1曲目の『恋とはどんなものかしら』は、私、土浦くん、柚木先輩、冬海ちゃん4人のアンサンブルだ。
 演奏前は必ず、アンサンブルメンバーと二言三言、なんでもない言葉を交わす。
 エール交換、というのかな。この瞬間から私の演奏は始まる。

「香穂。張り切ってやろうぜ」
「土浦くん……。うん。頼りにしてます」

 アンサンブルは2回目ということもあって、リラックスしてるみたい。
 長身の彼はぽんと私の頭を撫でると、まっすぐ舞台を見つめている。

 1回目。教会でのコンサートでは柚木先輩は客席にいてくれたから、
 こうして一緒にアンサンブルを組むというのは初めての経験だ。
 先輩の乗り番は『恋』の1曲。

 私は隣りに立っている柚木先輩の表情を覗き込む。

 さっきの柚木先輩の、態度が気になる。
 どこか投げやりで。不機嫌で。
 いつもの、ただのからかい、だけだったらいい。
 私に対して言いたいことを言って、すっきりした、って言うんだったらいいんだけど……。

 周囲が人少なになったとき、柚木先輩は私にだけ聞こえる小さな声でつぶやいた。

「どうしてこんな儚いものに、みんな一生懸命になるんだろうね」

 振り返った瞬間に、私の手の甲に先輩の手が当たった。
 ガラスのような冷たさと堅さにはっとする。
*...*...* Cloud 2 *...*...*
 柚木先輩って、火原先輩のように、いつでも明るくて、優しい先輩、ってワケじゃない、ってことは分かってた。
 だけど、どんなときも、柚木先輩の意地悪は、優しさの裏返し、なところがあったから、安心もしていた。
 今日の柚木先輩は、何もかも捨て鉢な、そんな気がする。
 どうして? どうしてそんなに寂しそうな顔をしてるんだろう

(まるで、自分が発する言葉の分だけ、自分自身を傷つけているみたい……)

『観客の前で最高の演奏をするのが、演奏者の義務だろう?』

 そう言ってた彼の指が、氷のように冷え切っているのにすごく違和感を感じる。
 あの指で、いつも通りの演奏ができるのかな。

(……あ!)

 演奏を開始して、すぐのフレーズ。
 フルートの入りが遅れた。
 初めて音合わせをしたときだって、こんなことは一度もなかったのに。
 柚木先輩の、ミスを初めて聴いた。そんな気さえした。

 土浦くんは即座にそのミスに気づいたんだろう。
 一瞬驚いたように鍵盤から顔を上げて柚木先輩を見上げると、再びなんでもなかったかのように譜面をめくった。
 大きなミスじゃなかったにせよ、珍しいことだと思った。

(どうしたんだろう……)

 大きな失敗はその1回だけで、あとは、ほぼ練習通りに旋律は流れる。
 最後の音が、観客席に吸い込まれるようにして止んでいく。
 一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手が起きた。

「焦ったぜ。……結構慌てた」
「土浦くん……」

 一旦降りた幕の奥で、私たちはほっと笑い合う。
 土浦くんは柚木先輩に遠慮して、ポツリと私の耳元で呟いた。
 本当に、そう。
 あのとき、土浦くんの機転がなかったら、もしかして客席の中にも気づいた人がいたんじゃないかな。

 柚木先輩は、自分の用はもう終わったとばかりにタイをゆるめると、控え室へとまっすぐに歩き出した。
 いつもだったら、袖のところでずっとみんなの演奏を見ててくれるのに。
 ── やっぱり、おかしい。

