ぎゅっと握りしめている指輪が、私の体温と同化している。
 明るいところで見たら、手のひらには、真ん丸の輪っかの跡が残ってるに違いない。
 だけど今はそんなこと、気にしてなんていられない。
 私はおそるおそる律くんの袖を引っ張ると、くるりと後ろを向いて、真っ暗闇を指差した。

「律くん、やっぱり、今来た道に戻ろうよ! わ! 今、なにか、バサバサって音がした!!」
「あれはきっと鳩だろう。特に問題はない」
「律くん!」

 私は絶望的な気分で、ふたたび正面を向く。
 だって、鳥が羽ばたく音だけじゃ、鳩の愛らしさはわからない。
 もしかしたら、真っ黒なカラスかも。ううん、オバケのお使いのコウモリかもしれないのに!

 そっと、後ろを振り返る。
 今から行く道も、今まで来た道も真っ暗。10センチ先にある自分の手さえ、分からない。
 本当に暗い。この前まで響也と暮らしていた田舎にだって、こんな暗い場所はなかった。
 都会の真ん中に、しかも寮のすぐ近くに、作り物のような墓地があるなんて。
 律くんは、いつもと変わらない澄ました様子で私の顔を覗き込む。

「もう半分以上来たはずだ。今から戻ると、かえって余計な時間が必要になる」
「それは、そう、だけど……」
「効率の悪いのは好きじゃない。ほら、行くぞ?」
 
*...*...*  おまもり  *...*...*
 もう。一体誰が言い出したんだろう。
 こう暑くちゃ、やってられないから、ここは一発『肝試し』をやってみよう、なんて。

 元々暗いところが苦手な私は、気が気じゃない。
 響也や律くんに、話したことはないけれど。
 寮のトイレだって、今はニアちゃんに断って、夜の間はずっと明かりを付けてもらっているくらいなのに。
 ニアちゃんは私のお願いに、くすくすと涼しやかな笑みを浮かべて肩をすくめた。

『ふぅん。お前がその手のことが苦手だという情報は、誰なら高く買うのかな』
『えっと、響也は知ってるよ? 幼馴染みだもの。律くんも知ってると思うよ』
『なるほど。では、あの愛嬌を振りまいている先輩や、キャンキャン騒がしい後輩クンなら、どうだろうな』
『愛嬌……? えっと、榊先輩のこと、かな?』

 私の情報なんて、買ってもらえるほどのモノじゃない、けど……。

 行かないのに行った、というのはフェアじゃない、ということで、
 榊先輩はウキウキと、人数分のラムネを持って暗闇に消えた。
 そして、飄々とした足取りでみんなのところまで戻ってくると、ラムネは墓地の一番奥のお墓の上に置いてきたと告げた。

「ラムネのビンを持って帰って来ることが、肝試し任務の完了条件。いいね?
 じゃあ、順番は俺からで構わないかな?」

 榊先輩は余裕いっぱいの笑みを浮かべて、先陣を切る。
 白い大きな背中の周りが、少しずつ夜に浸食されて見えなくなる。

「よぉーっし。じゃあ、次、ハル、俺の順で行こうぜ?」
「わかりませんね。どうして、僕があなたの先に行かなくてはいけないんですか?」
「よく聞いてくれました、っと。お前の半泣きの顔が見たいからに決まってるだろうが」
「……その言葉、そっくりそのまま響也先輩にお返しします」

 この手のことが大好きな響也は、さんざんハルくんを挑発して、2人で競うように飛び出して行った。
 仲が良いような、悪いような、よく分からない関係だけれど、最近の2人の音は、聴いていて、とても気持ちがいい。
 少しずつ、響也はハルくんに、ハルくんは響也に慣れてきたのかな、なんて思う。

「……と、残ってるの、私だけ??」

 きょろきょろと周囲を見渡す。
 あれ? 待って。今、墓地に向かったのは、榊先輩、それに、響也。ハルくん。
 ふと気がつくと、至誠館の3人もいない。

 律くんは? 私の気づかない間に行っちゃったのかな?
 ただでさえ怖いのに、1番最後ってことになったらもっと怖い。
 だって、後ろには誰もいない、ってことだもの。なにか足音が聞こえたら、それはもれなくオバケの足音ってことになる!

