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 彼女が、一瞬困惑したように眉尻を下げる。俯いたとたん、天幕の灯火は彼女の髪色をさらに薄く輝かせた。 自分の手の平を握ることしかできないボクの手は、自身が立てた爪の痛みを伝えてくる。
 ねえ、今ボクが晏而や李翔みたいに大人の身体を持っていたなら、ボクの手は彼女の髪を撫でるために使えたのかな。 ボクと彼女は一定の距離を保ちながら、ボクは彼女を見上げ、彼女はボクを見下ろしている。 白っぽい天井に、ボクの作る影だけが不機嫌に揺れている。
 
「花は、戻るの?」
「……うん。いつかは戻らなきゃって思ってる。助けたい人がいるから」
「じゃあ、その人たちが無事なら、ボクや晏而や、黄巾党の人たちはどうなってもいいの?」
 
 駄々っ子のような声変わり前の声。 ああ、これはあと数日で洛陽に到着する夜だ。 彼女の困った顔を可愛いと思い、また心苦しいとも思った。 まだ自分の言葉で相手を動かす能力が足りなかったころとはいえ、ただ自分の欲を押しつけるだけの物言いは褒められたものじゃない。
 彼女はボクの言いぶりにたじろぐと、あちこちに目を泳がせた。
 
「どうでもいいわけじゃないよ。……でも、私は玄徳さんたちを助けたいの。 この世界で私に初めて居場所をくれた人だから」
「玄徳さん……。あなたはよくその名前を挙げるね」
「私ね、……いつかこの国を、戦のない平和な国にしたいって、そう思って」
「だから、それはここじゃできないの? ボクがあなたのそばで手伝ってもできないの?」
 
 ボクは幾度も彼女に食い下がる。 そうだ。張宝さんに軍律を定めるように提案したこと。 兵の統制。 報償の基準。 計量的な賞罰。 ボクだって黄巾党の軍の体裁を整えていくのに、少しは役に立てたっていう自負がある。
 帳宝さんもいる。ボクも花も。あと晏而と、李翔。 青州兵のみんなで力を合わせていけば、やがて花の目指す『戦のない世界』っていうのは実現する。 だから、花は元の世界になんて戻らなくたっていいんだ。ここの世界にボクと一緒に居ればいい。
 
「亮くん……」
 
 花は根負けしたように口端を少しだけ持ち上げる。 そして痛みに耐えるような弱々しい微笑を浮かべた。
 
「この世界でも、なにか私ができることがあるかもね」
 
 自分の思いどおりの言葉を引き出したっていうのに、ボクの気持ちはまた駄々をこね始める。 ボクは彼女のこんな顔を見たいんじゃない。 同情なんてまっぴらだ。 ボクの言うことを信じて、頼って、ただ笑って欲しかっただけなのに。
 ボクはそこで、いつも歯の奥を噛みしめる。
 彼女を説得する術を知らない幼い自分も、彼女のウソをそっくりそのまま信じられるほど幼くない自分も、どちらも憎悪するほど大嫌いだと。
*...*...* 祈りのような、願いのような *...*...*
「……んー。やっぱり夢かぁ。それにしてもよく寝たー」
「兄さん、おはよう。士元さまはまだよく眠っているみたいだよ」
 
 隆中の草庵で、すぐ下の弟、均(きん)とともに暮らすようになってかれこれ一年。 幼いころから、若い時分の父上にそっくりだという均は、終始穏やかな表情でボクのやることを認め、補佐してくれる。 ともすれば変人という名で評されるボクよりは、ずっと一角の人物になれるかもしれない。
 ボクはすぐ隣りで眠りこけている士元の掛布をかけ直すと、思い切り一つのびをした。 日頃、変化のないこの暮らしを取り立てて淋しいと感じたことはないけれど、旧友が、しかもかなり親しい旧友が尋ねてくるっていうのは悪くない。いやかなり嬉しいことなんだと、士元の寝顔を見ながら殊勝なことを思ったりする。
 
「あー。均、おはよ。士元はしばらく放っておいていいよ。こいつ明け方まで飲んだくれてたから。ちょっとゆっくり寝かしてやって?」
「はい」
「……今日も雨かー。古い兵法の書にも得るものはあるとは思うけどさぁ。 そろそろ自分に新しい風を吹き込んでもいいころかもね」
「晴耕雨読の生活を送るって豪語していたのは兄さんじゃない。今は、雨読にぴったりの季節だと思うけど」
 