「ねえ、香穂ちゃん」
「あ、火原先輩。次の演奏、始まりますね」

 火原先輩はじっと、柚木先輩の背中を目で追っている。

「柚木、どうしちゃったんだろ」
「はい。私もそう思ってました」

 どこか気持ちが今私たちがいる場所にない。そんな感じ。
 それは演奏前にも感じていたけど、音を合わせてみてより強く感じた。

「次の曲のご紹介です。ヘンデル作曲、『水上の音楽』。この曲はアレグロ・デチーソとも呼ばれ……」

 追いかけていきたい気持ちの上に、アナウンス部の子の可愛い声が広がる。
 火原先輩は、手に抱えたトランペットを見つめた。

「……うん。まずは目の前の演奏、ちゃんとしなきゃね」
*...*...*
 2曲目の『デチーソ』は、月森くん、加地くん。志水くんと火原先輩の、トランペットが主役の明るい曲だ。
 清麗系の曲にした方が受けがいい、と金澤先生から助言があったけど、私は、勢いのあるこの曲が好きだった。

「日野。どうやら上手く行ったみたいだな」
「月森くん……。うん、ありがとう。すごく嬉しい」

 演奏後、改めて一礼をしていると、割れんばかりの拍手が生まれた。
 さっきの『恋』よりも、大きく強い。
 月森くんの頬には満足そうな笑みが浮かんでいる。
 これなら、かなり良い評価はもらえそう、かな。

「月森。今のこの喜びをなんて表現したら、果たして君に伝わるのかな。
 間近に君の音を感じることができて、僕は本当に幸せだよ!」
「……ありがとう。君も頑張ったようだな」

 成功、と感じられる空気の中で、みんなの気持ちは高揚してるみたい。
 加地くんは熱心に月森くんのすばらしさについて、本人に語っている。
 私は、なんとか合格点をもらえたことに、ほっと肩の力が抜けた。
 興奮が冷めないまま、私は、おろおろと周囲を見渡す。
 ── 柚木先輩、どこ、行っちゃったんだろう……。もう、ずっと、いないまま?

 肩に手を置かれる感覚に振り返ると、そこには不安そうな表情を抱えた火原先輩がいた。

「柚木のことなんだけどさ、今日はなんだか様子がおかしかったと思わない?」
「お、思います! あの、柚木先輩はどこへ?」

 今朝のことを思い出す。
 今日はえっと、そう……。会えるかなと思っていたけど、朝、いつもの場所では会えなかったんだ。
 あまり深く考えずに来たけど、えっと、教室でも柚木先輩、様子がおかしかった、ってこと……?

 私が黙っていると火原先輩は深くため息をついた。

「うん。なんか、元気がない、っていうか……。静か、っていうか。
 ちょっと話しかけにくい雰囲気を出してた、っていうのかな」
「はい……」
「おれ、ちょっと柚木を捜してくる」
「わ、私も!」

 慌ててヴァイオリンをケースに押し込む。
 だけど、どうか壊れないように、大切に、って思って、どうしてもゆっくりしてしまう。
 火原先輩は、といえば、使い慣れてるせいもあるし、トランペットは金楽器、っていうこともあるんだろう。
 結構、大雑把にケースに仕舞い込むと、私の様子を見ている。

「ごめんなさい。遅くなりました!」
「いいよ。気にしないで」

 どこなんだろう。柚木先輩は、どこに行ってしまったの?

 控え室。廊下。思いつく限りのところに走っていく。
 主を失った舞台は、灯りが消え、空調も消え。
 熱気も高い天井に立ち上ったのか、しんと静まり返っている。

「いました? 柚木先輩」
「ううん? もしかして、もう外に行っちゃったのかなあ……」

 肩で息をしながら火原先輩は走ってくる。

「いえ。ほら、あそこにフルートケースがまだあるから」

 舞台袖の奥、心細そうにフルートケースが佇んでいる。
 柚木先輩は、自分の相棒を忘れて飛び出すような人じゃない。

「あ……! いた! 柚木!!」

 火原先輩の指差す方向に目をやると、上手の舞台袖の影で、
 柚木先輩が厳しい表情で観客席を見つめているのがわかった。

「柚木、ここにいたんだ」
「火原……。そしてお前か。日野」
「朝から元気がなかったみたいだから、どうしたのかと思ってさ。気になって探しに来たんだ」

 柚木先輩は、私たちを見知らぬ人のように一瞥すると、怒りが篭もった低い声で言い放つ。

「うるさいよ、お前」
「柚木先輩!」

 叩くとかいう暴力を受けたワケじゃないのに、私の身体は怯えたようにビクリと震えた。

 今、この人を作っているのはなんなのだろう。
 怒りなの? 哀しみ? 苦しみなの?
 私に対してなら、たまにそういうことがあったから、あまり気にならないけど。
 親友の火原先輩に対して、柚木先輩がこんなこと言うなんて……。

