朝靄の中、徐々に黒い車体が顔を出す。
 フルートケースを手に持っていることに気まずさとやり切れなさを感じながらも、
 今更、手を離すこともカバンで隠すこともできなくて、俺は高くなった空を見上げた。

「梓馬さん。よろしいですわね。
 三男で学生の立場といえど、柚木の家を支える一員であるということを、けっしてお忘れにならないように」
「わかっていますよ。お祖母さま」

 祖母は見えない敵に言い募るかのように、俺に一気に言葉を浴びせかけると、けだるそうに咳をした。
 母は、祖母の肩を抱きかかえるようにして家の中に入っていく。
 俺はさっき父から聞いた話を反芻しながら、車へと乗り込んだ。

 ── よりによって今日、とはね。

『あ、あの! 私、頑張りますので、よろしくお願いします!』

 昨日別れ間際に見た日野の目を思い出す。
 真摯で。真っ直ぐで。一瞬羨ましくも疎ましくも思った。
 創立祭のコンサートは、今日の午後。あと数時間後に迫ってきている。
*...*...* Cloud 1 *...*...*
 ぼんやりと車窓の風景を目に映していると、運転手の田中が あくびをかみ殺すようにして目頭を擦った。
 明け方の1本の電話。
 あれからすぐ田中は父から呼び出しを受けて、俺を送るという仕事の前に一仕事してきたはずだ。

「……お疲れだね。田中」
「いえ。ご心配をおかけして申し訳ございません」
「いいよ。僕もあれから眠れなかったのだから」
「そうでございましたか」

 明け方。午前4時。
 遠くで電話が鳴っていると思った。
 訃報だろうか。
 電話番は母の役目だから、と思ってウトウトしていたところ、やがて家中を走り抜ける足音に気づいた。
 祖母と、祖父。そして父だった。

「なに! そうか。……そうか。え? また?」

 ただならない騒がしさに、俺は、丹前の上に羽織をつけて居間に向かった。
 そこでは、日頃大きな声を上げない父が、叫び声のような大声を上げたあと、耳に受話器を擦りつけている。
 電話口の人間の声は聞こえない。相手はなおも早口で言い募っている。
 声のトーンから察するに、長兄だろうか。

「買収? 橋本家の代が変わって、かなり貧窮しているとは聞いていたが」
「ああ。わかった。今日、すぐ手を打つ。お前も状況を見続けておけ」

 父の周りをおろおろと母が動き回っている。
 その隣り、祖母は端然として、部屋の中央に座っていた。

「ああ。梓馬。起こしてしまったようだね。すまない」

 電話を切ると、父はたった今俺に気づいたかのように顔を上げた。

「それで、どうなのです。現在の状況は」

 祖母は叱りつけるように父を見上げた。
 まだ窓の外は墨を流したように暗い。
 突然起き出してきた5人なのに、祖母の姿は凛として、他の誰よりも威厳があった。

「静馬からの連絡だ。アメリカの投機筋が、自社株の大量買収に動いたらしい。
 今は約8パーセントの買収に過ぎないが、それでもあと、1、2パーセント買収されると、後が苦しい」
「……いいでしょう。これからの行動をお聞かせなさい」
「まず、今日朝1番に、取引大手のN銀行に静馬を走らせましょう。あとは……」

 買収?
 経済の世界は弱肉強食。食って食われての世界だ。
 だけど柚木の家の株式は、見知った、ごく一部の人間にしか公開していない、とかつて聞いたことがあったのに。
 耳元に突然熱い炎を焚きつけられたように、俺の頭は鈍い痛みを走らせている。

「とりあえず、母さまも。そして、梓馬、お前も」
「はい」
「それなりの覚悟を持っておくように。いいね?」

 父は血走った目で周囲を見渡すと、また、鳴り始めた電話に急き立てられるように受話器を取った。

「……では、わたくしたちは朝食の時間まで下がっていましょう。
 梓馬さんも今日は学校がおありですね? わたくしたちと一緒に下がりましょう」

 電話の対応は父と祖父でやることになり、俺と母、祖母は、祖母の目配せで、いったん自室に戻ることになった。

 長い渡り廊下を右へ左へと曲がる。
 取るものもとりあえず起き出したときにはまるで感じなかった冷え込みが、つま先から忍び寄ってくる。

 買収……。この柚木の家が買収?

