「……お前か」

 俺は返事の代わりにため息を返す。
 この構内選抜の忙しい時期の突然の電話。
 おかげで浮かんでいた曲想は、自分のモノにできないまま空を切った。
 そんなこちらの都合にお構いなく、電話の主は話し続ける。

「だーかーらー。律、聞いてんのか? オレとかなでは、7月から律のいる星奏学院に行く。
 転校手続きも終わった。今、かなでの荷造り手伝ってるとこ……。
 って、かなで、いい年してぬいぐるみなんか荷物に入れるな。これ以上段ボール増やしてどうすんだよ」

 どうやら響也は俺に電話をかけながら、かなでの荷造りを手伝っているらしい。
 声と声の隙間からは、段ボールを引きずる音と、派手に何かが割れる音が聞こえる。
 俺は腕時計に目をやり、2回目のため息をつく。

「……どうして急にそんな話になったんだ。春休みに帰ったとき、お前たちはそんなこと、一言も言ってなかっただろう」
「んなことオレが知るかよ。6月の教室の発表会のあと、急にかなでが言い出したんだよ。律のいる星奏学院に行く。転校するんだ、って」

 教室というのは、以前俺が通っていたこともある、地元のヴァイオリン教室だ。
 確かに毎年6月に発表会という形で、簡単な演奏会を開いていたことを覚えている。
 だが、その事実は今の俺にとっては単なる過去だ。
 感情に浸る暇さえ、今の俺にはない。俺は俺のやるべきことが山積している。

「……それで用件は? 俺も忙しいんだが」
「なんだー? 相変わらず愛想ないな。そうだ、リンデンホール、っての? 星奏学院って寮があるんだろ?
 せっかく荷物送るのに教えてもらった住所、かなでのヤツ、どこかやっちまってさ」

 以前俺が住んでいて、今、弟が住んでいる地元は、ここ横浜から4時間もかかる。
 風光明媚な、といえば聞こえはいいが、日本中どこにでもある、過疎化が進みつつある田舎だった。
 田舎のせいにする気はないが、電波の状態が悪いらしい。
 弟の携帯は、ときどき聞き苦しいノイズを立てて余計に俺をいらだたせた。  
*...*...* はじまり *...*...*
 立て付けの悪いドアを無理矢理押し込んでオケ部の部室に入ると、2年生の部員3人が、楽譜を物色していたのだろう。
 元々乱雑なテーブルの上に、古い楽譜が積み上げられているのが目に入った。

「き、如月部長、あ、あのっ! お、おはようございます」
「ああ。おはよう」
「今日は、オレ、あのっ。今度の学内コンクールの選曲について、き、如月部長の意見が聞きたくて」
「別にかまわない。君の都合の良い時間を指定してくれ」
「は、はい!! あ、ありがとうございます!!」

 俺が入ってきたことで、俺は今ここにある空気が一変したのを感じる。
 俺が部長、だからだろうか? それとも……?
 そこでいつも思考は停止する。
 仮に今の俺が部員に好かれていないとしても、今の俺は全国大会に向けて進んでいくしか道はない。

「おっ。頑張ってるな、君たち。3人でトリオを組むの?」

 ちょうどそこに顔をのぞかせた大地は、軽い足取りで後輩の間に滑り込んだ。

「榊先輩! そうっす。俺たち、全国大会メンバーに入りたいんですよね〜」
「ははっ。それは頼もしい限り、だな。部内選抜まであと1週間だからね」
「はい!」

 大地が入ってきたことで、とたんに3人の表情は柔らかく、やさしいものになる。
 軽快な唇から飛び出す明るい声音は、さっき俺に向けていた態度とまるで別人だ。
 去年の今頃、俺は、オケ部の部長に選任された。
 だけど、もし。
 誰とでも上手く合わせることができる大地が部長になっていたら、今のオケ部は今とは違う形になっていたのではないか。
 ──── 俺が、大地に勝っていると思えたところは、ヴァイオリンだけだったから。
 部長を選出する際、先輩たちは俺のヴァイオリンの実力だけ、を評価してくれたのだろう。
 もっとも今の大地は、高校からヴィオラを始めたとは思えないほどの上達を見せている。

 大地は後輩たちの意見を素早く取りまとめると、きちんと分類されているとは言い難い棚から楽譜を引っ張り出した。

「君たちの言う曲想なら、こんなのもいいんじゃないかな?」
「あざーず。大地先輩! 『ホルベア』ですかー。1度譜読みしてきます。おかげで助かったっす」
「こら。『あざーず』ってなんだ? ちゃんとお礼くらい言ってきな。まったくお前たちは調子がいいんだから」
「てへへ。では改めて。大地先輩、ありがとうございました。さっそく ざっくり こいつらと譜読み、してきます」

 笑いさざめきながら廊下に出て行く後輩の足音を大地は首をかしげて見送ったあと、くすぐったそうに俺の顔を見上げてくる。

「やれやれ。みんな気合いが入ってるね」
「……ああ」
「これも、律。お前の熱意が部員に伝わったんだ、と俺は思ってる。
 たった3年で星奏学院オーケストラ部をここまでにするって、やっぱりすごいよ」
「そうだろうか?」
「ああ。俺たちが高1のときのことを思うとね。大躍進だよ」