 弟は苦笑を交えてそう告げると、きびきびと立ち上がって水場に立つ。どうやら昨日収穫した粟を干す作業をするらしい。
 
(花……)
 
 それほど深酒を煽ったつもりはなかったけれど、久しぶりに夢で彼女に会えたことが素直に嬉しい。今のボクならどうやってこの年上の女性の決心を覆すかな、なんて、またとりとめのないことを思う。 ボクは幾度となくこうして夢の中で、同じ過去をなぞってはため息をつく。
 繰り返すという行為は、とかく描写の細部を緻密にしていく。 あのときの彼女の髪の掛かり具合。 頬の線の美しさ。 ボクの反論に防戦一方の彼女が、なにか考え込むたびにかすかに首を傾げる様子。 困った顔が可愛くて、それ以上にもっと彼女を近くに感じていたくて、あのときのボクは彼女にいろいろなことを尋ねていたと思う。 結婚を約束した相手はいるのか?  気になる相手はいるのか?  二つの問いかけに彼女は首を左右に振るばかりだったけれど、頼りにしていたり、尊敬していたりする人はいるのか?  と尋ねたとき、彼女の目に生き生きとした光が宿ったのを覚えている。 そしてそんな感情を浮かばせる『師匠』という存在に嫉妬したボクも。
 
(もうすぐ、会えるだろうか)
 
 星読みの勉学に励んで九年。 彼女の天命と思われる朱い星は、ここ数日かつてない光を放って夜を照らす。 劉玄徳の天命の星もだ。 『玄徳さん』、『孟徳さん』、『文若さん』彼女が口に乗せた人名が、ちまたで漏れ聞くようになって久しい。
 
(──── ようやく、彼女はこの世界にくる。ボクの近くにきてくれるんだ)
 
 そろそろ昼餉でも、と均が準備を終えるころになってようやく士元は頭を振りながら起き上がったらしい。穀物と野菜の育ち具合を村人から聞く作業から戻ってきたボクに悪友は、何度も同じ言の葉をのぼらせている。
 
「それにしてもまあ、お前もこんなところでなに優雅な隠遁生活を送ってんだか」
「ひどいなあ。ボク、別に優雅でもないし、隠遁しているつもりもないよ」
「とは言え、お前はあの名声名高い伏龍先生だろ? なにか考えがあるのかって、つい深読みしちまってさ」
「んー。住めば都っていうの? ここでの生活もなかなか楽しいよ。晴耕雨読っていうか」
「がーー。ってかそんな生活はもっと年喰ってからでもできるだろ?  お前の兄さんみたいにどっか仕官したりだとかなあ」
 
 かつて兵法を初め、作戦、謀攻、さまざまな分野で議論した学友は、ボクの現状に不満を感じているらしい。 ボクの今までの行動はすべて彼女を師として仰いだことに起因する。だけど、今この世界にいない存在をどこまでどう話せば伝わるのか。伝えることで、彼女の神聖さが俗にまみれるのを本能的に避けているのか。いや、だからといって、ボクが士元の存在を軽んじているわけじゃないんだけど。
 
「いいんだよ、ボクはこれで」
「またお前はなんか深く考えすぎてるんじゃないか?  やれやれ頭の良いのも考えもんだなあ。 ……っとそういえば亮、お前こんな話、知ってるか?」
 
 話しているうちに頭が覚醒してきたのだろう。士元はふと真面目な顔になってボクを見上げてくる。
 
「なんでも風の噂で聞いたぜ。曹孟徳が完全に北方を掌握したとかってさ。 今は、『丞相』という名乗りの元、あちこちの県令に書簡を送り始めたってよ」
「へぇ?」
「曹孟徳の知恵者なところは、あくまで天子さまを天子さまとして扱っているところだ。たとえ傀儡であっても、自分自身が天子さまに成り代わろうとしないところが俺はエラいと思うぜ? あんな風に振る舞えば、漢王朝に忠誠を誓っているやつらも容易に牛耳ることができるだろ?」
「うーん。なるほどね。名を捨て実を取るって戦法かな。……もっとも曹孟徳が現状の地位に留まっているとは思わないけど」
 