「なんだ、お前は肝試し、1人で行く気なのか?」
「律くん! よかった〜。先、行っちゃったかと思った!」

 おろおろと寮の中を見たり、庭を見たりしていると、そこにひょっこり律くんが顔を出す。

「ああ。いや、今、オケ部の顧問と電話をしていたんだ。東日本大会の予選突破について」
「そっか、そうだよね。今日、東日本大会、無事突破したんだよね」

 そうだった。
 星奏学院オケ部の代表として、今日、榊先輩、ハルくん、響也、それに私の4人は、なんとか部内の期待に応えることができた。
 だけど……。今は、あの嬉しさも晴れがましさも、目の前の暗闇に掻き消されてしまう。

「お前がなにをそんなに怖がっているのか分からないが……。俺でよければ一緒に行こう」

 律くんは私の背にそっと手を当てながら、歩き始める。
 良かった……。これで、とりあえず、『独り』ってことはなくなる。

「さっき大地が、墓地の1番奥にラムネを置いたと言っていたのが聞こえたが、
 この墓地はそんなに広くない。ラムネはもう目の前だ。行くぞ」
「う、うん。……って、イヤーーーー!! で、出た!!」

 言ってる先から、突然白いモノが、私の目の前を横切っていく。
 オバケ? オバケじゃなくて、人魂!? 
 そうだよね。考えてみれば墓地だもの。亡くなった人が眠っている場所なんだもの。
 そんなところ、遊園地かなにかのアトラクションみたいに、遊びに使ってるって、考えてみれば、本当に失礼だ。
 亡くなった人だって、私たちに文句の一言でも言いたいかもしれない。
 言えないなら、自然のチカラを味方につけて脅かしたいかもしれない。
 たとえば、今の白いモノみたいに!

「ああ、今のはビニール袋だな。風で飛ばされてきたんだろう」
「へ? ビ、ビニール? ……あ」

 自分の慌てっぷりが恥ずかしい。
 も、もう! こんなところに、コンビニの袋を捨てる人ってヒドイ。
 でもでも、この暗闇のオカゲで、熱くなった頬を律くんに見られなかっただけでもよかった、って思わなきゃいけないかも。

 律くんは、残り1本となったラムネのビンを持ち上げると私を振り返った。

「ラムネを入手したな。これで肝試しは完了だ」
「……ありがとう。こ、怖かったーー!」

 ヘナヘナと腰からチカラが抜けていく。
 途中で聞こえた、鳥が羽ばたく音も怖かったし、今見た白いビニール袋も怖かった。
 怖いと思うと、この世のすべてのモノが怖く見えてくる。

「律くん……。ごめんね。怖がってばかりで呆れた、よね」

 普段と全然態度が変わらない律くんに、私は溜息をついた。
 考えてみれば、律くんが今まで、慌てたり、驚いたりするのを見たことがない。
 あまり感情の浮き沈みがないのかな。私とは大違いかも。

「そんなことはない。怖いのは当然だ。俺も怖いと思う。だが、お前にみっともないところは見せられないからな」
「そう、だったんだ……」
「それに、俺まで怖がったら、収拾がつかないだろう? お前が怖がるからだんだん俺の怖さが薄れていったんだ」

 夜になって、暑かった夏の風も少しだけ凪いでいる。
 それにつられるように、律くんの白いシャツが風をまとって広がった。
 あれ? どうして律くん、明日から8月というこの時期に、きっちりと長袖をシャツを着ているんだろう?

「小日向、手を」
「え?」
「ここから少し砂利道が続く。お前が転んで怪我をするのは……。うん? お前は何を手に持っているんだ?」

 ジャンケンでいう『グー』の形のままの手を律くんに預ける。
 律くんは不思議そうに私と手を見比べて首をかしげた。

「え? あ、これは、おまもり。今日、発表の前に律くんがくれたのだよ?」

 私はぎゅっと握りしめていた手をそっと開いて、律くんの手を握る。
 私の体温が移った指輪が、私と律くんの手の中に収まる。

「今日ね、演奏の前に、律くん、この指輪を渡してくれたでしょ?
 『きっとお前のことを守ってくれるはずだ』って。
 それを聞いたとき、緊張していたのがウソみたいに無くなったの」
「そうか。これは俺がずっと子どもの頃から、おまもりのようなものだったから」
「あ、……じゃあ、その、お返ししなきゃ、だよね? 今日はどうもありがとうね」

 そっか。律くん言ってたっけ。
 子どもの頃からずっと持ってる、大切なモノだ、って。
 演奏会のたびに大切に身につけてた、って。
 そんな大切なモノ、ずっと私が持ってるワケにいかないもの。

 繋いでいる手を離そうとすると、思いがけない強い力で握られる。
 暗闇の中、目を凝らして律くんを見つめる。
 そこには唇を噛みしめた律くんの口元があった。

「いや、返す必要はない」
「はい?」
「……ヴァイオリンが弾けない今の俺に、このおまもりは必要ない」
「律くん……?」

 考えてみればおかしい。
 今日の予選のアンサンブルメンバーは、4人。
 ハルくん。榊先輩。響也、それに私。
 どうしてオケ部部長の律くんが、予選とはいえ、東日本大会に出場しなかったんだろう。
 律くんは、握った手に力を入れる。
 あまりの強さに顔をしかめた瞬間、そっと律くんの指は離れていく。

 ──── 指輪は元通り、私の手の中にあった。




「小日向。……どうか、俺たちを、全国大会に連れていってくれ」
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