↑rensenki-TOP / ↑site-TOP
「え? 彼女が?」
「兄さん……それって」
 
 玄徳軍に従っていた黄(おう)の仕入れてきた話に、弟の均(きん)は顔色を無くしている。弟の様子を視界に認めて、ボクは自分の顔色がどんなものかを知る。
 
(ボクの選んだ方法は正しかったのか?)
 
 わかっている。彼女が彼女に成るために、ボクは数ある方法から玄徳軍に従う道を選んだこと。花は花に成る。いろんな経験を経て、ボクと一緒に黄巾党を導いたあの子になる。わかってる。だけど百回頭で理解しても、たった一つの戸惑いがボクの信念を震わせる。均に責められたらなおさらだ。
 
「兄さん、花さんが、孟徳軍に捕らえられたって……っ」
「大丈夫大丈夫。彼女は玄徳軍の食客待遇で迎え入れられているはずだよ。曹孟徳も簡単に手は出せないはずだ」
「どうしてそんなことが言えるの? 花さんが男の人ならともかく、曹孟徳は三国一の女好きって」
「だから大丈夫だって言ってる」
「は?」
「相当な女好きなら、子どものような彼女には手を出す必要がない、ってこと」
 
 ボクの考え抜いた発言は、均には伝わらなかったらしい。いや、火に油を注いだとも言うべきか。日頃感情を見せない均の顔色が驚きの白から怒りの朱に変わった。
 
「兄さんの……、兄さんの花さんを思う気持ちはそんなもんなのか? なんなんだよ、それ」
 
 ボクはそっぽを向くと、均への返事をため息で返す。
 ねえ、均、教えてよ。そんなものってどんなものなの? 思いの重さを石みたいに重さや大きさで伝えられるなら、ボクだってこれほど苦しくない。彼女にとってたえず最善を選ぶ。ボクにできるのはそれだけなのに。
 本当は彼女に聞きたい。毎日会いたい。毎日会って毎日聞きたい。元気でいるの? 辛くはない? ボクはいつでも君を待っている。君がどんな道を選んでもいい。君が元の世界に戻れることを、幸せになれる道が切り開かれる日を待っている。
 もし彼女からボクへと続く道が開かれているのなら、彼女は無事に玄徳軍に戻ってくる。そして、もし彼女が曹孟徳のそばにいる道を選ぶなら。もっと先の未来、孫軍に残ることを選ぶなら。──── それでも、いい。ボクは自分自身の葛藤に折り合いをつける。ボクが望むことはただ一つ。彼女が幸せになる。ただそれだけだから。
*...*...* 冷静と情熱のあいだに *...*...*
「って亮、お前、またそんな訳分かんねえこと言って。一体なに考えてんだ!!  ったく、小難しい書ばっか読み過ぎて、馬鹿になっちまったんじゃないだろうな!」
「晏而、そうポンポン言い返さないでよ。晏而が馬鹿って言っていい相手は李翔だけなの、わかってるでしょ?」
「なにーーー! 今、亮、お前、なんて言った? 聞き捨てならねえこと言ったよな、言ったよな! あんじぃー」
「あー。李翔、お前はちっと黙ってろ。お前が口突っ込んだら、まとまるものもまとまりゃしねえ」
 
 ボクは秘密裏に、孟徳軍の元で青州兵として働いている晏而の元を訪ねた。黄(おう)から話を聞いた日のうちに 晏而に向けて書を遣わし、翌日朝には馬上の人になった。 怒りが収まらないのか、均はボクの計画に不満げに頷いただけだったけど、まあ、いい。彼女が無事でいることが分かれば均も納得してくれるだろう。……いや、違うか。彼女が心も身体も無傷で玄徳軍に戻ること。それが実現したときに、ようやく弟の眉間の皺は薄くなるのかもしれない。
 
「で? 亮の話をまとめるとなんだ? 今、孟徳様のお屋敷の奥に道士様……、の卵みたいな人がいる、と。それを見守れ、ってか?」
「うん、まあ。簡単に言うとそう」
「ってお前だってわかるだろ? 今や飛ぶ鳥を落とす勢いの孟徳様、今は丞相って言ったか。その丞相様が囲っている女は数知れず、だ。何処の部屋に誰が居るなんざわかるわけもないだろ?」
 
 しかも、だ、と晏而は声を落とした。
 なんでもこの前、女を手引きにして、間者が数人忍び込む事件があったんだ。女のそぶりに感じることがあったのだろうなぁ、孟徳様は。すっかり騙された振りをして、逆に間者全員を引っ捕らえたとよ。
 
「ふうん。さすが曹孟徳もやるねえ。二心を見定める、だっけ? 仁徳とは言わないだろうけれど、彼自身の特質の一つだろうね」
「そこで話が終わらないところが孟徳様だろうよ。間者と間者を手引きした女の殺し方がなあ。俺は年甲斐もなくちびりそうになったぜ」
「まあ、その手のことは軍律では処理できないから、上に立つ者の裁量になるよね。なに?  また野犬に食わせたとか?」
「仮にも一度でも情を交わし合った女だろうよ。その女の首と両手両足を牛に引かせてよ。女の臓器がどばっと……っ」
 
 ボクはそれ以上言わなくていい、という意味を込めてかぶりを振る。
 考えたくないけれど、もし彼女がそんな風に? いや、彼女は孟徳軍の食客の立場だ。だからそんなことはけっして起こらないだろう。そう思いながら心が震える。彼女が牛に割かれた女のようにならないという保証はどこにある? ボクはその問いに答える術を知らない。
 