 『丞相』。君主を補佐する最高位の官吏のことだ。曹孟徳さん。玄徳さん。文若さん。まるで友だちみたいに親しげに話していた彼女の口元が目に浮かぶ。それと同時に使用人が言っていた言葉も。
 
『それにしても坊ちゃんが連れて来た娘はおかしなことを言っていましたねえ。 あのとき確かに、
 『今の丞相は誰ですか?』
 って私に尋ねたんですよ。丞相なんて位は聞いたことがございませんでしょう?』
 
 曹孟徳が北方を支配。丞相と名乗り始めた。彼女の天命を示す朱い星。少しずつだけど確実にボクの中の符丁が合わさっていく。
 
「お前がこんなところに引っ込んでからっていうもの、学舎では大騒ぎよ。恩師も、今まで全部お前に答えてもらっていた案件を全部俺に押しつけてよ」
「ああ、よかったじゃない。どうせ君の人物鑑定を以てして、上手いこと先生を転がしたんでしょ?」
 
 ボクは軽口で悪友をいなす。士元は友人でも師匠でも、自分を取り巻く人物をいつも過大評価することで有名だった。『期待して裏切られたら自分が惨めだ』という意見する者に対して、士元の答えは淡々というよりも飄々としていた。
『こんな混沌とした時代に、俺の一言で人が動くならそれでありがてぇじゃねえか。損して得取れじゃねえけど、口くらいタダだろう?』 と笑っている。ボク自身は根拠のない評価など評価でも何でもなく、ただの世辞だと思う人間だが、なるほど、人を動かすという点で士元の策は悪くないとも最近は感じ始めていた。
 
「いんや。俺の人物鑑定を以てしても、こう言っちゃなんだが、先生よりもお前の方が遙かに能力が高い。師を追い抜く弟子っていうのも悪くはないけどよ。今は時代が悪いよなあ。見通しが立たなさすぎる」
「──── そうかな」
 
 彼女とともに過ごした中で、そもそも彼女はどこから来たのか。 いつの時代から来たのか。 そんな基本的な問いかけをボクは何度かしたけれど、彼女の口から明確な答えはもらえなかった。  だけど彼女が何気なく告げた三人の名。丞相という位。指し示す未来は確実に彼女に近づいている。……戦のない国。平和が当たり前のように享受できる国だ。
 士元は浮かべていた笑みをそろりと懐にしまい込むと、じっとボクの目を覗き込んだ。
 
「で? お前はまだ伏龍の名のとおり、伏せたままでいる気なのか?  南方で名前をとどろかせた伏龍先生様だ。 あちこちから仕官の声はかかってるんだろう?」
「んー。まあ、ね。一つ、ボクにとっては興味深い依頼もある」
「お? ついに語る気になったか」
 
 途端に士元は目を輝かせてボクに顔を近づけた。
 
「どこだ? 確かお前の兄貴は、孫家に仕官してるんだろう?  するってえと、孫家にお前が入る込むわけはない。とうとうお前も曹孟徳の傘下に名を連ねるってか?」
「んー。ハズレ。もしボクが仕官するなら劉玄徳さまだよ。 ちょうどこれで二回かな。 もう何度かこの草庵に足を運んでいただいているんだ。 なんと義兄弟まで引き連れてね」
「は?」
 
 悪友は片方の眉毛を挙げると、呆れたように口を開いた。
 
「おい、待てよ。劉玄徳って確かどっかで聞いたことがある。 たしか、最近荊州牧になった劉景升の下にいる」
ただの食客じゃねえか。なんたってお前そんなところに……。と士元は二の句も告げられないらしい。酔いも覚めたような顔でボクを見上げている。
 
「そうだよ。さすが士元、ご名答」
「ってか、曹孟徳と比べたって、孫家と比べたって、どうしてまあ、お前そんなやつに肩入れするんだ?  月とすっぽんってか、天と地というか。全然規模が違うだろ?」
「まあねー。でもなかなか仁徳のあるお人柄と聞くからね」
「ああん? まあなあ。小さいところなら派閥もそんなにないだろうし、あわよくば自分の出世も思いのままってか」
 
