「あ、待ってよ、香穂さん。ここの解釈は確か図書室の書庫に良い本があったと思うよ」
「ありがと! 私、今からちょっと行ってくる」
私は、加地くんの声を背中に乗っけて走り出す。
昨日、少しだけ相談に乗ってもらうつもりだった『スケーターズワルツ』の解釈。
加地くんは、これ以上丁寧な教え方ってできないんじゃないかなと思うほど細かく、わかりやすく教えてくれた。
図書室にある、パソコンの使い方。書籍の配置。図書司書の使い方。
図書司書さんはもちろん道具じゃない。
多分私たちが生まれる前から、星奏の司書として勤めている中年の人。
それをどうして『使う』って表現するんだろう、と思って顔を上げると、加地くんは澄ました表情で言ったものだった。
『ふふっ。香穂さん。『人を使う』っていうのも立派な能力のウチの1つだよ。
知ってるのと知っていないのでは、作業の効率に差が出てくるのはわかるよね?』
そう言えば、この前、加地くんが飛んできたボールを避けようとして森の広場のひょうたん池に落ちたときのことを思い出す。
あのとき、もし私が加地くんだったら。
ボールを飛ばした人を咎める、とか、自分の濡れた服に呆然として半ベソをかいている、とか。
それくらいしか思いつかないのに、加地くんは違った。
ひたすら謝ってくる後輩たちに適切な指示を出して、飄々としてたっけ。
こういう態度を、人はをカリスマ、って呼ぶのかもしれないな、なんて。
そんな彼に『司書を使う』って言われると。
なんだか、加地くんにいいように使われてしまうだろう司書の人に申し訳ない気がする。
──── いいや。私は私。自分でできるところまで、頑張ってみよう。
*...*...* Believe 1 *...*...*
12月初めの森の広場は、春の華やかさにも、秋のあでやかさにも無縁で、木々の枝は針金のように空を突き刺している。私は、森の広場の1番奥、ひょうたん池の近くのベンチに座ると持ってきた本を開いた。
図書室で借りてきた本を読んで、解釈を掴んで。
作曲家『ワルトトイフェル』がどんな思いでこの曲を作ったのか。演じたのか。
少しでも咀嚼して自分なりの解釈を音に乗せられたらいい。
……そんな思いで選んだ場所だったのに。
「うう。……私、加地くんに強がり言ってる場合じゃなかったよ」
私が図書室から選んできた本は、どれもこれも内容が薄く、全然役に立ちそうにないモノばかりだった。
1番重い本は、なにを間違えたのか、『クラッシック大全・音楽家大全集』。
悔し紛れにその本を開く。
『ワルトトイフェル』の説明はわずかに3行しかない。
私は少しだけ大きな音を立てて本を閉じると、目の前に広がる空を見た。
12月の西の空は、夜が来るのを急いでいる気がする。
『なぁ、香穂。……お前の音は素直でいい音だとは思う。だけど、全然魂が入ってないって感じなんだよな』
『土浦くん……。ごめんね、どういう意味?』
『今のお前は、なんていうか、コンサートをミス無く成功させよう。それだけを考えているみたいな音だ。
正確な音、ピッチなら、ある程度練習したら誰でも弾ける。でもそれだけの話だろ?』
『うん……』
『──── もっとさ、自分が聴衆に何を訴えたいか。それを考えた方がいいんじゃないか?』
音楽って、芸術って難しい。
他の教科みたいに、丸とかバツとかハッキリする評価が得られないんだもの。
譜面どおり弾くことが、学科でいう丸なら、丸を目指してどうしていけないんだろう。
そんなことを思いながら、頭の中では別のことを考えている自分もいる。
もし、今、ここに、同じ曲を弾く土浦くんと真奈美ちゃんがいたら。
私はまっすぐ吸い込まれるように土浦くんの近くに行くだろう、ということを。
っていうことは、やっぱり音楽は、譜面通り正しく弾くことだけが評価に繋がるんじゃない、ってことだ。
「な、悩んでても仕方ないよね。今は練習練習」
今の私の中に浮かんでいる、モヤモヤとした形のないモノ。焦りのような不安のような。
スケーターズワルツの中にある華やかな音を思い出す。
そうだ。きっと氷を滑るときの滑らかさとか、スケートの楽しさとか。
そんなワクワクした感じを出せばいいのかも?
弓を手に、相棒を肩に載せる。
──── うん、今なら、なんだか弾けそうな気がする!
そっと弦を抑え、最初の音を出そうとしたそのとき、私の耳に『火原』という言葉が飛び込んできた。
*...*...*
「今度のアンサンブルもさ、普通科の生徒もいるんだろ。特にあの女の子。火原。お前よく頑張ってるよなあ。大変だよなあ。うん、エラいエラい!」
サクサクと芝生を踏む2人の足音。
この音は、多分、オトコの人2人の音。
大きな歩幅で、それでいてすごく早い。
アンサンブル、普通科。
これだけの条件なら、加地くんも、土浦くんも、アンサンブルを組んでいる普通科の生徒だ。
だけど、『女の子』と聞いて私の手が止まる。
それって、……もしかして私のこと?
