*...*...* Ribbon 2 *...*...*
「ん……」ふと、間近に人の気配を感じて目が覚める。
まぶたを開けるとそこには、穏やかな瞳で私を見つめている王崎先輩がいた。
息がかかりそうなほど、ううん。まつげが作る風さえも感じられそうな距離。
あわてて身じろぎすると、背中を包んでいる腕に気付いた。
少しずつ、眠る前の記憶が浮かんでくる。
夢、じゃない、よね? 王崎先輩の手や唇が、私のいろんなところに飛んできて、それで……っ。
恥ずかしくて動けない。でも、今更また眠ったふりをするなんてもっとできない。
どうすれば、いいの……?
私は王崎先輩の胸板を押すと、彼の顔も見ないで口を開いた。
「ご、ごめんなさい。私、眠っちゃったみたいで」
「いいよ? その分おれはずっと香穂ちゃんのこと見ていられたから」
「え? ずっと? ずっと見てたんですか?」
「もちろん」
王崎先輩は、さわやかすぎる口調で返事をくれる。
うう……。
王崎先輩は、なに1つ悪いことしてないの、わかってるのに。
むしろ、ずっとずっと私のこと考えて、少しずつ進んでくれているの、わかってるのに。
その……。その、見ていられると、どうしていいかわからなくなる。
好き、なのに。ううん。好きだからこそ、よけい、戸惑う。
だんだん頭は覚醒してきて、さっき王崎先輩に触れられたところを忠実に思い出す。
私、なにか、しちゃったかな?
汗も、少しだけかいちゃったし、今までの自分も知らなかったような 恥ずかしい声、出してた、かも……。
「どんな香穂ちゃんも見飽きなかったよ。すごく可愛くて」
王崎先輩は優しい目をして微笑むと、すぐあとに額に柔らかいキスをくれた。
『可愛い』
王崎先輩は、ことあるごとにいろんな言葉で私を褒めてくれる。
だけど、自分を客観視できるようになった歳に、たくさん嬉しい言葉をもらっても、
今まで培ってきた認識って、そんなに簡単に変えられない。
── どうしよう。恥ずかしさが止められない。
目が覚めてから1度も王崎先輩と目を合わせていないことに気付いても、どうしていいか、わからない。
「あ……」
かさりと揺れた自分の髪から、いつもとは違う香りがする。
不思議に思って、また首をかしげると、これもまた違う。
身じろぎするたび感じる香りは私のものじゃない。
(王崎先輩の、香り……)
優しい中に、男の人の香りを感じて、胸が痛くなる。
私、そうだ……。ずっとこの香りの中で、なんの心配もなく眠っていたんだ。
重いような。気だるいような身体を包んでいる、心地良い、香り。
圧倒的な幸せをくれるこの人に近づきたくて、私はそっと手を伸ばす。
「香穂ちゃん……?」
不思議そうな声をあげる王崎先輩の髪に、そっと触れる。
そうだ。私。
まだ起きていよう。そう思う先からまぶたが落ちていって。
その動きを受け止めるかのように、王崎先輩の手は私の髪を撫でてくれていたから。
お返しのように、彼の髪をかき上げる。
そのたびに、彼の目の端が優しく緩むから、また嬉しくなる。
「あれ?」
ふと、頭の後ろを撫でる手の動きに気づいて、はっと我に返る。
すぐ近くにある王崎先輩の顔。肩。そして、肩から続く腕は、私の首の下を通り抜けてる。
ちょっと、待って……? ってことは。
さぁーっと、血の気が引くのを感じながら慌てて起きあがると、私は自分の首の下で苦しそうにしている腕をさすった。
えっと……。
王崎先輩は、高校の先輩で、そして、恋人で、そして、大好きな人、で。
だけど、その前に、星奏学院の期待の星で、それで、いろいろなコンクールの優勝者さんで、それで……。
ばかばか。私。なにしてたの?
そんな人の腕、腕枕にしてたの!?
今、何時なんだろう? どれくらいの間、王崎先輩は、腕枕してくれてたんだろう?
「ごめんなさい。あ、あの、王崎先輩、腕、痛くないですか?」
「ううん? なんともないよ?」
男の人の中では細く、華奢に見える人なのに。
すぐ近くで見る王崎先輩の腕は、明らかに男の人そのもので。
こんなたくましい腕からあんな繊細な音が出るなんて、と私は改めて彼の腕に見入った。
「香穂ちゃんは優しいんだね」
「いえ。そんなこと全然ないです! 王崎先輩の腕を下敷きにしてるなんて、私……っ」
抱きかかえてくれていた、っていう甘えた気持ちもどこかに吹き飛んで、私は王崎先輩の指をさすった。
うう……。頭って案外重いもの。痺れてるんじゃないかな。大丈夫かな?
「あ、あれ? これ……?」
指に今まで感じたことのない違和感を覚えて、ふと私は さするのを止めた。
「ああ。よかった。やっと気づいてくれた?」
「これは……?」
「婚約指輪は、本来なら左手の薬指に付けるのがふさわしいんだろうけど。
ヴァイオリニストは、例外だよね。右手の薬指に付ける人が多いんだ」
シンプルな丸い輪っかは、私の目の前でキラキラと光ってる。
よく見ると石が埋め込まれてる。これって……?
「あれ?」
「うん?」
もっとよく見ようと顔に手を近づけると、指輪は恥ずかしがるかのように くるりと顔を下に向けた。
王崎先輩が慌てて、向きを上に戻す。
だけど、重力に負けるように、指輪は私の指を回転する。
そっと指を下を向けると、指輪は簡単に関節を通り抜けて、私から離れていこうとする。
とっさのところで、掌を握り締めると、指輪はぎりぎりのところで私の手の中に収まった。
「ごめんね。香穂ちゃん。
細めのサイズを、ってお願いしたんだけど、ヨーロッパの女性は指が太いのかな?
香穂ちゃんには大きすぎたのかな」
王崎先輩はがっかりしたように私の手を取った。
「いえ。そんな……。あ、あの、ちょっと待っててくれますか?」
「香穂ちゃん?」
「ちょっとだけ」
私はベッドから降りると、慌ててバスルームに飛び込んだ。
考えることより早く、私のもう1つの手は、髪を結わえていたリボンを探し出す。
ツルツルとした手触りのお気に入りのリボンは、シャワーの後、慌ててつけた場所に頼りなくついていた。
── 多分、大丈夫。
私は指輪をそっと抜き取ると、目をこらして輪っかの中にリボンを通す。
そして、リボンの端と端を首の後ろで結んだ。
チョーカーのように私の首元を飾っている指輪は、私の指を飾ってくれているときより誇らしげにこっちを見てる気がした。
「香穂ちゃん?」
ドアの外で、ノックの音と心配そうな声が聞こえる。
今の私の姿を見られるのがなんとなく恥ずかしくて、私たちを隔ててる板を薄く開ける。
するとそこには、申し訳なさそうな表情を浮かべている王崎先輩が立っていた。
「ごめんね。香穂ちゃん。気を悪くした?」
「ううん? そんな……。ほら、見てください」
私はちょっとだけ胸を張ると、首を指さして笑う。
大好きな人。優しい人。ううん。それだけじゃない。
守ってあげたい。心からそう思える人。
王崎先輩は、私の首のリボンを認めると、満面の笑みで手を広げた。
私はまっすぐ彼の両腕に飛び込む。
そして、初めて自分から彼の頬にキスをした。