*...*...* かんちがい *...*...*
「どうしよう……」

 私は口から飛び出してくる鼻歌を指で押さえると、鏡を見つめながら、さっきの律くんの言葉を思い出していた。
 ようやく身体に似合ってきたように思う、星奏学院の制服。
 新品らしさは少し消え、肩の付け根に寄っているシワは、どこか誇らしげだ。

『今夜、俺の用事に少しだけ付き合ってほしい』

 律くんがそんな風に自分の気持ちを言ってきてくれたことなんて、初めて、で。
 学校の外で会う、というのもドキドキするし。
 その……、夜っていうのは、もっとドキドキする。

 響也は今夜、同じオケ部の同級生のウチに行くって言っていた。
 ちょっとクチは悪いけど、開けっぴろげで人なつこい響也だもの。
 転校して以来、こうして友だちと遊びに誘われることは初めてだったんじゃないかな。
 今日はずっと はしゃいでたっけ。

『お前も早く、イイ友だち見つけろよ。はぁ? ニアちゃん? あの情報屋が友だちってか?』

 そっか。響也がいない、ってことは……。
 今夜は田舎にいたときみたいに、私と響也、それに律くんの3人で出かけるってことじゃない、ってことで。

「だけど、そ、そう! もしかしたらオケ部の誰かが一緒、ってことかもしれないし!」
「なに鏡に向かって、ブツブツと独り言を言ってるんだ?」
「わ! あ! ニアちゃん!!」

 『独り言』って言葉に、恥ずかしさがこみ上げる。
 勢いよく振り返ると、そこには腕を組みながら薄く笑みを浮かべたニアちゃんが立っていた。

「き、聞いてたの?」
「いや。聞こえたんだ。ついでに、お前の鼻歌も聴かせてもらった」
「ほ、ホント? そんなの、お願い、聞かないで」
「だったら、自室のドアを半開きにしておかないことだ。
 結構古い寮だが、これでもわりと壁は厚い。ドアを閉めておけば、まず声が外に漏れることはない」
「ありがとう……。って、そうじゃなくて!」
「さっき、『出かける』って言っていたのを聞いたが、こんな遅くに出かけるとは珍しいな」

 ニアちゃんは、黒ネコのようにひっそりと私の部屋に入ってくる。
 しなやかな身のこなし。足音のしない歩き方は、本当にあのとき見た黒猫はニアちゃんなんじゃないか、って思えてくる。
 私は、笑いそうになる頬を必死に手で元に戻しながら説明した。

「うん、あのね、今日、これから律くんと出かけるの。そういえば、この寮って門限ってあったっけ?」
「いや? 規則なんて、秩序を乱すヤツらのための足枷せに過ぎない。
 守るヤツは守るし、守らないヤツは守らない。それだけの話だ」
「うーん……。よく分からないけれど、門限はナイ、ってことでいいのかな?」
「なに。部屋の明かりを消して寝たことにしておけば、なにも問題ないだろう?」
「はい??」

 ええと……。
 それってつまり、門限はある、ってこと? それとも、ナイ、ってこと?
 懸命に頭の中をグルグル動かしてみるけど、やっぱりよくわからない。
 だけど、今日は同じ寮生の律くんが一緒なんだもの。きっと大丈夫、だ、よね。

 ニアちゃんは、私が『律くんと出かける』と言ったことが気になったのか、ふと考え込む表情を浮かべている。

「しかし、あの部活命の堅物が、な。珍しいこともあるもんだ」
「あはは、スクープネタになるかなあ? ごめんね、そろそろ、私、行こうかな」

 私はカバンを手にすると、とん、と椅子から立ち上がった。
 待ち合わせの時間まであと15分。
 なんだか部屋にいても落ち着かない。ここは、待ち合わせ場所に行ってしまった方が……。
 って言っても、待ち合わせ場所は寮の玄関。だけど、部屋を出てしまえば、逆に覚悟もできるかも。

