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「まったく。兄さんは星読みに熱心だね。軍師というよりも学者? 天文暦の学者の口が、たしか孟徳軍にあったよねえ」
「んー。……と、曹孟徳は例年に増して活力がみなぎっているみたいだねえ。周囲の星が霞んでるよ。……仲謀軍の公瑾殿の動きは、っと……」
「まあ、玄徳軍一筋もいいけど、孟徳軍の軍師として仕官するのもアリなんじゃない? 仲謀軍に仕官するのは兄(京(けい))がいるから難しいかもしれないけど」
「やれやれ。どうやら公瑾殿はなかなか一筋縄ではいかないお相手のようだね。仲謀さまはまだ年若だからしかたないか」
「この様子じゃ明日も上天気だろうから、僕は麦の作付けでもするよ」
 
 まるで会話が成り立ってないボクたち。初めてこのやりとりを聞いた人間は、ボクと弟の均(きん)、両方の顔を見ながら、どちらの話に頷いたらいいか戸惑うのが常だ。だけど、どういうわけか均の言うことをボクは聞き逃したこともないし、それは均も同じだ。ボクはようやく天界から地上へと視線を戻す。 一日のうち何刻もの間、飽くことなく星を見続けるボクに、弟の均は半ばあきれ顔で笑っている。
 
「やだなあ、均。ボクが孟徳軍の傘下に収まるって思うの? お前、ボクの性格をよく知ってるよね」
「知ってるからこそ忠告しているんだよ。兄さんはこうって決めたら、人の忠告を聞かないからさ」
「うん。まあ、そうだね」
「どうして兄さんほどの人がただの食客に過ぎない劉備玄徳を支持するのか、今以て僕はわからない」
 
 ボクは苦笑を交えて軽く顎を引いた。そうだ。ボクは一度こうと決めたら譲らないところがある。一番譲れないものはなんだろう。問い正すまでもなく花との約束だ。
 人を殺したり殺されたりするこの世の中を、彼女の言う、平和な、戦争のない国にする。そして彼女をちゃんと元の世界に返す。傷一つ付けないで、だ。心にも身体にも。
 だけど、どうかな。ボクは再び自問する。彼女が手足を折る。痕が残るような怪我をする。そういった身体的な怪我がないのは事実だ。ただしそれには、『今までのところ』という条件が付く。そして、身体以上に心配なのが心の方だ。博望の戦いですっかり気落ちしていた彼女を思う。 心の傷。それは、薬草を塗ったりじっとしていたりすれば癒える類のものなのだろうか? 断じて否。だとしたら、今のボクはあの子になにをしてあげられる?
 小さな、目を凝らさなくてわからない、だけど、よく見ると朱い彼女の星が、涙を堪えるようにきらりと瞬く。これは彼女がなにかしらの助言を待ってる合図。ボクははぁ、と盛大なため息をつきながら、もったいぶって均に告げた。
 
「明日さぁ、ボク、ちょっと玄徳軍に顔を出してくるよ」
「わかった。気をつけてね」
「どうしたの? 均、驚かないね?」
 
 珍しく会話がかみ合ったことに驚いて振り返ると、そこには微苦笑を浮かべた弟の顔があった。
 
「兄さんの大事な人が呼んでるんでしょ? 兄さんを止める理由はどこにもないし、止めても無駄なこともわかってる」
「ははっ。それでこそ我が弟だね。夕刻に発(た)つからよろしくね」
 
