──── 俺は、好きだ。
 
*...*...* やさしくない *...*...*
 あと1週間で夏休みが始まろうとしている頃、かなでと響也は、鳴り物入りで星奏学院に転入してきた。
 大地に根掘り葉掘り聞かれて答えたこと。
 それが今は華やかな尾ひれをつけて、オケ部全体の噂となって広まっている。

「えーー。如月先輩の弟!? ってことはかなり上手ってこと?」
「待ってよ。その子がオケ部に入るって、まだ決まったわけじゃないじゃん?」
「でもでも! すっごく上手だったら、顧問のセンセも大プッシュなんじゃない? ……それに、さ」
「なに?」
「如月先輩の弟って、わんこ系、っていうの? どっか真っ直ぐな感じが可愛いくない?」
「えー。あたしも実はそう思ってたんだ」

 部員たちはもちろん、そんな話を俺の目の前ではしない。
 これらの噂は、すべて大地経由で伝え聞いたもの。

「──── と、まあ、こんな感じだよ? まあ、これで校内選抜も盛り上がっていいんじゃないかな?」
「……以前より騒々しいのはそういうわけか」
「まあ、俺も、せっかく響也とひなちゃんとアンサンブルを組んだわけだし。
 彼がやる気を出してくれるのはありがたい、かな? 俺とひなちゃんの関係もそれだけ長く続くわけだしね」
「まったく! 榊先輩には、節操というものがないんですか? どうして女と言えばすぐそんなに甘い顔するんですか」

 大地の軽々しい口調に、水嶋は神経質そうにさらりと髪をかき上げると、先輩をにらみつけた。
 そんな1年を、大地は余裕たっぷりに交わしている。
 どう見ても、この勝負は大地に軍配が上がりそうだ。

「大地。響也はともかく、……その」
「ん? どうした、律」
「いや、すまない。……小日向の調子はどうだ?」
「ひなちゃん?」
「そうだ。この前も音楽室で練習していたようだが」

 ヴァイオリンの職人だった祖父の近くで育ったからか、かなでのヴァイオリンの素養には素晴らしいものがあった。
 だが、天才少年、天才少女で来た人間というのは、どこかの時期で必ずスランプに陥る。
 環境を変え、師事者を替え、乗り越えていくのが常だが、かなでは住み慣れた場所から離れるのを拒んだ。
 環境が原因のすべてだとは言いたくはないが、高校に入って以来、かなでの音は、良くも悪くも人の耳をそばだてなくなったようだ。
 だが、元は悪くない。いや、もっと言えば、俺はあいつの音が好きだった。
 オケ部の選抜のとき聴いた音は、以前と変わらずやさしいフレーズだったが、少し覇気のない印象だったのも否めない。

「んーー。なんていうのかな。アクがない子だよね。音も人柄も」
「アクがない?」
「基本に忠実、先生に忠実。俺に忠実。いや、忠実な子って可愛いよねえ」
「……榊先輩、『忠実』って言葉は、女生徒に対して大変失礼な言い方だと思いますが」
「まあまあ、ハルもそうムキにならないんだよ? ああ、ひなちゃんの素直さをハルにも分けてあげたいね」
「結構です!」

 俺と大地、それと水嶋。
 水嶋はまだ入学してから3ヶ月くらいしか経っていないというのに。
 俺と大地、それに水嶋を加えた3人で奏でるアンサンブルは、とても心地が良い。
 それなのに。
 3人で作る音とは裏腹に、口を開くやいなや大地と水嶋は必ず言い争いになってしまう。

「……それで、小日向の様子は?」

 辛抱強く3分くらい待ち続けていたが、2人の会話は終わらない。
 俺は銀色のメガネのフレームを指で押すと、息をついた。

「……と、すまない。ひなちゃんの話だな?」
「ああ。気になってはいるものの、部員の用事を片付けているうちに つい後回しになってしまう」
「それはよくないな、律。あんな可愛い幼馴染みがいる、というだけでもお前はかなりの強運の持ち主だというのに」

 大地は、よほど かなでのことが気に入っているらしい。
 いつも以上の上機嫌で何度か頷くと、かなでのことは任せておいて欲しい、と頼もしいことを言った。
*...*...*
 放課後、俺は雨上がりの窓の外を眺めると、練習室へと向かっていた。
 午前中の実技では、ちょっときつめにペグを巻いておいたが、この調子だと湿度はどんどん下がってきている。
 練習をする前に、軽く調弦をしておくべきだろう。

「今日は、ここか」

 予約ノートの字を思い出しながら、俺は1番端の練習室へと向かった。
 どの練習室も、床も、壁紙も、大きさも、まったく同じだ。
 だけどどうしてだか俺はこの1番端の部屋が好きだった。

 校内選抜の結果は、どんな風になるのだろうか。
 全部で13チームはエントリーするだろうという話を水嶋からは聞いていた。
 校内選抜で選出されるのは、補欠も入れて全員で5人。
 今年のオケ部は、どういうわけか弦が圧倒的なシェアを占めている。
 だとしたら、ヴァイオリン3本に、チェロ、ヴィオラが各1本ずつ、か。
 いや、ヴァイオリンを際だたせて、ヴァイオリンを2本に、チェロ1本、ヴィオラ2本……。

「……叶うこと、なのだろうか」

 そこで俺はふと我に返った。
 理想は求めていたいが、俺の手首は、そこまでのわがままを許してくれるだろうか?
 ──── 俺が抜ける可能性を考えて、やっぱりヴァイオリンは3本必要だろうか。

 そう考えて、俺はノックしようとしていた手を止めて、腕時計の分針を確認する。
 午後4時1分。俺の予約は4時から、となると、前の予約者は、練習室を開放しても良い時間なのに。
 中の人間は、頼りない音を立て続けている。

(かなで、か?)

