*...*...* ゆうだち *...*...*
 寮へと向かう西の空は、重苦しそうな色で俺の背中を覆ってくる。
 湿度が高い。明日の練習では、心持ち弦を強く巻く必要があるのかもしれない。

(そういえば、今週でこの地域も梅雨明けだ、と言っていたようだが)

 寮の自室にテレビがない俺の情報源といえば、ラジオの存在が大きい。
 パソコンも無いわけではないが、細かい楽譜を見ることで、どうしても目に疲れが出るのだろう。
 必要な情報はラジオから得ることが多いように思う。

(それにしても、今日の小日向の演奏はよかった)

 今日の学内選抜の熱気を思い出す。
 響也と大地。それに小日向。
 大地は『演奏順にツキがあったのさ』と謙虚な意見を告げていたが。
 この3人のアンサンブルは、この1週間で編成したとは思えないほどの勢いがあった。
 素直な音の小日向。それを少しスクラッチするような響也のヴァイオリン。
 その2人を優しく包み込む大地のヴィオラは、遠く離れている祖父母のような暖かみに満ちていた。

『僕の考えが間違っていました。響也先輩、小日向先輩。これから全国大会に向けて頑張りましょう』

 水嶋の言葉がオケ部全体の意見を表しているのだろう。
 突然転校してきて、いきなりオケ部の選抜に出ることを不満に思っていた部員たちも拍手で響也と小日向に笑いかけていた。

 ──── これなら、俺の最後の夏を、彼らに任せることができるかもしれない。

 俺は右手に持っていたヴァイオリンケースとカバンを改めて持ち直す。
 ケガをした左手首には極力負担をかけないように、と心がけているのに、やはり今日の学内選抜では無理をしたのろう。
 顔の前に持ち上げた左手は、血が通っているとは思えないほど、冷たく硬くなっていた。

(大地と、響也、水嶋。……それに小日向。俺はお前たちに、俺の夏を委ねることしかできないのか)

 長時間の練習にも耐えられない俺が、部長を務め、さらに全国大会出場を狙ってる。
 俺の事情をある意味、俺以上に熟知している大地はともかく。
 響也や小日向。それに水嶋は、俺の現状を知ったなら、どんな言葉をかけるのか。

「……ん?」

 ふいに思考を中断させる小気味良い足音がする、と思ったら、それは俺のすぐ後ろで止まった。
 背中越しに弾むような声がする。

「律くん!」

 俺をこんな風に呼ぶのは、……そう、小日向だ。
 ちょっと舌っ足らずな、幼い声。
 いつも俺のあとを、響也と2人、必死な顔して追いかけてきてた。
 すばしっこい響也に、走るスピードは敵うはずもなかったのだろう。
 律くんにも響也にも追いつけない、と言ってベソをかく小日向に、響也は慌ててUターンすると再び小さな手を引いて戻ってきた。

 俺が星奏学院に来てから、俺たちが共に過ごした田舎のことをすっかり忘れていたが。
 小日向の声は、瞬時に俺を懐かしい場所に連れて行く力がある。

「ああ、小日向。今、帰りか?」

 小日向の演奏を、今日は久しぶりにしっかり聴いた。
 よく1週間であのレベルまで持っていけたものだと思う。
 大地と響也。小日向の周囲の人間も良かったのかもしれないが。
 逆に言えば、小日向が彼らの長所を引き出したとも言えるのかもしれない。

 小日向は肩上の髪を揺らしながら、満面の笑みで俺を見上げた。

「うん。今日はあの……、律くん、ありがとうね」
「俺はお前に、なにかお礼を言われるようなことをしただろうか?」
「私、律くんの演奏、ずっと聴きたい、って思ってたの。だから今日、しっかり聴くことができて嬉しかったな。
 しかも、舞台の袖で。あそこって客席よりもずっと近いし、指の動きもよく見えるんだよ?」

 転校して以来、不安などを一度も口にしたことがなかったが、やはり感じるところはあったのだろう。
 目の前の小日向は、緊張のほどけた表情で笑っている。

「今日のお前はいい演奏だったと思う。これからの大会も期待している」
「うん……。ありがとう」

 自分自身、それほど饒舌なタイプではないことはわかっている。
 音楽科の生活を送るにあたって、この俺の特性はそれほど不便を感じることがなかったし、
 オーケストラ部の中にあっても、俺の足りないと思われるところは、大地がフォローしているのだろう。特に困ることはなかった。

 だが、今、この場には俺と小日向の2人しかいない。
 気づくと俺の歩幅が広いのか、小日向は数歩後を歩いている。
 雨が近いのだろう。昼中うるさく鳴いていたセミたちは、一斉になりを潜めて静寂を作った。

「そういえば、小日向」
「えっと……、あ、あの、律くん?」

 重い空気を追い払うかのように口を開くと、小日向と言葉がぶつかる。
 無理矢理消そうとした沈黙は、さらに重みを増して、俺と小日向の間に我が物顔に寝そべっている。

「あれ? 雨……?」

 大粒の滴が眼鏡を濡らす、と思ったら、それはあっという間に叩きつけるような豪雨に変わった。

「夕立か……。激しくなりそうだな」
「は、走ろう? 律くん!」

 小日向は不安そうに、ヴァイオリンケースを抱きかかえる。
 そしてやけに膨れあがったカバンも一緒に胸に持つと、勢いよく走り出す。
 そういえば、校内選抜が終わったあと、水嶋から何冊か楽典を渡されていたのを覚えている。
 大地だったら何回かに分けて運ぶ量。それを小日向はきまじめにすべて持って帰ったらしい。