 悪友は見当違いの判断をして得心顔になると、ようやく相好を崩した。
 北の曹孟徳。南方の孫仲謀。その二将と比べれば、劉玄徳は確かに分が悪い。 彼女の口から『劉玄徳』の名が飛び出していなかったら、ボクもこれほど早くから彼の動きを注視することはなかっただろう。
 だが、ボクを軍師として迎え入れたいという口上と、それに付随する真摯な態度を見るに、なるほど最近の隆起として彼が人の口の端に昇るのはもっとものことのようにも思われた。 ──── 彼には、仁徳がある。人を畏怖させ、ひれ伏せさせるではない。 人の心を慰撫し、励ます力のようなもの。 心の底から彼を慕う群衆が目に見えてくる。
 どうしてみんなはその事実に気づけないんだろう。わからない理由がボクにはわからないままだ。
*...*...*
「かー。ちっとも釣れねえなあ。ここ本当にお前のいう穴場なのか?」
「釣られる魚も人を選ぶってことかな。だとしたら隆中の生き物はボクと同じ知恵者だね」
「はは! どの口がそんなこというんだか。仕方がない。もう少し待ってみるか」
 
 昼餉を終えたあと、ボクは士元とともに隆中の山奥にある小川まで足を伸ばしていた。雨読にぴったりの日だと均は言っていたけど、午後からは晴天に恵まれることはわかっていた。こういう日は、自分の影に怯えた魚が簡単に針に引っかかることも。
 ボクは自分の竿を士元に押しつけると、ひょろりと川縁から立ち上がる。
 
「んー。あ、そうだ。ちょっとだけボクの竿も見てて」
「って、お前、どこ行くんだよ?」
「ごめんごめん。昼寝ー」
 
 ボクは士元にそうやって言い捨てると、ひょいひょいと山の中へと入っていった。多分、彼女は、また同じように現れる。洛陽で、ボクの目の前から忽然と消えたように、まばゆいくらいの光を味方に、今度はここ隆中に降り立つんだ。
 
 曹孟徳は完全に北方を掌握した。いずれ荊州に手を伸ばすのも間近だ。 彼女の唇のように朱く輝き出した星。これらの事実はすべて、彼女がこの地に舞い立つことを示していた。
 ボクは山道を一望できる木に登ると、よいしょとそこに腰掛ける。 通い慣れたその木は今はすっかりボクに馴染むように形を変え、今は敷布さえ準備してある。
 ──── ボクは、彼女に会える。
 ボクの想像はボクにとって都合のよい夢ばかりを見せてきたけど、ここ数日間の星の輝きは、そんなボクの夢を後押ししている。
 会える、だろうか。会えたとき、ボクはどんな態度をあの人に向き合うのか。 あの人は、ボクのことをまだ覚えてくれているだろうか。 九年という年の流れは、彼女を、もっと手の届かない大人の女性にしているだろうか。 尊敬している、と言っていた、神出鬼没で何を考えているかわからない男と婚姻を結んだりしているのだろうか。
 
(う、わ……)
 
 白昼の山中、二度三度不自然な光がボクの目を覆う。霧のような白い膜が少しずつ薄くなっていったとき、そこには何度も夢に描いてきた彼女が立っていた。
 背中に負われたときに見つめた、肩までの髪。ほっそりとした手足。 彼女が身につけていた珍妙な装束。
 木から降りよう。 降りて彼女の前に立つ。 そして言うんだ。 ずっと会いたかった。 あなたはどこにいたの?  どうしていたの?  あの洛陽から、今ここに辿り着いたの?
 ボクの目の前から忽然と消える直前、あなたは言ったよね。
『ごめん、私、行かなくちゃ』
 って。
 戦はね、まだ全然無くなっていないよ。 いや、むしろ増えている。 負の連鎖は負を生んで、人々はますます苦しんでいる。 でもボクは戦がない世界を願ってここまでやってきた。 九年前の亮くんよりも、今のあなたを助けることができると思う。 そう信じてやってきたんだ。
 
「は……」
「かなー、彩ー。先生、いない? 誰もいないの?」
 
 不安げな彼女の声に、彼女を呼びかけようとした声は舌先で止まる。
 怯えきった声。頼りない足取りは生まれたばかりの鶏よりもまだ幼い。 ボクの中に生まれた違和感がボクの内側を引っ掻く。
 ──── この子は、誰? 花、じゃないの?
 ボクは口調を改めて問いただす。
 