 ニアちゃんは私の格好を一瞥すると、今度は組んでいた腕をほどいて不満そうにあごに手をあてる。
 あれ? 制服、おかしい? どこかに汚れがついてたりするのかな。

「しかし、まさかとは思うが、君はそんな制服姿で出かけるつもりじゃないだろうな?」
「え? そのつもり、だよ?」
「わざわざ2人きりで出かけるということは、お前は如月律と『デート』に行くのだろう?」

 ニアちゃんは大げさに肩をすくめると、私がずっと言えなかった言葉を言った。
*...*...*
 7月の夜空は夏の準備に忙しいのか、少しだけ気の抜けた色をしている、と思う。
 南の空に張り付いた大根のような半月は、そんな空を心配そうに見守っている。
 律くんは早足で寮から出てくると、私を見つけてさらに小走りになった。

「小日向。待たせたか?」
「ううん? 待つのも楽しいから、全然平気だよ?」
「……変わっているな。じゃあ行くか?」

 膝下にヒラヒラとまとわりつくスカートの裾がくすぐったい。
 シフォンを重ねたような白いスカートは、この街へ来て、初めて衝動買いした服だ。

 ──── だけど。

 ちらりと隣りにいる律くんを見つめる。
 律くんは、普段どおりの、制服。
 もう、この制服を身につけてから、10時間以上時間が経っているのに。
 律くんの制服姿は、たった今、制服を身につけたんだ、といわんばかりの朝の匂いがする。
 私はちょこちょこと律くんの前に回り込むと、思い切って尋ねた。

「えーっと、今日はどこへ行くの? コンサート?」
「今日はそんな暇はない。行き先は楽器店だ」
「楽器店?」

 律くんは理路整然とした様子で話し続ける。
 私たちが大会の練習に忙しい間、他の部員を遊ばせておくわけにはいかないこと。
 新入生にとって、この1年は特に大切な基礎固めの時期であること。
 なるべく1人の人間の好みに特出しない練習譜をそろえておく必要があること。

「俺1人で選ぶとどうしても傾向が似てしまうから。お前の意見も聞きたかった。それだけだが、なにか質問でも?」
「そ、そっか」

 私は律くんに気づかれないように、と少しずつ息を吐く。

『あとで首尾を聞かせてもらおう。細かく報告するように。いいな』

 本気かどうか分からない不思議な笑みを浮かべて、あのあとニアちゃんはまた足音も立てずに私の横をすり抜けていった。
 もうもう、首尾なんてとても話せる状態じゃない。
 そもそも『デート』っていう前提が崩れてる!

(ニアちゃん……。デートどころか、普通に部活の用事だったよ!)

 律くんはそこまで話をすると、不思議そうに私を振り返った。

「そういえば、今日のお前はよそ行きの格好だな。靴も、そんなにかかとの高い靴を履いているのは初めて見た」
「だって、もしかしたら、デートかな? って思ったんだもん」

 1人きりのときでさえ。
 ニアちゃんがいるときはもっともっと言えなかった『デート』という言葉を思い切って告げたにも関わらず、律くんは表情は少しも動かない。

「いや、さっきも言ったとおり、部の買い物だ。行こう。この辺ではこの店が1番品揃えが多い」

 目的地に着いたのだろう。
 律くんは顔を上げてビルの明かりを確認すると、真っ直ぐに店の中に入っていった。
*...*...*
「お前を呼んで正解だった。おかげでいい楽譜をそろえられた。ありがとう」

 お店からの帰り道、律くんは満足そうな笑みを浮かべて私の方を振り返った。

「私も! 久しぶりに律くんと楽器屋さんに行ったね。田舎とは全然規模も違うから、驚いちゃった」
「そうか?」
「だって、以前住んでいた田舎だったら、欲しい、って思った楽譜って、こんなにすぐに手に入らないよね。
 まずヴァイオリンの先生の書庫を探して。なかったら、先生に買ってきてもらうって感じだったもの」

