*...*...* きらきら *...*...*
「じゃあね。小日向ちゃん。午後からの授業は1時始まりだよ?」
「そうそう。実技と講義の両方だから、ちゃんと音楽理論の教科書、持ってくるんだよー? それに音楽史じゃないからね?」
「あはは。今日はバッチリ、の予定だよ? どうもありがとう」

 村上夏希ちゃんと、谷奈央ちゃん。
 私は最近お昼を一緒にしている、2人のクラスメイトに手を振ると、のんびりと森の広場へと足を伸ばした。
 1人きりになったのを見計らって、よそ行きの顔をちょっとだけ外す。

 転校してきて今日で3日。
 クラスメイトは、不慣れな私を優しく受け入れてくれた。
 特に夏希ちゃんと奈央ちゃんは、転校してきたその日から、私にいろいろなことを教えてくれたっけ。

 この学院には靴箱がないこと。アールデコ調のタイルについて。それにカフェテリアの使い方。授業の受け方。
 そして、理事長のカッコ良さについてや、ヴァイオリンロマンスという伝説についても。
 どういうわけか、私は小学生の頃から、こういうお姉さんタイプに助けられて、学校生活を送っていたような気がする。
 ──── おかしいなあ。私、自分ではしっかりしてると思っているのに。

 夏休みが終わる頃には、もう少しだけ仲良くなれるといいな。
 友だちとも。この横浜の街とも。
 彼女たちにもっと自分らしさを伝えることができたら、もっと仲良くなれる気がするんだもの。

「小日向」

 ふいに鈴の鳴るような声がする、と思ったら、そこには、寮生のニアちゃんが立っていた。
 細い細い足と、涼しやかな髪。歩く様子までどこか猫に似てしなやかだ。

「ニアちゃん! ニアちゃんは、お昼、もう食べたの?」

 星奏学院に転校して以来、私が1番接している女の子はニアちゃんだ、って思うのに。
 考えてみれば、私はニアちゃんが何かを食べている、という様子を一度も見たことがない。

 寮の食事は朝夕2回。夕食は当日の朝までに申請をしておけば準備されている。
 朝食は、オプショナルのような夕食とは違って、必ず準備されている。

 だけど、ニアちゃんは、夕食はほとんど申請をしないようだったし、
 じゃあ朝食はといえば、毎日うっとりとした顔で紅茶を飲んでいるばかりだった。
 ニアちゃんは私の問いを、これもまた優雅に交わすと、目の前にある小さな池に目をやった。

「君は聞いたことはあるかい? この池についての噂を」
「噂……? ううん。知らない。なあに?」
「ほらあそこ。池のほとりに、ハート型をした平たい石があるだろう?
 あの石の上に立って池をのぞきこむと、初恋の人の顔が水面に映る、そういう噂だ」

 ニアちゃんが指さした先には、確かに直径30センチくらいの白い石がある。
 表面はヴァイオリンの表面にニスを塗った、すぐ後みたいに輝いている。
 多分、今までたくさんの女の子たちが、その石の上に立ってじっと水面を見つめてきたんだろう。

 私の、初恋、か……。
 物心つかない頃から、ずっとヴァイオリンをやっていたせいかな。
 私はお父さんよりもお母さんよりも、ヴァイオリンの修理をしていたお祖父ちゃんの後をついて回った。
 私が覚えている1番幼い頃の思い出は、工房で働くお祖父ちゃんの真剣な眼差しだったりする。
 だから、今、池の中に映るのは、今より少しだけ若いお祖父ちゃんの顔かもしれない。

「ニアちゃん。私、面白そうだから、やってみる!」
「さすがだね。期待通の反応感謝するよ。自分で試すにはあまりにバカバカしくてね」
「はい?」

 も、もしかして、私、ハメられてる? の、かな?
 えっと、池をのぞき込んだ瞬間、ニアちゃんの赤いデジカメで激写されて、それで、それで、
 明日には、校内新聞のネタになっちゃったりしてるの??