「娘、お前の名は?」
「えっと……。山田花って言います」
 
 華奢な後ろ姿は、あどけない声で返事をする。ボクはそれを木の上から凝視した。
 名前は同じだ。姿形も、九年前と変わらない。 いや、不安げにあちこちと見渡している様子は、九年前より遙かに幼い。 ボクがかつて彼女に感じた『意志の強さ』<というのは、今、目の前の彼女の上にはまったく存在していない。 顔つきも、まだ意志を持っていない人形のようにただただ幼い。
 この子は、花であって花ではない。 ボクはそう結論づける。だったら、途方に暮れた迷子のようなこの子は、一体誰なの?
 ボクは目の端で自分の足を捉える。 九年前に負った傷はかなり薄くなっていて目を凝らさないとわからないくらいだ。
 ……そうだ、この違和感は、九年という時は彼女の上に流れていないっていう事実?
 ということは。
 ボクの中に閃くものがある。
 ──── もしかしたら、彼女は奉高に来る前の彼女?
 
(助けたい)
 
 ボクの中に生まれた新しい感情に、ボク自身が驚く。 ボクが、奉高で、洛陽に向かう進軍の中で、あなたに助けられたように、今のボクは、あなたに似たあなたを助けたい。 ボクが今ここにこうしているのは、師であった彼女のおかげだ。 だったら、今度はボクがあなたの役に立ちたい。
 
「あ、あの?」
「あ、あー」
 
 でもどう伝えれば伝わる? 彼女は理解できる?
 なにを言うのか。なんて言うのか。ボクは彼女を知っている。 多分、未来の彼女を知っている。 だけど、彼女はボクを知らない。彼女とボクの間で交わされたやりとりさえも知らない。
 
「あー、我は導きし者。お前は何に惑うている?」
 
 彼女の視界に認めてから今までの一瞬のうちの思いつきをまとめつつ、ボクは彼女に二三の問いかけをする。 彼女は時折言葉を詰まらせながらも、ボクの問いかけに答えていく。 『学校』は『学舎』のことで、『図書館』は話の前後から判断するに『書架』のことだろうか。
 
「お前が望むなら、我はお前に道を授けよう」
「あのどちらかというと、私、戻りたいです」
「……戻る道は知らぬ」
「それなら、行く道を教えてください」
 
 彼女は、それじゃ仕方ない、とでも言いたげな返事を返す。
 彼女はボクと出会うためじゃない、元の世界に帰るためにここに来たんだ。 ボクが九年間会えるのを待っていた人は、こちらでは見かけない書を持ったちょっと風変わりな女の子に過ぎなかったのか。
 
(──── 待てよ)
 
 待てよ、と思う。もしかして、と考える。
 今、出会った彼女が、やがて強い意志を持つ、ボクが会った彼女に育つ、ってことは考えられないだろうか?  ボクの目の前からあんな風に消えた彼女なら、 ボクがこうして居場所を与えることで、彼女がボクの知っている彼女に育つという可能性は是か非か。 ボクの思い出の中の彼女と今、目の前にいる彼女。二人の風貌はそんなに変わってない。 だとしたら、数ヶ月後。数年後。彼女はたくさんの帰路を乗り越えて、ボクの知っているあなたになるってことは考えられないだろうか。
 仁徳溢れた名君と誉れの高い人物で、さらにボクのことを買ってくれている劉玄徳なら、彼女を粗末には扱わないだろう。ボクの使いを名乗れば盤石の布石ともいえる。
 
(花……)
 
 ねえ、花。ボクはあなたを待つことは苦じゃなかった。むしろ楽しかった。 知識を得るたびに、また一つあなたに近づけたように感じられることが好きだった。逆に、どうしてこんな簡単なことを学友たちはわからないんだろうってもどかしさもあった。だけどそんなとき、思うことがあった。
 
(あなただったら、わかってくれる)
 
 あなたなら、ボクの考えも理解してくれるって信じられることが幸せだった。
 洛陽での行軍の中、同じ天幕で同じ時間を過ごしたボクはいつしか彼女と同じ目線で物事を捉えるようになっていた。  花を通してみる世界。それは、今のボクにとっては当たり前のこととも言えた。
 
『あのね、私は全然わかってないの。……この本が教えてくれるから』
 戦に勝つ方法は鋭い視点で的確なことを告げるのに、簡単な史実。孫子や孟子などはまるで理解していない人だった。照れたようにはにかむ顔が忘れられない。
『どうやって怒ったらいいのかわからない。怒れない』
 食料庫を襲わせたボクにそういった彼女は、自分が怒られたみたいに身を縮めてた。 人の痛みを自分の痛みのように感じられる人だった。
 ──── だから、ボクは。
 