 均は、クンと鼻をくゆらすと、明後日には天気が崩れるかもしれないからなるべく早く帰るように、とだけと言った。
*...*...* 千の夜、ひとつの朝 *...*...*
 翌日の夕刻、ボクはひょいひょいと山道を下りながら考え続ける。
 奇襲作戦が功を奏した博望の戦いとは違い、今度の新野の戦いはどう見ても玄徳軍の分が悪い。
 曹孟徳が直々にここ新野に攻め込んでくる。兵の数は五十万を超えるそうな。博望の戦いで惜敗した元譲さまが殿(しんがり)だそうな。前の戦の雪辱を晴らすべく、ここ新野に残っているものは、女、家、畑、なにもかも焼き尽くすそうな。
 嘘と噂は大きい方がいいのだろうか。それとも民衆心理がそういう行動を取らせるのか。たしか、黄巾党の行列の中でも同じことがあった。不安なとき、人は噂に過敏になる。そうなって欲しくないという願いが、不安をより大きく駆り立てるのだろう。兵を軍律で統括したように、民衆も民衆のための規律である程度守れたらいい。法で縛ることはすなわち、法で守られることに等しいからだ。だけどそれが民に浸透するにはかなりの時間を必要とする。
 玄徳軍は明らかに手薄だ。長子である子玉さまの裏切りが玄徳さまの痛手になったのは事実だが、だからといって子玉さまばかりを責められない。乱世では世襲というのは当たり前じゃない。むしろ、血筋に振り回されて苦しむ人間の方が多いんじゃないか、とボクはまた考え込む。献帝も、その前の霊帝も。傀儡という名が相応しい現状を、少年である彼が本当に理解できるようになるのは一体何時のことだろう。それとも少年は自分の立場に気づかないまま短い一生を終えることになるのかもしれない。
 夜が濃くなってようやく辿り着いた新野城は、意外にも落ち着きを保っていた。……なるほど。これが玄徳さまの仁徳なのか。逃げるなら君主と逃げる。この君主は最後まで俺たちを守ってくれる。肌で温度を感じ取っている民衆は穏やかだ。そう思ってボクは我に返る。民衆のための規律というのは、この人なら信頼できるという君主があって初めて成り立つものなのだろうか。ボクは改めて自分の選択に誤りがないことに眼を細める。……そう。玄徳さまは王治の器で、彼女はその補佐たる軍師の力を持っている。少しずつよい方へと向かってる。──── ボクが知っている彼女に近づいている。
 
「さて、と」
 
 どうやって彼女を誘い出そうか。見回り兵を適当に追いやって彼女の部屋の扉を叩く? それとも小さく声を掛ける? 十年前の彼女は、考え込むことに倦むとよく『散歩』と称して、あちこち歩き回ってた。たぶん、今日もその『散歩』に会えるかな。そんな気がする。
 
(あ……)
 
 暗闇の中、桃色の縁取りのある衣が空を舞う。桃色。そうか、玄徳軍ゆかりの桃園から採った色なのだろう。白っぽい彼女の面輪がよく映える組み合わせに思わず目を細める。ほっそりとした背中。衣から伸びた脚が滑るように歩みを進める。
 
「やあ、こんばんは、いい夜だね。ちょっと様子でも見ていこうかなー、と思ってさ。元気?」
 
 上滑りな言葉を一気に彼女に投げかけて、ボクは頭の後ろに手を回して笑う。本当にボクはおかしい。どうしてボクは、今目の前にいる彼女の名前の名前を呼べないんだろう。恋い焦がれていた時間が長すぎて、舌が自分の持ち物じゃないみたいだ。
 長い時間を表す言葉に『千』という文字がある。まさにボクが彼女に会えなかった時間は千にも勝る。そして今、こうして話している瞬間は、千の夜と比べたらたったひとつの朝なのに。どうしてボクは、考えていることの十に一つの優しい言葉さえも彼女に告げられないのだろう。
 
「私は元気ですけど、今、玄徳軍がそれどころではなくて」
 
 軽薄なボクの言葉とは裏腹に、彼女の声は低く沈んでいる。
 
 亡くなった景升さまと、玄徳さまの言葉。子玉さまと公玉さまとの関係。玄徳さまの頑なとも取れる考え方。孟徳軍の兵の勢い。
 自分にできることがなにもないことに、彼女は少しだけの苛立ちと自分では処理しきれない悲しさを持っているようだった。
 もし、この世界のごく普通の人間が彼女の立場だったら、こういうときはどうするかな。ボクは考える。このときの彼女はいわば、玄徳さまの食客の立場だ。それほど責任を感じる地位でも立場でもない。たぶん淡々と現状を受け入れて、頃合いを見計らって退去する。罪悪感を感じることなどなにもないし、むしろ勝機を見誤ることない手腕を買って出る新たな権力者も現れるだろう。
 なのに、彼女はこれ以上なく気落ちした様子で肩をすぼめている。そして、その細い肩を、誇らしく、頼もしく見つめている自分がいる。──── 彼女は、やっぱり、ボクの花だ。ボクの知っている、花なんだ。
 
