俺はかなでのつむじに目を落としながら、ため息をつく。
ったく。俺のバカ兄貴は、一体 かなでに なにを言ったんだ?
*...*...* おやすみ *...*...*
「そんなにしょげるな、って。どーせ律のことだ。深い意味なんてありゃしないって」俺はそう言いながら、肩を落として下を向いている小さな頭をくしゃくしゃと撫でる。
またなんで、この横浜まで来て、俺は今までやってきたことと全く同じポジションにいるんだ?
こんなんじゃ、律、俺、かなで。3人で過ごしていた幼い頃とまるで変わらねぇじゃないか。
かなでは、ボソボソとくぐもった声で聞いてくる。
「ねえ、響也。どうしてかな……。どうして、律くんは私のこと、『小日向』って名字で呼ぶのかな?」
「知らねえよ。ったく。あんな朴念仁の考えが俺に理解できると思うか?」
「やっぱり……。迷惑だったのかな? 響也はともかく、私が転校してきたの。
律くんは律くんで、2年の間に作ってきた生活、っていうのかな……。オケ部の活動があるんだよね」
そう言ってかなでは、ぐいっと目の端をこぶしで拭いている。
ガキの頃と寸分変わらないその仕草は、色っぽいというよりか、かなり幼い。
「だーー。もう泣くなって言ってるだろ」
思い出し笑い、ってのもかなり気色悪いもんだが、思い出し泣きってのは、それ以上に困る。
俺は思わずのけぞると、どんよりと暗いかなでの空気を追い払うかのように、大げさに腕を振り回した。
「おい! かなで! 頼むから俺の前で泣くな! 俺が泣かせてるみたいだろ。おい、かなで、聞いてんのかー」
「ご、ごめん。もう少しだけ、待ってて」
「お前、なあ……」
「深呼吸、してみる」
俺は頭の後ろをボリボリとかくと、今日何度目かわからないため息をついた。
放課後、学院から菩提樹寮までの帰り道。
かなでが半ベソかきながら話すことを要約すると、こんな感じだ。
練習室で練習してた。
オケ部の先輩らしき人から、かなでのヴァイオリンがあまり上手くないと言われた。
それで? なんだ? 律から、『小日向』と言われた。
この最後のイベント(なのか?)が1番 かなでには堪えたらしい。
自分は『律くん』と呼び続けていいのか? それとも、如月先輩って言った方がいいのか。
そういえば、あの髪の毛のキレイな後輩から言われたの。ちゃんと公私の区別を付けてください。って。
俺は、律の後ろ姿を思い浮かべてみる。
想像の中でも律の背中は無機質で、なんの感情も持っていないマネキンみたいに、味気ない。
まあ、クソまじめな兄貴のことだ。
学院内では、部長という立場を考えて、名字で言ってるだけだろ? と俺はにらんでいるけど。
かなでの解釈はそうではないらしい。
突然転校する、と宣言して。
自分がこの星奏学院に飛び込んできたせいで、全国大会を目指している律に迷惑をかけているかも、と捉えているようだ。
「よっし。上出来。やっと泣き止んだか」
「う、うん……。ごめんね、響也」
それに加え、校内選抜で敵対する、ということも不安らしい。
俺からしてみたら、転校生の俺たちにいきなり馴れ馴れしく肩入れしてくる、大地とかいう上級生の方がおかしいと思うぜ?
それにあのスピッツみたいにキャンキャンうるさい後輩!
思えば、あいつに注意されたことが、奇妙な人間関係の始まりだった。
都会人っていうのは、なんか今までの俺の分類ルールでは分類しきれない不思議なヤツらが多い。
「とにかく、だ。かなで。律のことについて、お前は気にすることなんか何もない。
律に深い考えなんかないんだから。気にすんな! それだけ」
俺の励ましに、かなではようやく小さな笑い声を上げた……、が。
その笑顔は一瞬のうちに曇り空に逆戻りだ。
「勘違い、だったのかな」
「は?」
「あの、手紙……。『お前は、ここで終わるのか』って手紙。
律くんからの手紙だ、って私、思い込んでいたんだけど、そんな雰囲気、律くんにはなかったもの。
ねえ、私たち、今日で転校してきて、1週間、かな。私、やっと律くんとお話できた、って思ったのに。
聞かなくても、わかっちゃった……。あの手紙は律くんじゃないかも、って」
「ほらな、俺の言ったとおりだっただろ? だいたいあの律がそんな面倒なことするか? ってーの」
「うん……」
どんよりとした重たげな雲が西の空を覆っている。俺は勢いよく伸びをすると、自分が空腹なことに気づいた。
*...*...*
「おーい。かなで。お前、部屋の整理は終わってるだろうな。足元、大丈夫か?」俺はケータイの明るさだけを頼りに、周囲を見渡す。
電話口のかなではのんきに、『多分、大丈夫』と笑っている。
ったく、この寮って犯罪的に古いよな。もちろん耐震性基準なんて、あってないのも同然なんだろう。
不機嫌そうに光る稲妻は、時折、雨に打たれる窓を照らす。
って、これ、明日には、ガラスの何枚かが確実に割れてるよな。
『ねえ、響也。これ、もしかして停電?』