 大地は茶目っ気たっぷり俺を見ると、ゆっくりと視線を正面の棚の方へ移した。
 雑然とした部室の中、唯一そこだけは、もう何年も前から主を待ちわびているように空いている場所があった。

「……まあ、俺もお前の熱意に惹かれてここまでやってきた1人、だけどな」

 在校している3年間の間に必ず全国優勝を成し遂げてみせる。
 そう言い切る俺に、親しくなってからの大地は、何度かその理由について尋ねてきた。
 思ったきっかけ。思い続けている理由。
 俺はテーブルの上に置き忘れたままになっていた楽譜を手に取った。
 この楽譜にまつわるエピソードは、高1のときの俺を懐かしく思い出させる。

『ねえ、如月。この楽譜、おれがどうやって手に入れたか知ってる?』
『え……?』
『ね、妖精がくれた、って言ったら、如月は信じる?』
『本当ですか?』

 ──── 自分をいたわりながらヴァイオリンに向かっている、今の俺とは別の自分がそこにいる。

 俺が初めて星奏学院という学校の存在を知ったのは、中3の夏。
 響也、かなでと一緒に全国大会のセミファイナルを見に行ったときだった。

 きっかけというのはどこに転がっているかわからない。
 そのオケ部を引率している学生、というのが火原さんで。
 ひょんなことから、月森蓮と知り合いだということを聞いて、俺はさらに夢中になった。

『月森蓮、ってあの月森蓮ですか? 本当ですか?』
『んー。後輩だよ。おれの1コ下。ああ、月森くんのヴァイオリンが好きっていうことなら、きみもヴァイオリン専攻なの?』
『はい……』
『きみ、中学生? じゃあ、これから高校時代が待ってるんだね。
 いいなあー。おれももう一度高校生活やり直したいよ! すっごくすっごく楽しかったから』

 考えてみれば、どうして一介の中学生に対して、火原さんがあれほど心を開いてくれたのかわからない。
 元々すごく面倒見のいい人なのだろう、という印象はあった。

『きみ、良かったら、星奏学院に来なよ。いいところだよー。ああ、もしかしたら、今年は学内コンクールが開催されるかも、だし』
『学内コンクール?』
『あ、ごめん! そろそろ時間みたい。きみもどうか楽しんでいってね!』

 直後に聴いた、星奏学院のアンサンブルは、全国の強豪を軽々と飛び越え優勝した。
 優勝というだけなら、俺は星奏学院には来なかっただろう。
 だが、聴いたあとに浮かんでは消えることのない幸福感に、俺は改めて星奏学院の実力を知った気がした。

 演奏を聴いたとき、思った。
 俺も、この学院の一員になりたいと。



「そういえば、律」
「あ、ああ。すまない。少しぼんやりしていたようだ。どうした?」
「今日は、あの日、なんだろう? なんだったら俺も一緒に行こうか?」
「いや。俺一人で大丈夫だ。……おおよその見当は付いている」
「そうか。律にウソを言っても仕方ない、か」

 大地は額に手を当てると、微苦笑を浮かべている。

「率直に言おう。最近の律のポジショニングが少し気になってはいる。
 だから俺は、もう少し練習をセーブしたらどうかな、と提案したかった、というわけさ」

 この先に続く言葉を俺は何度聞いただろう。
 昨年全国ソロコンクール。俺の優勝は、来年へ向けての架け橋になったと思った。
 まばゆいばかりのフラッシュを浴びて、俺自身も気が高ぶっていた。

 だけど。

 突然背中に押しかかる圧力。
 ヴァイオリンを守ろうとした腕には、気がつけば全体重がのしかかっていた。
 その後の違和感は、1年近く経った今でも取れないままだ。
 いや、むしろ、最近は練習量を増やしたせいで、強くなっている。

 やりきれない思いが浮かんでくる。
 ──── 俺はもう、ヴァイオリニストにはなれない。
*...*...*
「如月君、だね。……ふむ」
「先生、具合はどうでしょうか?」
「ちょっと疲労がたまっているようだね。心当たりももちろんあるのでしょう?」
「……はい」

 黒い回転椅子に座りながら、俺は少しだけ居心地の悪い思いをする。
 消毒薬のにおいは、高2の夏のリハビリを思い出させるから苦手だ。

 簡単な所見が済むと、俺は左手首の傷を隠すように長袖のシャツを手首まで引っ張った。
 定期的に行う検査のせいで、俺の手首には、2つの大きな傷がある。
 造影検査のあとは、特に辛い。
 痛みはどれだけでも我慢する。だが、数日間にわたる疼痛は、確実に俺の練習の邪魔をする。

 もう1年の付き合いになろうとしている整形外科の先生は、厳しい表情で俺を見つめている。

「如月くんのことだ。練習を控えるようにと言ったところで、根本的な解決にはならないのでしょう。
 もっといい加減な患者になら、私もいい加減なことが言えるのだが」
「……すみません」
「私に言えることは、くれぐれも無理をしないように。ただそれだけです」



 俺は一礼をすると、重い足取りで診察室を出た。
 病院の窓からは、梅雨明けの空の下、銀の皿のような薄い月が張り付いている。

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