「ねえ、ちょっと歩こうか。こっちこっち」
 
 ここに来る前に人払いしておいてよかった。自分の行動に思わず拍手したくなる。彼女は無理な願いを聞いたときのように大きく眉毛を差下ながら、こんな時間じゃ外に出られないなど、見張りの兵が居るはずだの、いろんなことを言ってくる。……彼女の声が、こんなにボクを安心させることにボク自身驚く。天女の声というのがもしあるとしたら、それは彼女の声だ、なんて均には恥ずかしくて聞かせられないようなことを考えたりする。
 
「ほら、この見張り台から、屋根の上に昇れるんだ」
「はい……」
 
 小さな篝火が彼女の頬を明るく照らす。もともと女人が昇るような造りになっていない粗末な梯子が、カタカタと不安げに風に揺れる。ボクのあと、彼女はいったん脚をかけたものの心配そうに梯子に掴まっている。
 
「やれやれ、しょうがない弟子だなあ。ほら」
 
 ボクは彼女の手を握ると、ひょい、と見張り台まで一気に引っ張る。記憶の中よりも小さな手。そして記憶の中よりもさらに柔らかい手がボクを握り返す。……夜で、よかった。彼女が、梯子を昇ることに夢中になってくれていて、よかった。そうじゃなきゃ、ボクはボクのこの頬の熱の理由を彼女に説明しなきゃならないところだ。
 
「……玄徳さんから、もう師匠のところに戻れって言われたんです」
 
 華奢な肩は少しの時間逡巡したあと、泣き出しそうな声で呟いた。
 
「……君は、どうしたいの?」
「はい?」
「君の生き方を決めるのは君自身でしょ? 玄徳さまじゃない。だから君の考えを聞かせて」
「わ、私は……、私は、なにもできません!」
「うん、それで?」
「──── でも、だから、苦しいんです。なにもできないで、ただ守られているだけなのが苦しい」
 
 ずっと思いを溜め込んできたのだろう。堰を切ったように彼女は語り出す。なにもできない自分が玄徳軍に留まることに責任を感じていること。でもだからといって、なにもしないまま隆中に戻ることには納得できないこと。
 
「突然この世界に来てね……、玄徳さんは私に居場所をくれた人なんです。だから、私にできることならなんでもしたい。だけど、どうしたらいいのかわからない。……堂々巡りなんです」
「……大丈夫。ちゃんと考えてごらんよ。この世界に来てから、君はなにができた? なにがしたかったの? これから、なにができるの? 考えることをやめなければいつか答えは見つかる。悩んだ時間は無駄にはならない」
 
 憐憫なのか自己嫌悪なのか、その両方なのか。彼女の唇がときおりぴくりと揺れることにチクチクと罪悪感を感じながら、祈るような気持ちで彼女の白い横顔に目をあてる。
 ボクはさらに二、三、彼女に問いかける。今、玄徳軍に必要なことはなにか? 無事逃げ切れたら、次にしなきゃいけないことはなんなのか。彼女は真剣な目つきで考え込むと、ぽつりぽつりと正答を言い当てていく。
 
「まずは状況を立て直して、その次に玄徳さんの味方になってくれる人を増やせばいいのかな」
「そうだね。よくできました」
 
 ボクは我が意を得たりとばかりに大きく頷く。怜悧さがほの見えるたびにボクは有頂天になる。──── この子はやっぱり花だ。元いた世界では、こんな風に考えること、考え続けることが必要ない世界で。彼女は考えるという習慣を持ってなかったんだろう。
 ねえ、花。今のボクが君をどんな想いで見つめてるかって、たぶん君は死ぬまでわからないと思う。だけど、いい。それでいいんだ。ボクの独りよがりはボク一人で引き受ける。ボクは、君との出会いは宿命だ、運命だ、って信じたい。ただただ、信じていたいんだ。
 今後の方向性が見えてきたことに安堵したのだろう。彼女はずいぶん伸びやかな顔をして全天を仰ぐ。穏やかな光の宿った瞳、なだらかに続く鼻梁と引き締まった口元は、幼い頃にボクが恋い焦がれた花そのものだ。ボクはふとあることを思い出して彼女に問いかける。
 
「ねえ、あの星とあの星。それにもうひとつ、あっちの星ってすごく綺麗だよね。大きく光ってる」
「はい! えっとね、こ……、じゃない、師匠。あのね、あの三つの星、私のいた国では、デネブ、アルタイル、ベガ、って言うんです。三つ合わせて、夏の大三角形、って言うんですよ?」
 
