身体が浮かび上がる。みなが仙女だと言っていたのは事実だったと思ったのは、浮かび上がった彼女の身体が、白い上着が、彼女の身体を纏うように輝いていたからだ。ボクの髪を撫でた白い手が離れていく。
 今なら。出会ったのが今なら、ボクは彼女を手放さなくてすんだのに。
 喉の奥からせり上がってくる熱い固まりをぐっと飲み込む。飲みきれなかった一部分が鼻を通って目頭を熱くさせる。
 ──── ボクは、花が、いい。
 どうしてどこにもいないの? どこかで青州兵の動きは聞いてる? ねえ、早くボクのところに戻ってきてよ。
 
「亮、大丈夫か? お前、酔っぱらったのか? ……しょうがねえなあ。こっちの敷布の上で寝な」
 
 ぶっきらぼうなくせに優しい声がする。晏而の言葉に乗っかるようにボクは敷布に滑り込んだ。
 
(あなたは今もボクの師匠だ)
 
 ねえ、花。やっぱりさ、弟子は師匠に似るんだね。
 どうやらボクはあなたみたいに、泣いているのを隠すのも上手くなったみたいだ。  
↑rensenki-TOP / ↑site-TOP