「え、それって、香穂ちゃん? どうかした?」
足音と私の距離がどんどん近づいてくる。
私はどうしていいか分からずに、あたふたと周囲を見渡した。
閑散とした森の広場には隠れるスペースもない。
今からどこかに走ったとしても、彼らの視界から逃げる方法もない。
どうしよう……。
私が隠れる必要なんてないじゃない、という気持ちと。
なんとなく……。なんとなくだけど、私はこの場所にいちゃいけない。
そんな気持ちが自分の中でグルグル交錯する。
火原先輩のクラスメイトさんなのかな?
もう1人のオトコの人は親しげな様子で火原先輩に話しかけている。
お互いの顔を見ながら話しているせいか、2人とも私には気づいてないみたいだ。
「いくらコンクール参加者でも、彼女、アンサンブルはシロウト同然だって聞いたぜ。
2ヶ月前に、初めてアンサンブルやり出したってウワサ、本当なんだろ?
火原、お前ってさ、面倒見いいから、フォローしてやったんじゃねえの」
「芹川、そんなことないよ。香穂ちゃんすっごく頑張ってるし」
火原先輩は顔の前でブンブンと腕を振ると、真剣な顔で反論している。
それは、会話の中に私の名前が入っているのが申し訳なくなるくらいの、必死な否定ぶりだった。
『芹川』さん、という人は、火原先輩のクラスメイトなのかな。
親しげな様子で火原先輩の肩を組んだ。
「いやいやいやいや〜。分かってるって! いきなりシロウトと組むのはお前だって大変だろ?
正直言って、足手まといなんじゃないのか? お前、オケ部もやってて面倒見、すごくイイだろ?」
「あ、足手まとい? そんな言い方、ヒドイぞ!」
「ホントお前ってお人好しだな〜。普通そうは思わないぞ。そりゃ、ひとりお荷物がいるとさ、音合わせるのも一苦労だし」
「お前、香穂ちゃんのこと、なにも知らないくせに。それ以上言ったら、いくら友達でも怒るからな!」
芹川さんは火原先輩の様子に、あっけにとられたのか、やれやれといった風に頭を掻きながら正面を見た。
「ったく、火原、なんだよ。いきなり。お前どうしたんだよ? って、あ、彼女……?」
その途端、バチン、と音がしたように私とその人の目が合う。
黙りこくったクラスメイトの横、火原先輩も私の姿に気づいたらしい。
はっとしたように顔色を変えた。
「香穂ちゃん……」
「ごめんなさい! 聞こうと思って聞いてたワケじゃないんです。ごめんなさい」
「俺こそ悪い! まさか彼女がいるなんて思ってなくて」
私が謝るのはヘン、かもしれない。
だけど、火原先輩の泣きそうな顔を見ていると、私の方が辛くなる。
どうしよう。なんて言おう。
私、大丈夫です。
火原先輩がそう言ってくれるだけで嬉しいし。
その、芹川さん、だっけ?
私、頑張るから、その、クリスマスのコンサート、よかったら来てください。
……って笑顔で言えば、上手く収まる?
火原先輩と芹川さんがケンカすることもなくて。
私と芹川さんも、また今度学院のどこかで会ったら、会釈するくらいの仲になれるかな?
って頭では冷静に思うのに、開いては閉じる口は、夏の昼下がりのようにカラカラに乾いたまま、上手く言葉が繋げない。
芹川さんはその場にいることが耐えられなくなったのか、軽く火原先輩の肩を叩いた。
「うー、そのなんだ。悪い、俺行くわ。火原フォロー頼んだ」
「って芹川。ちょっと待ってよ!」
「悪い! 明日お前の好きなモノ、なんでもオゴるからさ!!」
芹川さんは、じゃな、と火原先輩の顔を見て。
そして次に、おそるおそるといった様子で私の方に顔を向けて頭を下げた。
──── わかってたことなのに。
芹川さんが言っているのは、多分音楽科みんなの意見で。
『お荷物』
『足手まとい』
その言葉たちに言い返せる実力も私にはなくて。
わかってたことなのに、胸が痛い。
目を見開いて、涙を止める。
落ち込んじゃ、ダメ。こんな風に、後ろ向きになっちゃダメなのに!
「ご、ごめん、香穂ちゃん! あいつも悪気はないんだ。なにも知らないからそれで、シロウトだなんて」
「ううん。いいんです。本当のことだもの」
「香穂ちゃん」
「その、えっと、……火原先輩が怒ってくれて、嬉しかったです」
……そうだ、思い出した。
たった今まで、芹川さんが言ってた悲しい言葉ばかり思い出してたけど。
火原先輩、たくさんフォローしてくれてたっけ。
私のこと、頑張ってる、って。
そんなこと言ったら本気で怒るから、って。
──── 私のために怒ってくれてたんだ。私の居ないところで。
ぐ、っとノドの奥から嗚咽が漏れそうになる。
これは、悲しいからじゃない。
火原先輩の気持ちが嬉しくて苦しいんだ。
強引に嗚咽を飲み込んだせいでさらに涙目になった私に、火原先輩はやりきれない、といった表情で私を見上げた。
「ホント、ごめん。いい気しないよね。あいつにはよく言っておくから。本当にごめんね」