「らしーな。台風がやってくる、って話だったけど、思ったより早く来たらしい。
律が、食堂に来い、ってさ。女子寮、って確か、もう1人オンナがいただろ? そいつ誘って早く来いよ」
俺は用件を伝えると、そろそろと自室から廊下に出る。
初めて横浜に来たときは、夜だったせいか、横浜を形作るすべてのモノがみんな光で出来ているかと思うほどだったけど。
今こうして真っ暗闇の中をそろそろと歩いていると、都会、っていうのは作り物の世界で。
今、俺がこの場所に立っていることさえも、現実のことなのかわからなくなってくる。
「あらよ、っと−。へへ、ゴール到着」
壁伝いにようやく食堂に着くと、ちょこまかと動いている影が1つと、彫刻のように動かない影が1つ。
ま、慌てふためく律が見たい、ってワケじゃないから、いいけどさ。
俺は、彫刻の方に話しかけた。
「なあ、律。この寮には懐中電灯はないのか? 今まで2年間、困ったことはなかったのか?」
「今まで困ったことは特にない」
「今日みたいな停電は?」
「いや。あったかもしれないが、そういう日は早めにベッドに入ったから問題ない」
「そ、そりゃそうかもしれねぇけどさ」
なんか論点が狂ってる気がするが、まあ、いい。
かなでは、強風で寮が鈍い音を立てているのが不安らしい。
どこかの木製のドアが鈍く閉まる音を聞いて、身体を硬くしている。
「響也。懐中電灯の代わりにろうそくがあるが」
「ラッキー。ろくそくでも、ないよりずっとマシだろ? 貸してくれ」
俺はキッチンに入り込むと、手探りでコンロの火を付け、ろうそくへと移す。
見慣れた顔でも見えないより見えた方がかなでも落ち着くってもんだ。
「よし、これで少しは大丈夫だろ? かなで」
「うん」
食堂の端にあるスペースで、俺と律はかなでを挟んで両脇に座った。
かなでの左隣が俺。右隣は律。
物覚えのない頃から、これが俺たちのポジションだったような気がする。
今日の帰り道を思い出す。
そうだ。こういうときに、律に聞けばいいんだ。
──── どうして、律はかなでのことを名字で呼ぶんだ?
コイツ、勝手に気にしてメソメソしてて。扱いにくかったぜ。ってな。
だけどどうにも、俺から聞くのもフェアじゃないような気がして、かなでに目をやる。
だがあいつは、どうしてだかぼんやりした表情を浮かべたまま、ろうそくに目を当てている。
「あー、静かだな。律、なんか話題ないのか?」
「そうだな……」
律は律で、左手をさすりながら何か考え事をしていたらしい。
俺の問いかけに、ようやく視線をこちらに向けた。
「それなら百物語でもするか?」
「……は? なんでそうなる?」
そもそも、どうしてこうして3人で集まったんだよ?
真っ暗な中、少しでも不安だ、って思ってる、かもしれないかなでの気を紛らすためだろ?
律は至って真面目に理由を話している。
「いや、ろうそくの火を囲んでする話と言えば、百物語が定番と聞いたことがある。
ちょうど良い機会だ。この寮にまつわる話をお前たちに……」
「い、いや。待て。そうじゃねえだろ。律、かなでを怖がらせてどうするんだよ。
今、この状態でそんな話をするなんてありえねぇ。却下だ、却下」
俺の剣幕にようやく律は納得したらしい。
2、3度頷くと、再びろうそくの方に目をやった。
「それなら別の機会に話そう。この話は代々、寮生に受け継がれる決まりだからな」
「どういう決まりだよ。なあ、かなで。お前からも言ってやれ。律のバカってな。……って、かなで? おい?」
どうにもおとなしい、どころか、おかしい。
オバケ、とか霊、とか、暗闇が苦手なハズの かなでが、全然動じないのがおかしい。
そう思って右隣を見るとそこには、すーすーと 気持ちいい寝息を立てている かなでがいた。
「小日向が熱心に練習しているのをよく見かける。疲れているんだろう」
「どうりで静かなわけだ。いつもだったら、うるさいぐらい怖がるクセに」
器用にどこにも寄っかからずに寝ているかなでの頭を、律は自分の肩に載せると、小さい頃そのままにかなでの頭に2度 手を置いた。
「安心して眠るといい。……おやすみ」
──── あーもう、なんて言うのか。俺は、何も言う必要はないのか。
もう少しだけ、かなでが起きていれば良かったのに、とか。
もう少しだけ、律が早めに声をかけていれば良かったのに、とか。
もっと言ってやろうか。
もう少しだけ、かなでが、タヌキ寝入りができるくらい、あの、報道部のオンナくらい、悪知恵が働けばいいのに、とか。
律の肩の上に載っているかなでの顔をまじまじと見つめる。
ダメだ、完全に寝入ってる、こいつ。
なんか、俺がいろいろ心配してるのって、ホント、ただのバカみたいじゃねぇか。
「うん? どうした、響也」
「……バカ兄貴だ、って言いたいんだよ。あー、バカは俺か。やってらんねぇよな……」
俺のグチに、律はつまらなそうにメガネを押し上げると、『汚い言葉は慎むように』とだけ言った。