 俺の自室前に来たとき、お祖母さまは目を尖らせて俺を見上げた。

「── 現在の柚木家の状況は、おわかりですね?」
「お祖母さま?」
「梓馬さんに音楽をやらせている余裕はないということも」
「はい」
「音楽というお遊びは、高校まで……。そういうお約束でしたね?」
「……はい」


 日頃は起きていることのない特別な時間帯だったからだろうか。
 それとも、今日これからの演奏のため5時から無理矢理一眠りしたからだろうか。
 買収。
 今、思い出しても事実ではないような不思議な感覚だ。
 あれは、明け方の夢の中の話。悪夢のまやかし、とさえ思えてくる。

「……梓馬さま?」

 俺の気分のまま、たまに思い出したように日野を乗せる曲がり角に近づくと、田中は不安そうに俺の指示を仰いだ。
 停まるのか。そして、しばらく待つのか。それともそのまま進むのか。
 無言のまま、俺が口を開くのを待っている。

 あいつをからかうことで、俺の気分も軽くなることが多かったが……。
 俺はため息をついた。
 今日はとてもそんな気分になれない。

「いいよ。今日はそのままやって」

 日野の姿が見えないことをいいことに、俺はじっと窓の外を見つめたまま田中に伝えた。
*...*...*
 創立祭、ということで、午前中、在校生は簡単な式典のあとは下校になる。
 俺たちは学院側が用意したという軽い昼食を取った後、講堂へと向かった。

「いよいよだねー。舞台に上がっちゃえば、あとは やるしかない! って気になるんだけど。
 こういうときってまだモヤモヤするよね」
「へえ。火原先輩もそんな気持ちになること、あるんですか?」
「なに? 土浦。おれのことそんなふうに見てたの?」

 薄暗い廊下で、火原の明るい声がする。
 今日の選曲は2曲。『恋とはどんなものかしら』と『水上の音楽』
 俺の乗り番は『恋』の1曲だ。

『音楽というお遊びは、高校まで。……おわかりですね』

 お遊び、か。

 音楽は、お遊び。
 それが真理なら、音楽に傾倒し続けていた俺の3年間は、まるで無意味だったということになる。
 俺は自分を取り囲む足音を聞きながら思った。

 ……つまり。
 音楽を経て、知り合えた仲間も。これまでの時間も。今からも舞台も。なにもかも。
 そして、俺自身さえも価値のない人間、ってことか。

「……のき。柚木、ってば!」

 ふと顔を上げると鼻先で火原が困った顔をしている。
 改めて周囲を見渡すと、月森も、そして土浦も、不審そうに俺を見上げていた。

「ああ。ごめんね。なんだかぼんやりしていたみたいだ。なにか用だったかな?」
「え? えーっと。今日の演奏曲、『恋』の方ですけど、冬海ちゃん、ちょっと風邪を引いたんですって。
 だから、第2節のビブラートが短めになるかも、って……」

 日野が少し早口で説明する。

「あ、あのっ! 柚木先輩。ごめんなさい。わ、私、1曲だけですし、大丈夫です。精一杯頑張ります」
「ああ。そういうことなら気にしないで、冬海さん。僕も全力を尽くすよ」

 後ろを歩いていた冬海さんは、顔を赤らめて頭を下げた。

「『デチーソ』は、弦4本とトランペットっていう組み合わせですね。観客の反応が気になります」
「僕はともかく、月森も志水くんも香穂さんも弦のメンバーは素晴らしいから、大丈夫じゃないかな」

 志水くんの問いかけに、加地は今まで俺たちを包んでいた空気を払拭させるかのように明るい声で場を取り持っている。
 日野は明るい笑顔を向けながらも、ふと心配そうに俺の顔を見つめた。

「柚木先輩?」
「なんだい? 日野さん」

 少し歩調を緩めた日野は立ち止まると、何かを確かめるかのようにじっと俺の目を覗き込んだ。
 他のメンバーは一歩二歩先を歩き続け、やがて、控え室へ続く廊下を曲がった。
 しん、と静まりかえった廊下の片隅で、俺と日野は2人きりになる。

「どうか、しましたか?」
「……別に?」

 何の悩みもないような透き通った視線に腹が立つ。

 こいつに一体何がわかるっていうんだ。
 音楽を始めて、半年も経っていないヤツ。
 思い入れも思いこみだって、俺とは比べものにならないくらい小さいクセに。

「今の、お前みたいな行動を、英語でなんて言うか知ってる?」
「はい?」
「"Mind your own business." ……自分のことを心配してろ、ってこと。余計なお世話ってことだよ」
「で、でもっ!」

 暗がりの中、日野の目が大きく膨らんだと思ったら、思いもかけずきらりと光りを放った。

 あと1つでもひどい言葉をかければ、日野は泣き出してしまうに違いない。
 それさえも煩わしくて、俺は日野の横をすり抜けた。
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