 抗議の意味を込めて口を尖らせていると、ニアちゃんは私の内心を察したのか、デジカメを内ポケットにしまった。

「私はあいにく、この手のことをするキャラじゃない、ということだ。君なら問題ない。少なくとも見た目は普通の恋する女子だ」
「う、うん……。あの、恥ずかしいから、写真、撮らないでね?」
「もちろんだとも」

 『少なくとも見た目は』という言葉に多少、ひっかかるかも、だけど……。
 ワクワクする気持ちは抑えられない。
 私は白いハートの石の上に立つと、えい、っと池をのぞきこんでみた。

(あ……)

 水面に、夏の照る日が反射している。
 この景色をどこかで見たことがある。
 いつの頃の記憶なのかな。しくしく泣いてる私の声も聞こえてくる。
 流れの急な川。白い花のついた私の麦わら帽子が流れていく。
 足を踏み入れようとしたら、二の腕を捕まれた。

『泣くな。お前の帽子はおれが拾ってやるから』

 目の前の男の子は、ザブザブと川の中に入っていって、足を滑らせる。
 思わず近寄ると、厳しい声でたしなめられて。
 進むことも戻ることもできない私は、ただ目を閉じていることしかできなくて。

『はい。帽子』

 おそるおそる目を開けると、そこには私の帽子と、男の子の笑顔があった。
 ──── まだメガネをかけていない頃の、律くん、だ。

 私の背後から被さるように池を見ていたニアちゃんは、つまらなさそうに上体を起こしてため息をついた。

「あーあ。思ったとおり、何も見えやしない。どうだい? 君には何か見えたかい?」
「あ……。えっと、そうだ、あの」
「小日向?」
「その……、キラキラが見えた。たくさん」

 律くんのことを思い出したことはニアちゃんには言えなくて、私はとっさにウソをつく。

 まさか、律くんが……。私の初恋?

 律くんは中学に入ってから、急に大人っぽくなって、以前のように響也や私とは遊ばなくなった。
 会えば、ヴァイオリンの話ばかりだった。
 『こんな田舎にいては、駄目になってしまう』が口癖で。
 その頃、ちょうどスランプを抱えていた私は、どんどん楽な方に流れていった。

 ……忘れてた。
 いつもまっすぐ正直な人だったこと。
 困ったときは、必ず手をさしのべてくれていたこと。
 きっと私、まだ思い出せないこと、いっぱいあるに違いない。
 ──── 律くんに助けられて、助けられたという記憶もないまま、忘れていることが。

「君に感謝するよ。君のおかげでこの池にまつわるウワサはガセだということが証明されたからな」
「う、うん……」
「さて、働いたところで私はもう一眠りするとしよう」
「あの、ニアちゃん、午後の授業、始まっちゃうよ?」

 いつも鋭いニアちゃんにしては珍しく、私の態度を不思議がることなく、伸びやかな笑顔を見せた。

「なに。普通科は音楽科ほどハードじゃない。それなりの点数を修めていれば、学院もとやかく言えないのさ」
*...*...*
 どんよりとした空が、明日の天気を伝えてくれそうな放課後。
 クラスメイトたちは終業のベルが鳴るやいなや、一斉に花咲くように笑う。
 先生も心得たように、短く別れの挨拶をすると、そそくさと職員室へ向かった。

 この瞬間は、いつも少しだけ心細くなる。
 私、は、どうかな? 新しい環境に少しずつ慣れてきているのかな?
 誰か、声を掛けてくれたいい。
 クラスメイトの中にいる自分が、少しでも『転校生』という特別な存在から、普通の『クラスメイト』という存在になれたらいいのに、って。

 ゆっくりと鞄の中に教科書を片付ける。
 ほとんどの場合、私の演技は演技で終わって、私は響也に声をかけることになる。
 一緒に練習をしよう? って。

(響也……?)