 怖くなって私の身体は、火原先輩の後ろに下がるような格好になる。
 だけど火原先輩はそんな柚木先輩に驚くことなく、真っ直ぐに向かっていった。

「どうしたんだよ、柚木。そんな言い方をするんなんて。やっぱり何かあったんじゃないか? いつもと違うよ」
「いつもの俺と違う……。そうかもね」

 火原先輩は、穏やかな口調で、柚木先輩を取りなしている。

「別にそれが悪いっていう意味じゃないよ。ただなにがあったか気になってさ」
「……火原、頼みからひとりにしてくれ。少し気が立ってるだけだから」

 火原先輩は懸命に頭を振った。

「今は、お前の言葉をそのまま聞いちゃだめだって思う。だから、おれ、柚木のそばにいるよ。
 いったい何があったの?」
「……まあ、お前に話すのも一興、ってところかもな」

 柚木先輩は他人事のように話を続ける。
 柚木先輩の家の経営状況が危ういこと。音楽を続けていく余裕はないってこと。
 もしかしたら、今すぐにだって、家の手伝いをしなくちゃいけない状況になるかも、ってことも。

 温度のない話し方は、却って、柚木先輩の傷の深さを伝えてくる。
 胸の奥が、思い切り抉られて、そこから腐っていく気さえしてくる。
 そんなことが、ほんの半日前にあったんだ……。

「音楽の道をいやおうなく断念せざるを得ない状況になって── 。おかしな話だが、今、俺はかなり動揺している。
 可能なのにあきらめるのと、いやおうなくあきらめるのと……。何が違うっていうんだろうね」

 柚木先輩の言葉が続く。

「……俺は、これまで自分の家を何があろうとびくともしないものだと思っていた。
 その家が本当はこんなにもろいものだったなんてね」

 元々難しい家だってことは聞いてて。十分分かっているつもりになっていたけれど。
 本当は私、全然分かってなかったんだ。
 器用なこの人のことだから、なんとか上手く進んでいくだろう、なんて楽天的なことしか考えてなかった。

「この状況で今更音楽の道を進みたいだなんてとても言い出せるモノじゃないが。
 音楽の道が完全に閉ざされた今になってようやく気がついたよ。自分がどれほど音楽を愛していたか」
「柚木……」
「俺は本当に……。本当に、フルートが好きだったんだ」

 ぱたぱたと、私の足元に飛沫が飛んでいる。
 目を凝らしてみて初めて、私はそれが涙だと知った。
 ばかばか。どうして私が泣いているんだろう。

 ── 本当に泣きたいのは、泣き方も忘れてしまっている、目の前の人なのに。

 火原先輩は一歩柚木先輩に近づいた。

「おれさ、柚木が音楽が好きだってはっきり言ってくれて嬉しいよ」
「火原……」
「あきらめることなんてないよ。きっと、何か良い方法があるって。きみだってそう思うよね。日野ちゃん」

 上手く言葉が出なくて、私はうんうんと必死に首を振り続けた。

 こんなに才能のある人が。音楽を愛している人が。
 どうして、求める道へと進めないのだろう。
 そして、音楽は楽しい。それだけのことしか思っていない私が。
 なんの足枷もないんだろう……。

 ── 3年生。進路。未来が、自分の思い通りにならないなんて。

「……そう、だね。そう思えたら、どんなにか……」

 柚木先輩は火原先輩に釣られるように笑みを作ると、またあごに手を当てて黙り込む。
 火原先輩は口元を引き締めると、改まった声で呟いた。


「日野ちゃん。ごめん。ここはちょっと外してくれる?」
← Back
Next →