 オケ部員の顔を思い浮かべる。
 彼らの中に、このような音を作る人間はいない。もちろん最近入って来た響也の音とも違う。
 思えば、同じ時期にこの星奏学院に転入してきた響也かなでだったが、かなで自身の噂、というのはほとんど聞いたことがなかった。
 元々あまり我が強いタイプではなかったし、気づけば、響也の背中に隠れていて、俺はろくに話しもしていないように思う。
 俺はため息を1つ付くと、練習室のドアを開けた。

「途中で止めてすまないが、時間だ。もう俺の予約時間に入っている」
「あ、律……。あれ? 時間?」
「お前の予約時間は4時までだ、と言っている。部屋を空けてくれないか?」
「ご、ごめんなさい。時計見るの、忘れてた」

 かなではひどくすまなさそうな表情を浮かべて、パタパタとケースにヴァイオリンを仕舞い込んだ。
 幼い頃と変わってないその様子に、自然に俺の目も細くなる。

 そうだった。自分の身内がヴァイオリン職人、ということもあって、かなでは小さい頃から、ヴァイオリンの扱いにやや無頓着なことがあった。
 その環境は、転校してくる前まで変わってなかったのだろう。
 限られた仕送りの中で、弦を買い、修理をし続けていた俺とは扱い方が違って当然なのかもしれない、か。

「そんなにあわてなくていい。……楽器をぶつけたらどうする?」
「うん……。だけど、律も練習したいよね? ごめんね、気が付かなくて」

 ちょうど隣りの練習室も、キリがついたのだろう。
 ドアを開ける音に続いて、女生徒の声が飛び込んできた。

「そうそう、あたし、その転校生の演奏、聞いたんだけどさ−。如月くんの弟はともかく、女の子の方、イマイチだったよね」

 突然、自分の名前が出てきて思わず、俺とかなでは顔を見合わせる。
 転校生。女の子、といえば、この場合対象は かなでしかいない。
 相槌を打つもう1人は、慎重そうな口ぶりで返事をしている。

「そうね。下手ではないのだけれど、音が響ききってない感じだわ」
「大丈夫。選抜はきっと江里が選ばれるって。……そうだ、気分転換に、カフェ フェリシアに行かない?
 シューアイスが入ったって、美緒から聞いたの」

 女生徒は笑いさざめきながら、その場から遠ざかっていく。
 小さな台風のような言葉に振り返って見ると、かなでは肩を落としてしょげきっている。

「……小日向。お前のヴァイオリンを貸してくれないか」
「律?」
「いいから」

 俺はかなでの手からヴァイオリンを取り上げると、テールピースから貼り付けられている弦をじっと目で追った。
 途中、E弦がかすかに歪んでいるのがわかる。
 駒を見ると、そこだけ不自然に大きく内側に反れている。
 なるほど。原因はここなのか。

「小日向。お前のヴァイオリンは駒が曲がっているんだ。そのせいで音にひずみが出ている」
「そうだったんだ……。音が出にくくなってるのは、田舎と都会の違いかな、って思ってた」
「田舎と都会?」
「うん……。横浜は素敵な街だけど、ちょっと空気が薄い気がする。空も木もね。……色が薄いの」
「他人の評価に流されることはない。……俺は、好きだ」
「り、律……?」

 俺は再び駒の位置を確認する。E弦の調弦は、ヴァイオリンに慣れている者でさえ難しい。
 かなでは今まで他の弦の調律は自分でやっても、E弦だけは じいさんに任せていたのかもしれない。

「……お前の音が」

 俺は再びかなでのヴァイオリンの和音を確かめると、そっとかなでに手渡した。
 ところが、かなでは以前の無邪気さを見せることなく、目を潤ませて俺を見ている。

「どうした? ほら、お前のヴァイオリンだ」

 空調が効いているこの練習室は、長袖の俺でもさほど暑いとは思えないのに。
 どうしてかなでは、こんなに頬を赤くしているのか。新しい制服が着慣れないのだろうか?

「律、……その、どきっとした。私……」
「……なんの話だ?」
「り、律が、そんなこと、言うからだもん!」
「……わからないな。問題があるなら、俺にわかるように説明してくれ」

 かなではなにを言っているのだろう。
 そんなこと、か。さっきの女生徒たちの非難だろうか? 田舎と横浜の違いか。

「楽器の持っている最高の音を引き出してやるのが、楽器に触れる者の務めだ。
 お前でも十分ケアできる。今度は自分でやってみるんだな」
「……うん。あの、どうもありがとうね。助かっちゃった」


 かなでの上に、さっきの複雑そうな表情はもうなく、子どものときと同じような優しい目が微笑んでいる。
 久しぶりに見るその顔に、どうしてだかわからないが、心の底が温かくなる。
 ──── そうだ。かなではいつもこんな風に笑ってた。俺が ほっとするような笑顔で。




「小日向。学内選抜ではいい音を聞かせてくれ。楽しみにしている」

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