ボクは一日に何度も同じ問いを繰り返す。その行為は、答えのない謎かけを考え続けるのにも似ていて、考え続けようとする理性とは裏腹に、感情はすぐ君への手紙の中へと逃げ込もうとするからタチが悪い。
彼女を玄徳軍に従事させる。
その結果、彼女は今まで経験したことのない恐怖に晒されるだろう。それは身体の痛みだけじゃない。心の痛みも伴うかもしれない。世の均衡の不条理に涙するかもしれない。理由も分からないままこの世界に飛ばされた運命を恨むかもしれない。
……だけど。
あらゆる苦しみが彼女を襲うとしても、ボクはボクの選んだ道に後悔はしない、ハズなんだ。
ねえ、花。まだ君になる前の君は、玄徳軍で、何を見、何を感じるのかな。
君の意見を聞く前に、ボクはもう動き出してしまった。今はもう立ち止まることも叶わない。だけどもし君が助けを必要としたときには、ボクはすべてのものを投げ出してそばに行く。
ボクは出すあてのない書簡を書きしたためながら、頬杖をついた。
──── 君は、途方もない迷い子だ。
時代も、国も。考え方も、なにもかも違う。きっと風習だってかなり違う。
君を取り巻くいろいろなものを理解した上で、ボクは、君が君に成るために、君に道を授ける。
信念は揺るがないはずで、後悔はけっしてないはずなのに、毎日そう言い聞かせなきゃ納得できない策というのは、どこかに重篤な欠点があるのもしれない。
──── ボクが彼女に示した道は正しかったか?
*...*...* 迷い子 *...*...*
「結局兄さんは、劉玄徳の誘いを断ったんだよね?」夕餉も終わり、ボクは再び車の作成に取りかかる。
前に一輪、輪がついて、後ろに二輪。三輪車と評した士元をなかなかだと思いながら、実際の利用にまではまだ少し時間がかかりそうな物体が土間の端っこに転がっている。
一人の力で三人分の荷物が運べるなら、もっと民は豊かになる。これがいつか、点になり、線になり。やがて線が面になるかのように民の中に広がれば、飢えて亡くなる人もいなくなるのかな。
そうだ。いっそ三輪ではなく一輪にして、その分、車体の数を増やした方がいいのだろうか。
「うーん。断ったってわけじゃないでしょ? 今は、ボクの代わりにあの子が頑張ってくれてるハズだよ?」
「それはどうかな?」
弟の均は思慮深そうな表情を浮かべると、手早く器を片付けている。
「それはどう、って? お前、なにか知ってるの?」
「僕も大したことを知っているわけじゃないよ? ただ、毎日野菜を持ってきてくれる黄から聞いた話なんだけどね」
均もずっと話したいと思っていたのだろう。多少の誇張もあるのだろうけれど、均の話は緩急があって面白かった。
劉玄徳は、なんでも五十万人の兵を引き連れてやってきた孟徳軍を、奇襲ともいえる戦法で追い払ったらしいこと。博望の丘で行われたこの戦いを、みなは『博望の戦い』と評していること。
あの戦好きの孟徳軍に勝った劉玄徳はどれほどの知恵者か。いやいや、劉玄徳のもとに眠れる龍と称される伏龍先生が参画したらしい。孟徳軍を沼地に連れ込み、隊が細くなったところを叩いたそうな。兵糧までまんまとせしめて、こちらの死者は数人とのことだそうな。
「ははっ。なかなか優秀な弟子でなにより。初陣の結果もまずまずってところだし、これなら、一生、ボクが出る幕はないかもね」
……あの子が。
隆中で、おぼつかない足取りで、おずおずと周囲を見渡していた彼女を思い出す。
このまま劉備玄徳に預けていたら、彼女は花に成るのだろうか。花に成ってくれるのだろうか。
心配で夜中に幾度も目を覚ますのはボクの杞憂か。あの子の誇らしげな噂を聞くことを、多分誰よりも喜んでいるのはボク自身だ。今回の戦の勝利で玄徳軍に彼女の居場所ができれば、それが花に成る最初の足がかりになるだろう。
そう考えてボクは頭の後ろに手をあてる。ヘンな格好だって均には笑われるけど、こうすることで頭の奥からもっと良い考えが浮かぶことがあるから止められない。
彼女は平和な国から来たただの女の子だ。軍師でもなければ、仙女でもない。今回の戦で彼女が見た光景は、彼女を傷つけたりはしなかっただろうか。