 私と律くんは、寮の前にある歩道橋の階段をのぼった。
 ちょっと視界が高くなっただけで、都会の街並みは辺りを光の洪水で埋め尽くす。
 田舎にいる両親や、律くんと響也のおじいちゃんはどうしてるかな、ってふと思う。
 今まで私や響也の調律を一手に引き受けてきてくれたおじいちゃんの、目の端に寄ったしわを思い出す。
 元気かな。今度、イヤがる響也と一緒に、電話してみようかな。

「──── きれい」
「は?」
「田舎も好きだったけど、この街もとてもきれい」

 慣れないおろし立てのハイヒールは、私を見たこともなかった世界に誘う。
 いつもより、少し近くなった律くんの肩。顔。
 下から見上げるばかりだった、律くんの首が、すぐ近くにある。
 律くんは、コトコトと歩く私を不審に思ったのだろう。
 私を見て、靴を、見て。
 そして歩道橋の階段を下りるところまでくると、ゆっくりと私の前に手を伸ばした。

「その靴では危ないだろう。転ぶといけない。手を」
「え? その……。いいの?」
「……おかしなやつだな。いいから言ってる」

 差し出された律くんの手をそっと握る。
 小さい頃、何度も握ったことのある手。
 なのに、私の手を握る指は長く、想像の中よりひんやりと冷たい。

「夏の日暮れは不思議と胸がざわざわする。いつも歩いている道がなんだか知らない場所のようにも思えて」
「うん……。都会は灯りが多いな、って思うかな。さっきの歩道橋も、なんだか自分が宙に浮いてるみたいだった」
「そうか……」

 それきり。
 律くんは黙り込んだきり、じっと何も見えない空に目を当てている。

「──── 夏は、苦手だ。動かない指に気持ちばかり押しつけているこの季節が」

 気づかないウチに、律くんの指を握りしめていたのだろう。
 律くんはまとわりついている空気を振り払うかのように頭を振ると、そっと私の手を離した。

「ずいぶん長く付き合わせてしまったな。じゃあおやすみ」
「うん! おやすみなさい。また明日ね」

 女子寮と男子寮。二手に別れる踊り場で、私は顔の横でひらひらと手を振る。
 メガネの奥の律くんは、かすかに笑ったようには見えるけど、本当はどうかはわからない。
 ──── だって、『ただの部の用事』を、『デート』ってかんちがいしてた私だもの!

 私はぎゅっと自分の手を握りしめる。
 まだ、ほんの少しだけど、律くんの手の感覚が残ってる気がする。

 キィ、と鈍い音がしたのだろう。
 ほっと息をついて、机の上にカバンを置くかどうかのタイミングで、ニアちゃんがドアから顔を覗かせた。

「やあ親友。首尾はどうだった?」
「ごめん。せっかく助言くれたけど、全然デートじゃなかったの」
「ほう」
「部の用事、だって。そのね、楽譜ってね、選ぶ人の好みが出るから、複数の人間で買った方がいいだろう、ってことだったみたい」
「ふぅん。窓からお前たちが帰って来るのを見ていたが、なかなかいい風情だったが」
「うん。ちょっと靴が履き慣れてなかったから、気を遣わせちゃったの」

 さっきの律くんの沈んだ表情が気になる。

『夏は、苦手だ。動かない指に気持ちばかり押しつけているこの季節が』

 あの意味はなんだったんだろう。
 もうすぐ東日本大会が始まるから? 律くんにとって最後の夏だから?
 あのときの私は、律くんにどんな言葉をかけていいのかわからなかった。

 律くんが、私達の住んでいた田舎から飛び出して、2年と少し。
 私と響也がいない間に、律くんはどんな夏を過ごしていたのだろう。

 うーん、と考え込んでいる私を慰めるかのように、ニアちゃんは、涼しやかな微笑を浮かべた。




「まあ、千里の道も一歩からだ。諦めるのはまだ早いさ」
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