「ほら、荷物を貸せ。お前はヴァイオリンケースだけ持っていけばいい」

 俺は、細い腕と不釣り合いなカバンを左手で持ち上げると、一気に寮まで駆け抜けた。
*...*...*
「寮が近くてよかったな」
「律くん、走るの、早いね。……私、運動不足かも」

 ほんの少しの距離だというのに、小日向は肩で息を繰り返している。
 俺は手にしていたカバンを小日向に渡すと、左手首をおそるおそる撫でた。
 どういうわけか、さっきまで冷え切っていた手首が柔らかさを増している。
 小日向は、ぎこちない俺の動きを不思議そうに見つめている。

「抱えて持ってきたからだろう。お前のヴァイオリンケースもほとんど濡れてない」
「それは、律くんが私の荷物を持ってくれたからだよ。……ありがとう」

 横殴りの雨の中、小日向はヴァイオリンケースが濡れないようにとだけ考えて走ってきたのだろう。
 気がつくと目の前の幼馴染みの髪先からは、シャワーを浴びたのではないかと思うほどの水滴が伝っては落ちていく。

「小日向。ちょっと待っているといい」

 俺はエントランスからまっすぐバスルームに行くと、備え付けのバスタオルを持ってくる。
 そしてワケがわからないといった様子の小日向の頭をすっぽり覆うと、ポンポンと髪の水分を拭き取っていった。

「あ、あの、律くん……っ?」
「ちゃんと乾かしておいた方がいい。……夏とはいえ風邪を引くぞ?」
「……うん、それはそうだけど」

 小日向の身体から立ち上る香りは、俺の身体からは感じたことのない甘いものだった。

 ──── 幼い頃、こんなことは何度もしていた。特にプールに行った帰りなどは。
 響也も小日向も、こうやって俺に髪を乾かしてもらうのが好きで。
 だけど、髪の短い響也はどうしても早く乾いてしまう。
 じっとしていることが苦手な響也と2人、こうして小日向の髪を乾かした。
 終わったあと、真っ白なタオルから覗く小日向の笑顔に見とれた。

 髪が乾いたら、必ずこう言うんだ。

『──── ありがとう。今度は、律くんの番!』



「──── ありがとう。今度は、律くんの番!」

 パズルのピースがぴたりと合うような、不思議な感覚。
 小さいばかりだった俺の幼馴染みは、はっとするほどの美しさでタオルの隙間から顔を出した。

「俺? 俺のことは気にしなくていい」
「ううん? ダメだよ」

 日頃、強く自分の意見を言ったことがない小日向が、珍しく頑として意志を曲げない。
 その光景が珍しくて、俺は改めて小日向のつむじを見つめる。

「どうしても、か?」
「うん! 律くんこのままじゃ風邪引いちゃうよ?」

 小日向はバスタオルを手に俺の頭に手を伸ばす。
 ひょこひょこと背伸びをし、どうにも届きそうにないことを知ると、今度は俺の手を引いて、近くにあった椅子に座れ、と言う。

「えへへ。……やっと、届いた」

 腰掛けた俺の脚の間に立ち、小日向は優しい手つきで、髪を拭いていく。
 額や、耳の後ろ。日頃自分では意識したことのない部位に柔らかい感覚が広がっていく。
 俺の髪は小日向の指に素直に従う。
 この時間がずっと続けばいい、とさえ思うのに、どうにも恥ずかしさがそれを上回る。

 おかしなものだ。小日向の髪を拭いていたときは、この子が風邪を引かなければいい。
 そればかり考えていて、照れくささなんてまるで感じなかったのに。
 タオルの隙間から、小日向の胸元が見える。
 簡単に腕の中に押し込められそうな、小日向との距離に戸惑う。

 小日向は最後に襟足の髪をパタパタと拭き取ると、満足げに俺を見つめた。

「はい。おしまい。だけど早めにお風呂に入った方がいいかも」
「反省した」
「はい?」
「どうも気恥ずかしいな、こういうのは」

 こんな至近距離で目をそらすのもおかしな話だと思いながらも、そう告げると、小日向も頷いたのがわかった。

「律くんも? 本当は私も少し……」
「そうか」
「ほら、いつもは響也がいるでしょ? そのせいかな?」

 小日向が転校してきて1週間。
 俺が小日向の領域に、そして、小日向が俺の領域に入り込んだから、だろうか?
 再び沈黙が俺たちの間に存在しているのは事実でも。
 さっきの帰り道に感じたようなぎこちなさを、今はなにも感じなかった。


「……雨も悪くないな。こういう時間も」




 俺はゆっくりと小日向の頭に手を伸ばす。
 そしてこの子の髪が乾いていることに、満ち足りた気持ちになった。
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