「兄さん。……あの花さんには荷が重かったのではないでしょうか?」
「んーー?」
均はこれだけは言わなければ、とでも言いたげな目をしてボクを見据えた。
「僕は彼女に会ったことはないけれど、兄さんから聞いた彼女は、まだなにも知らない赤子のような人なのでしょう。以前兄さんが洛陽に向かったときに一緒にいた彼女とは別人だとも。戦のない、平和な国から来た人だとも」
「まあねえ。確かにそんなことを言ってたねえ」
「そんな人がいきなり殺戮を繰り返す戦場に放り出されたら、どんな思いをするかは、兄さんも想像が付くでしょ?」
「……なるほど。お前がそう思う根拠が、噂話の中にあった……。そう解釈してもいいのかな?」
さりげなくカマをかけると、案の定、均はさっと顔色を変えた。
「言ってよ。なにもかも、包み隠さず。ボクが彼女のことをどう思っているか知らないお前でもないでしょ?」
こういうとき、幼少期の長子を重んじる考えというのは遺憾なく力を発揮する。均はため息を付きながら言葉を続けた。
玄徳軍の軍議で最初、彼女はひどく嘲笑されたこと。あまり食も進まず、怯えたように過ごしていたこと。雲長、という劉玄徳の部下に叱責されていること。芙蓉姫という女人と話すようになって少しずつ自分の意見を言えるようになったこと。
「ふぅん。まあ、多少なりとも成長していれば、今はそれで充分なんじゃない?」
「……兄さんにしては考えが浅薄だね」
弟の均はあっさり言い捨てると、木訥とした口調で話し続けた。
「兄さん。僕はね第一に、兄さんがいう花さんと今玄徳軍にいる花さんは人違いってことを前提に考えていたんだ。洛陽に向かうとき、黄巾党をまとめながら行進を進めた彼女と、隆中で兄さんが会った彼女っていうのはあまりにも違いすぎるでしょう? 第二に、もし人違いなら、戦を知らない女人が博望の戦いに参戦した、っていうのは酷すぎる。数多くの溺死体、焼死体、轢死体などを初めて見たことになるのでしょう?」
「まあ、ね。そうなるかな?」
「──── 僕は今になっても見慣れない。人が人を殺す世の中を当たり前とは思いたくない」
ボクは黙って手にしていた作りかけの一輪車に目をあてた。
そうだった。もしかしたらボクより優れた資質を持っているかも知れない均は、ある一点、戦を、戦の結果を……。もっといえば、戦で傷ついた人を見ることにひどい恐怖感を覚える人間だった。もちろん、戦のない世の中なら、彼の特性は『温和』という美点として評価されるだけだっただろう。だがこの戦が茶飯事のこの時代ではむしろ欠点としてあげつらわれる。もともと土と親しむような生活をしていなかったボクたちは、頭を使って漢王朝や、それに準ずる高官に推挙されるのを待つしかない。そんな中、戦をしない方法ばかりを考えている均には良い推挙がないのは事実だったりもする。
……それにしても。
ずっと彼女のことを想って。彼女のことを誰よりも理解していたつもりになっていたボクと同じくらい、均が今の彼女を理解しているであろうことに舌を巻く。ボクの中では花はまだ、寝食を共にしながら洛陽に向かったときの花の印象が強くて、今の花が苦しんでいること以上に、彼女に成った彼女に思いを馳せていた部分もあった。
彼女のいた国はこことは違う。……平和な国。穏やかな街。朝が来ることが当然の生活。
『普通の日常とはなにか』と彼女に問いかけたとき、たしか彼女はあどけない声でこう言ってたじゃないか。
『朝起きて、学校に行って勉強して、学校が終わったら友だちと遊んだりして家に帰って寝る。……そういう普通の』
普通。ボクが思う普通と彼女が思い描く普通は、かなりの隔たりがあった。きっと、博望の戦いでも。
ボクは彼女に立場を与えたかった。これが今のボクにできる最初の恩返しだと思った。
あまりにこの世界から浮いている彼女に、彼女としての立場を与えるためには、実力を見せつけるの状況を作るのが一番だと思った。仁徳者として名高い玄徳軍に預ければよりいいと思った。思惑どおり、彼女は最初の難関を突破した。だけど、彼女の心の傷を、ボクは思いやるだけでなにも行動に移せていなかった。