『大丈夫、大丈夫。亮くん』
『花……?』
『私、ここに、いるよ?』
 
 十年前、耳元で聞いた彼女の声が蘇る。あのとき確かに彼女は心を痛めていた。 だけどそれは彼女自身のことではなく、もっと大きな……。そう、この国の未来を憂いていた。 戦のない平和な国を築きたい。彼女の意志は明確で、とても難しかった。 ──── あのとき、花はちゃんと生きていた。生きてボクの前にいた。だからボクは進むんだ。
 
「多分、玄徳軍の考えを推察するに、玄徳軍は孟徳軍で捕らえられている彼女を取り返しに来るだろうね」
「おう」
「来るとしたら、いつか。頃合いとしては夜。新月の今日明日が適当だ。来るとしたら誰か? 武芸に優れていて、小回りが利いて、曹孟徳に顔が知られていない人物。趙子龍殿が適切だろうね」
「ちょう、し、りゅう……?」
「二十歳には少し前の少年だよ。小柄で、左手にたえず手槍を持ってる。数日の間に彼女と子龍殿がお屋敷を抜け出すだろうから、そのとき、晏而と李翔は夜の見回り当番をしていてほしいんだよ。できる?」
「はぁ? 夜の見回り当番を連続三日やれってか?」
 
 晏而は『夜』という言葉に不機嫌そうに眉をひそめる。孟徳軍は兵士にはある一定の報酬を与えていると聞いたことがある。それが結構な額だということで、兵士の中には鍬(くわ)や鋤(すき)を放り出して、兵士という職だけで生業を立てている人間も多いという。でもどうやらそういう制度は、青州兵には適用されていないらしい。なにかと負担の多い夜の担当はできれば避けたいというところなのだろうか。
 ボクは当然、と言わんばかりに自分の両手を頭の後ろに当てて笑顔を作った。
 
「当たり。晏而も年を取ってだんだん勘がよくなってきたねえ」
「って、おまっ。本当に亮って人使い荒いよな。そんなんじゃ、結婚してから道士様に嫌われるぜ! 俺なんかよ、子どもが生まれてからこっち、嫁にこき使われてるぜ。やれ畑を見ろ、屋根を見ろ、子どもの面倒見ろってなぁ」
「ああ、晏而、のろけ話はいいから」
「なにぃ! 亮、てめぇ!!」
「間者が来ることを想定して、きっと夜の見回りは二人でやるんだっけ? だったら李翔と一緒にやってね。……ってあれ? 李翔?」
「こいつはとっくに夢の中だ。……なあ、亮。一つだけ聞きたい」
「んー?」
 
 いつになく真面目な口調に顔を上げると、晏而は充血した目でボクを見据えた。
 
「亮。──── 俺たち、平和な時代に近づいてるって言えるのか?」
「晏而」
「俺たちは、目指す先を目指して今を生きてる。黄巾党の時代に何度も殺戮を繰り返して得た結論だ。子どもには、無邪気に未来が描ける世界を用意してやりたい。その一心で今を生きてるんだ。なあ、どうなんだよ? 亮。戦ばかりの世界に生きている俺たちに、いつか戦が無い時代が来るのかよ」
 
 ボクは黙って目を閉じる。浮かんでくるのは泣いているのか怒っているのか、目の端を朱くした彼女だ。
 
『ごめんね。私、敵とか味方とかもよくわかんないの。ただ亮くんのお父さんが殺されてしまうような世の中は嫌い。許せない』
 
 父さんが殺されて。ボクは彼女に問いかけた。お前は味方なのか敵なのか。彼女に『お前』って言ったのはあのとき一度きり。僕の怒りの前、ずるい人だったら、『味方』って答えてその場をまとめようとするだろう。だけど彼女は違った。『わからない』。『是』でも『否』でもない答えにボクは彼女の本質を見たような気がする。
 湖の底のような冷静な自分と、彼女に会いたい情熱を抱えたボクが、もう一度彼女の残像に話しかける。彼女は泣き出しそうな顔で何度も頷く。さっき見たのと同じ泣き顔なのにさっきより嬉しいのは、彼女の口端が喜びで上がっているせい。そうだ。ボクも、そして晏而も、彼女も。ボクたちが目指している世界はみんな同じなんだ。
 
「晏而」
「はぁ? こりゃまたえらく長い間考え込んでたな。寝ちまったかと思ったぜ」
「戦のない時代は来るよ。必ず実現させる。ボクはそのために生きているんだから」
 
 彼女との約束を守るためにボクは生きる。こんな風に彼女のことをいつまでも忘れられないボクはどこかおかしいのかな。だけどおかしくたって構わない。彼女と同じ道を行く。そう思えることが幸せなんだから。
 
 
 
 こうして数日後、ボクは孟徳軍から無事に帰ってきた彼女と再会することになる。
 もう一つの、関門。彼女が彼女に成るための、仲謀軍への誘(いざない)のために、ボクは彼女に書簡を手渡した。
 
「寄り道しないでちゃんと行くんだよ? 落とさないでね。知らない人についてっちゃだめだよ?」
「こ……、師匠? あ、あの……?」
「じゃあまた明日ね」
 
 さっきボクの名を呼んで咎められたからだろう。彼女はきょとんとした目をボクに向けながら、あわててボクの名前を言い直す。
 ボクはくるりと背中を向けると、聞いているよという合図の代わりにひらひらと手を振った。
 
『また明日ね』
 
 自分で言った言葉に泣きたくなる。こんな顔を彼女には見せられない。見せたくない。
 『また明日』明日に続く明日。ずっと。
 戦のない平和な国を作る。達成する。そしてそのあとはどうする? 彼女は元いた国に帰るんだ。ボクはずっと彼女の近くにいることはできない。
 
 ……だけど。
 
 
 ──── 彼女と話せた今日くらいは、彼女に続く永遠を願いながら眠ってもいいよね。
↑rensenki-TOP / ↑site-TOP