「まあ、地固めだけしておこうってことなのかもしれないな」
「そう言えば、そんなお話、コンクールの最初の方に聞いたことがあるような……?」
「まあね」
この季節は、日が落ちるとすぐに冷気が忍び寄る。
和風のしつらいというのは、どれほど工夫をしても隙間風は凌げないのだろう。
俺は指先の冷たさを隠すように、袖の中に手を入れる。ごわりとした正絹の質感が却って寒さを感じさせる。
「……ありがとう、ございました。話してくださって」
香穂子は泣くでもなく怒るでもなく、ただ弱々しく微笑むと 脇に置いてあったヴァイオリンケースを引き寄せた。
「香穂子……」
「帰ります。……あの、玄関、教えてもらえますか?」
「は?」
「えっと……。実はね、雅ちゃんにあっという間にここに連れてきてもらって、場所、よくわかってないんです」
香穂子は恥ずかしそうに笑うと、行儀良く座布団からすべり降りた。
俺も釣られるようにして腰を浮かすと、思わず香穂子に手を伸ばす。
香穂子はそれをやんわりと受け止めると 悲しそうに首を横に振り、そのままなだめるようにして離した。
「ダメ、ですよ。もう……」
その、今までとは違う反応に俺の方が慌て出す。
自分の本心を打ち明けることができる、ただ一人の人間。
これまでに、出会わなかったやつ。そしてきっと、これからも出会うことはないやつ。
今はそう言い切れる確信があるやつ。
こいつを手放して、やっていけないのは、他でもない、俺自身かもしれないということを。
言葉少なに長い廊下を歩く俺を気遣うかのように、香穂子はぽつりぽつりと口を開いた。
「……大丈夫か?」
「ん……。今の状態が良くわかってない、のかも。……動揺、してる。
でも、一つ一つ、納得してることもあるの。ああ、やっぱり、って」
「香穂子」
「あ、でも、気にしないでくださいね。本当のこと、お話してくださって嬉しかったですよ?」
「とてもそんな顔には見えないぜ」
「う……。そ、それはそうなんですけど」
香穂子は俺を見上げると、ふと懐かしそうな表情を浮かべた。
「……ね、コンクールの間に、私、言いましたよね。『恋は叶うと信じてる』って。
今もその気持ちには変わりがないの。けど……。それって相手あって、のことだ、って考えてたんです」
「香穂子?」
「だから、……だからね。柚木先輩の気持ちがお見合いの相手の方に行ってしまったのなら……。
ちょっと時間がかかるかもしれないけど、……私は、諦めます」
このときの俺は、香穂子の言葉の中の何が引っかかったのか 分からなかった。
ふつふつと浮かんだのは、怒りのようなどす黒い感情で。
見合い相手の方に気持ちが流れたのなら、これほど困惑していない。
お前がもっと、俺の中に入り込んでいないときだったら、これほど迷わなかっただろう。
諦める、という香穂子の言葉。
香穂子の至極まっとうな行動に、目が眩むような憤りが浮かんでくる。
俺は、ちょうど通りかかった 日頃使わない茶室の戸を引くと、香穂子の背を押した。
そしてそのまま壁際に香穂子の背中を押しつけて、戸を閉める。
「やっ……。な、何するんですか?」
「ねえ、どうしてお前に 今の俺の気持ちが分かるの?」
「え……?」
「俺の気持ちが見合い相手に向かってる、って、どうしてお前に分かるのって聞いてるんだよ」
突然の暗闇の中、香穂子は俺の手を必死に払いのけようとする。
まるで『諦めます』という言葉が、俺たちの終止符だと思ってるかのように。
「やめてください。……やっ」
「……言ってみろよ」
いつもは壊れ物のようにして抱く身体。
それを今日は、荒々しいまでの勢いで抱く。
まだ新しい音楽科用の白い制服がぱさりと軽い音を立てて肩から落ちる。
袖から落ちていかないのは、香穂子がヴァイオリンケースを握りしめているせいだ。
俺は香穂子の口を自分のそれで封じたまま、手からケースを奪い取ると畳の上に置いた。
剥き出した胸の頂きが堅くなっているのは、寒さのせいだけではないだろう。
短いボックススカートの中に指を這わせると、しっとりとした湿り気が迎えにくる。
俺は 親指を香穂子の一番弱いところに、そして一番長い指を香穂子の中に差し込むと 二本の指をゆっくりと動かし始めた。
「……こんなに濡らして。家に来たときから抱かれたかったの?」
「ち、違い、ます……。や、先輩……こわい」
「ふぅん。……お前はこわいと濡れるんだ」
「な……っ」
反論を封じるように舌を差し込み、香穂子の二カ所を蹂躙する。
香穂子の身体は、徐々に反抗する力を失って、俺に寄りかかってくるのがわかる。
「先輩……。もう、私……」
「さぁ……。どうしようかな?」
「あっ……」
規則的に与え続けていた刺激を止めると、香穂子は切なそうに身体を震わせた。
本当に……面白いほど反応を返してくる、白い身体。知らずまた、ため息が漏れる。
闇の中でうっすらと見える香穂子の顔。
半ば開かれた唇は朱く可憐で。
苦しそうな眉間も、わななくように小刻みに震えるまつ毛も、何もかもが俺の心を捕らえていく。
俺は再び快楽を引き出すように指を揺らし始めた。
「お前は 俺と一緒に立ち向かってくれないの?」
「だって……。どうすれば……?」
「ずっと好きでいればいいんだよ。俺のことを。……何があっても」
「そ、そんな……っ。……あ、もう……」
終焉が近いのか、香穂子の呼吸が浅くなる。
眦に浮かんだ涙が、暗闇の中、一筋の光にも見える。
収まりきらなくなった滴が、二人の口の端に糸を引いた。
── 離せない。お前が俺を、じゃなくて、俺がお前を。
「なに? 香穂子」
「……そんな当たり前のこと、聞かなくても、いいです」
小さな叫び声を上げた後、香穂子は歌うようにそう言った。
*...*...*
「あ、あの。いいです。勝手に来たんだし、あの、自分で帰ります」「そんなふらついた足で帰れると思ってるのか? ……いいから」
俺は運転手の田中に電話をして簡単に理由を言うと、香穂子を自宅まで送るように伝えた。
自宅の玄関を出て 通りに近いところまで、香穂子と二人で歩く。
たくさんの言葉が必要な気もするし、何も言葉はいらないような気もする。
指さえ触れてない。二人の間には数センチの距離。
それでも。
── 満ち足りた、穏やかな気持ちになるのは、お互いの気持ちを正しく認識したからだろうか。
「柚木先輩……」
「なに?」
「あの……。一つお願いがあるんです」
俺が目で続きを促すと、香穂子は堅く口元を引き締めた。
微かに臙脂色のネクタイが歪んでいる。さっき俺が乱した名残り、か。
「もう、私のこと、火原先輩に任せる、とか言わないでくださいね。……他の人に任せないで」
「香穂子……」
「私、柚木先輩がいい」
控え目に点滅し始めたハザードランプが、田中の到着を告げる。
俺は香穂子の頬にくちづけると耳元に囁いた。
「……良く言えました」