「……均がそこまで言うならしかたないなあ。ボク、明日にでも彼女の様子を見に行ってくるよ」
ボクは、周囲の意見を受けてシブシブといった格好を取ると、弟の背中に声をかけた。
隆中で、ボクが彼女と再会してから二十日と少し。彼女の様子を見るに相応しい時期と言えるかもしれない。
*...*...*
「ねえ、君。北の城壁の影に不審な二人連れがいたよ? ちょっと見てきた方がいいんじゃないかなあ?」「は……? あなたさまは?」
「んー。諸葛孔明……さまの、書を持ってきた者だけど」
「は? はっ! 諸葛孔明さまの使者殿でしたか。畏まりました。今すぐ見て参ります!!」
自分のことを敬称で呼ぶのはこそばゆいものだな、と子どものようなことを思いながら、ボクはさっさと見張り兵を追い払う。降るような星空は、彼女の星とボクの星、それに玄徳さまの星を煌々と照らす。
……うん。まだボクたちの天命は尽きない。大丈夫だ。ボクは軽く口笛を吹きながら堂々と正門から城内に滑り込んだ。
それにしても、あまりにも素直に人の言うことを聞く見張り兵というのもどうなのだろう。劉玄徳の仁徳が、下々まで広まっていると言えば聞こえはいいが、逆に言えばこんな風に簡単に孟徳軍の人間でさえ、入り込めるともいえる。
城の一角から賑やかな声が聞こえてくる。目が慣れるにつれ、その喧噪は祝賀の宴かと見当を付ける。微かな料理の匂いは、多くの品数と、玄徳軍の今の勢いと勝利の歓びを伝えてくるようだ。……まあ、あの少人数で、夏侯元譲の大軍を追い払ったんだ。これくらいの華やかさはまだ序の口ともいえるかもしれない。
「さて、と……。あの子はどこかなー」
思い切り余裕を含ませて呟いた独り言は、言葉の端が風に揺れる。
──── 本当に、これでよかったのかな。
ボクは君になにをしてあげられるだろう? 君が君に成るために。いや、そんなことは今はいい。
『元の世界に戻りたい』
彼女のその意志を、ボクはイチバンに考える。ずっと大切に想っていた君。憧れそのものだった君。
ねえ。君は知らないだろうけれど、君は九年経った今でもボクの師匠だ。オオカミを使って黄巾党の食料庫を襲わせたとき、君は言ってたよね。
『今までなにをしてきたか、なにができてなにができなかったか。これからなにができるか考えてみたらどうかな?』
『知恵も知識も力になる。だから亮くんも、よく考えて経験して学べばいいんだと思う』
って。
君の言葉を思い出すことで、ボクは君の存在を信じることができた。けっして平坦じゃない道も進んでくることができた。
だから、……いいんだ。
彼女の選ぶ道が、ボクに繋がってなくてもいいんだ。
ボクの決意に、幼い頃のボクは不満顔だ。思い切り眉を顰めて『えーー?』って顔で睨み付けてくる。でも、いい。ボクと幼いボクとの間の葛藤にはまだ話し合う時間が残されている。
ねえ、お願いだから。
君は、自分の頭で考えて、自分の手で運命を切り開く。
そして生きて、君の世界に帰りなさい。それがボクのただ一つの願いだ。
「……ごめんね、芙蓉姫。私、ちょっと外の空気吸ってくる」
「花! 綺麗な女は宴の華だっていうのに、どうしたの? まだやっぱり気分が悪いの!?」
無骨な声が錯綜する中、頼りなげな声と、それに覆い被さる女の声がする。
あの子と……。もう一人は確か、芙蓉姫と言われている女人だ。派手やかに着飾った彼女と比べ、あの子は場違いだとでも言いたげに肩を落として俯いている。ふわりと肩を覆う白い上着は、幼い頃のボクが借りたもの。今のボクじゃ、袖も通せないような小ささだ。
ボクは、小さく息を整えた。
「は……」
花。
ボクはもう何度この名前を書簡に書き留め、心の中で呼んだのだろう。
でもおかしいよね。どうしてだか言葉にできない。
途方もない迷子の君に、ボクの思惑が伝わらないように。笑って、別れられるように。
ボクはきっと言いたいことの百に一つも伝えられない。
せいぜい伝えられるのは、酔っぱらいに絡まれないように、だとか、転ばないように帰りなさい、とか。
きっと、どうでもいい、老人の繰り言のような言葉を繰り返すんだ。
──── 彼女が、生きて、帰れるように。
「ねえ、道は見つかった?」