 何気なく後ろの席にいる響也に目をやると、そこには、クラスメイトと大笑いしている幼馴染みがいる。
 そうなんだよね。
 響也が横柄な口を利く相手。
 それは、律や、あの、オケ部の後輩くんのような、音楽を何よりも大切に思っている人たちに向けてだけ、で。
 音楽科はもちろんそういう人が多い、とは思うけれど、もちろん全部じゃない。
 多分今、響也の回りに集まっている人たちは、響也と同じ価値観を持っている人たちなんだろう。
 頑張るなんてバカバカしい。結果がついてきたらそれでいいんじゃねえか、って。

(今日は1人で練習しようかな)

 響也とはまた寮に帰ったら会えるからいいや、と思って立ち上がると、夏希ちゃんと奈央ちゃんが席の近くまで来てくれた。

「小日向ちゃん、今日はもう帰り?」
「あ、夏希ちゃん、それに、奈央ちゃん。うん、少し練習して帰ろうかな、って」
「いいなあ、小日向ちゃん、学院と寮ってすっごく近いもんね」
「うん……。かなり古くて、少し怖いけど。
 ……あ、そうだ。2人に聞きたいことがあったの。オススメの楽器店、ってこの近くにあるかな?」

 そうだ。学院からそれほど距離がないなら、練習の前に少しだけ楽器店に行きたい。
 買い置きしておいたE弦を、午後からの授業で2本もダメにして、予備がもうない。
 今までだったら、お祖父ちゃんが全部メンテナンスをしてくれてたから、弦の値段とかあまり意識してなかったけど。
 これからは自分のお小遣いの中でやりくりしなきゃ、だよね。

「楽器店? 星奏学院御用達の店がすぐ近くにあるよ? 地図書いてあげるから行ってきたら?」
「地図? 夏希の地図って迷路だからなー」
「とかいう奈央も、自称『地図の読めないオンナ』じゃん? 私、書けるだけマシってもん?」
「ほら、小日向ちゃん。私の力作」
「ありがとう! 私、頑張るね」

 私は星奏学院と楽器店が1本の線で結ばれた不思議な地図をもらって、まっすぐに校門に向かった。



「えっと……。歩いて10分くらい、って話だったから、頑張れば30分くらいで学院に戻ること、できるよね」

 私は夏希ちゃんの書いてくれた地図をかざして、正門に向かう。
 学院には大きな正門と、小さな北門。その真ん中に、このファータの銅像が建っている。
 あ、あれ? 多分……、だけど、夏希ちゃんの書いてくれたこの地図、楽器店に行くにはどっちの門から出ればいいんだろう。
 北も南も書いてないから、全然分からないかも……。
 この怪しげな人形の絵は、きっとこの正門前のファータ、なんだよね?

「小日向。こんなところで何をしている? 練習はどうした」
「り、律くん?」

 見上げるとそこには、池の中で見た律くんとはまったく別の、大人の顔をした彼がいた。
 とっさに、冷たいガラスのようなメガネの奥を、昼に見つめた池の水面のように覗き込む。
 ──── 優しい目。きらきら光る目の色をした律に、お願い。もう一度、会えますように。

「小日向?」
「うーん……。見えない、なあ……」

 息がかかりそうな距離なのに、意識しているのは私だけみたい。
 律くんは普段通りの冷静な表情で私を見返してくる。

「……何か俺の顔に付いているだろうか?」
「う、ううん? 普通に、目と鼻と口が付いてる」
「は?」

 ばかばか。違う、そうじゃなくて!
 でも私の頭は昼間見た、幼い律を忠実に再現する。
 目も、鼻も、変わってない。口元も。

 だけど、違う。

 幼い頃、私を映してくれていた律くんの瞳は、今は違う何かを映しているんだ。
 それは一体なんだろう。
 オケ部の練習? それとも今度出場するといっていた、全国学内コンクールのこと?
 1週間後にある学内コンクールを経て、その先。
 この夏を越えた向こう側に行けば、わかるのかな?

「あ、あのね。律くん。楽器店に行こうと思って。その、どっちの門から出たらいいのか、この地図から読み取れなくて」

 もしかしたら、律くんも一緒に楽器店、行ってくれるかな、という甘えのような期待があったけど。
 律くんは私の気持ちに気づく様子もなく、ポケットから細いシャープペンを取り出す。
 そして私の手にしている地図を取り上げると、丁寧に曲がるとき目印になる建物を書き込んでいった。



「律くん……?」
「よし。ここまで書けば、小日向でも道に迷うことはないだろう。気をつけて行ってくるといい」
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