「山道に出たら玄徳という男を待て。その男がお前の運命を定める」
「げんとく……、ですか。どこかで聞いたような」
 
 彼女は声の主を捜そうとあちこちを見渡す。 まさか木の上から話してるとは思わないのだろう。 同じ場所を行きつ戻りつしては、半べそをかいている。 腕の中には、確か九年前、『本』と言っていた書簡をしっかりと抱きかかえている。 まるでそれが自分の不安を吸い取ってくれるとでもいうように。
 
「玄徳が来たら孔明の使いと名乗り、孔明の不在を伝えよ」
「あのー。すみません。こうめいってあなたの名前ですか?」
 
 今、ボクはあなたになにができるか。 この子はボクの知っている彼女じゃない。花じゃない。花に成っていないんだ。
 ボクは考え続ける。 いつか彼女は自身の役割を終えたとき、彼女の元いた世界へ帰るのだろう。『戻りたい』って言ってた言葉のとおりに。
 だったら、なおさら。
 ──── 無事に帰るそのときまで、ボクが彼女を守っていこう。
*...*...*
「よう、亮。お前の言ってた場所、やっぱり穴場だったよ。 ヤマメがかなり釣れた。均がさばいてくれた魚で今日も一杯飲むか」
「うん……」
「ってかお前、なんて顔色してるんだ。どっか具合でも悪いのか?」
 
 悪友はボクの顔を見るやいなや細い眼を見開いている。 具合が悪い?  そうかな。 もし顔色が悪いっていうなら、それはむしろ正常な身体の反応だ。 彼女はいつか、元の国に戻る。そのことを一考にも入れてなかった自分がまったくもってやり切れない。
 洛陽で、突然消えた彼女を恋い慕った。突然消えた彼女ならまた突然会えると信じていられた。そして今日、朱い色をした星に導かれるようにして再び会った。
 ──── そこでボクは知ったんだ。
 彼女はいつか元の世界に帰るために、今ここに舞い降りたんだ。 すべてのことをやり終えたと悟ったとき、元の世界に帰る人だったんだ。
 
「道士様は天女様なんだよ。俺たちのような俗世には交わらない天女様なんだよ。亮」
 
 酔っぱらいの李翔が言っていた言葉は案外的をを得ていたことを知る。
 この九年間、あなたがボクのかけがえのない師匠だったことを思う。あなたは最初の一歩を踏み出させてくれた。ボクの人生が変わった。
 彼女は場所も、そして時系の中でも迷い子だったんだ。 突拍子もない考えだとは思う。でもそう考えればすべての辻褄が合う。
 いつか、あの子は終着点に辿り着く。その道はボクには向かっていないかもしれない。
 だけどいくつかの可能性の中で、あなたがボクの知っているあなたに成ったころ、あなたはボクを導くんだね。ボクの記憶の中のあなたのように。
 そうなら。
 ──── かつてボクの師匠であったあなたに、今度はボクが道を授ける。
 
「ははっ。……なんだ、そういうことだったんだ」
「って、亮? 大丈夫か、お前。なにかヘンなものでも食べたか?」
 
(なにを迷うことがあるだろう)
 
 九年間、彼女だけを見つめてきた自分を思う。 あなたが教えてくれたことを信じて、守って、追いかけた。 戦をなくすためには、ただ反乱を起こしただけじゃだめだってこと。 この国の民の不満をなくす。戦い方しか知らない民に、生き方を教える。 ボクは多くの人が平和に暮らせる世の中の仕組みを作るための知識と力が欲しいと願った。
 一匹の蟻が巨木を倒すような企みにも思えた。だけどボクは、今も彼女を信じている。必ずその道は開けると信じている。
 
「まあさ。洗いざらいこの士元様に話してみろよ。円満解決とまでは至らなくてもさ、なにか糸口になるようなことは示せるかもしれねえぜ?」
 
 付き合いの長い学友はボクの不調に戸惑うことなくどっしりと腰を下ろすと、安心しろと言いたげに均に頷いてみせる。ボクはゆっくりと下唇を舐めると曖昧な返事を返した。
 
 
「──── ボクは、ボクの進むべき道を知ったよ」  
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