 うん、知ってる。ボクは心の中で呟く。
 
『あれがデネブ、アルタイル、ベガ。……三つを繋いで、夏の第三角っていうの』
 
 十年前、君が教えてくれたよね。星が動き続けること。一年というのは、三百六十五日あるって、いうこと。四年に一度三百六十六日になって、一年が季節を形作っている、って。春夏秋冬だっけ? ……なるほど。だとしたら今度の魏との戦いも、東南の風が吹く正確な暦が分かるかもしれない。
 
「あ、あれ? 師匠?」
「あ、あー? ごめん、ぼーっとしてた」
「んー。そうですよね。隆中から出てきてくれたんですもの、疲れが出ますよね」
「そうそう。そんな感じ?」
 
 軽い調子で相づちを打つ。こんなこと言いたいんじゃない。でもなんて言っていいかもわからない。裏返った声の相づちが情けない。
 
「ふふ、元いた世界と変わらないものがあると、なんだかほっとします」
「ねえ、君は……」
「はい、なんですか? 師匠」
 
 花は思い出の中と寸分変わらない笑顔でボクを見上げる。
 隆中の山奥でオドオドしていたときとは少し違う。魂が入り込んできたような、柔らかなのに強い笑顔。誰かを守りたい。そんな意志が籠もっている顔だ。
 ふいに胸を刺す痛みが増していく。
 好きになるって気持ちは知ってた。この十年でわかった気になってた。いつか会える。いつか、彼女を自分の腕の中に包み込める。そう思ってた。 だけど、手に入らないという切なさを、ボクはこの数ヶ月で知った。──── 彼女は元の世界に帰るためにここにいるんだ。ボクとこの子の未来は交差しないところに、ある。
 幼顔のボクに聞く。
 
『どうしたい? 亮。きみはどうしたいの?』
『花の、となりがいい』
『……ダメだよ。きみ分かってるよね?』
『でも!』
『──── 彼女が今頑張っているのは、元の世界に戻るためなんだよ。一緒にいたいっていう、きみの願望はただのわがまま』
『あなたはそれでいいの? 本当にそれでいいと思ってる?』
『まあねえ、きみと一緒になって本心を叫べたら素敵だね』
『だったら……!』
『ボクは多分、誰よりも彼女の幸せを望むよ。……だから、もう、いいんだ』
 
 ボクは幼いボクの雑念を振り払うように頭を振ると立ち上がった。思いかけず彼女から十年前と同じ香りがすることに涙ぐんだ。
 
「君なら大丈夫だよ。もうちょっと頑張って考えな」
 
 ボクがずっと温めてきた言葉。今は、ボクの血となり、肉となって、ボク自身にもなっている言葉。君の目を覗き込むようにして、ボクは君から教えてもらった言葉を注ぎ込む。
 
「ね。よく頭を使って、考えて、経験して、学びなさい。……知恵も知識も力になる。武器にもなるし自信にもなる。君はもっといろんなことを知るべきだ」
「ありがとうございます、師匠。なんだかもやもやしていた気持ちがなくなりました」
 
 彼女は真剣なまなざしでボクの言葉に頷いた。
 
「まあ、君が諦めなければもう一度会えるよ。必ず」
 
 なんて。自分の願望そのままの言葉を彼女にぶつけて苦笑する。
 もう一度、会いたいよ。──── ボクが、君に、会いたい。君が、少しずつボクの思い出の中の君になる。その折々を見ていたい。
 
(花……)
 
 伸ばした手が空を切る。彼女は首を傾げて不思議そうにボクの手を見て、ボクを見た。
 
「ねえ、君は、怒られるのが好き? 全力で走るのが好き?」
「は、はい? えっと……?」
「ねえ、どっち? 答えてよ」
「はい! じゃあ……。本当はどっちも苦手ですけど、全力で走る方がいいかな……」
「決まり。じゃあ、走ろう!」
「えっ? あ、あの……?」
「見張りの兵士、そろそろ戻って来ちゃうよ?」
 
 ボクは梯子を昇るときに手を貸したときの続きのように、再び彼女の手を取ると走り出す。おかしいよね。『花』。そんな簡単な言葉さえ口に出せないボクが、彼女の手を取って走り出してる。
 
 
 また、会えるように。
 ──── 再び、このぬくもりを感じられるように。
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