「……日野ちゃん、ごめん。ここは外してくれる?」

 柚木はおれたちの顔を見ることなく、ずっと目を落としていた。
 きちんと手入れの行き届いてる香穂ちゃんのローファーも、固まったように動かない。

「ごめんね。お願い」
「……はい」
「ほかのみんなにはよろしく言っておいて。頼んだよ」

 顔を上げた香穂ちゃんは、真っ赤に目を腫らして、はらはらと涙を流している。

 どんなに練習が大変でも。月森くんや土浦に厳しいこと言われても、笑ってた香穂ちゃんが泣いている。
 それはおれにとって、ちょっとしたショックだった。
 ああ、柚木にはこの子を泣かすだけの力があるんだな、って。
*...*...* Cloud 3 *...*...*
「じゃあ、私、失礼します」
「うん! 香穂ちゃんも疲れてるだろうから、気をつけて帰りなね?」
「はい」

 香穂ちゃんはしょんぼりと肩を落として帰っていく。
 明日なんとしても、朝イチに香穂ちゃんに会って、元気出してもらわないとなー、なんて、おれは先輩風を吹かせて思った。
 あの子は、笑っていた方が可愛い子だから。いつも笑ってた方がいいに決まってる。

「さて、と」

 おれは改めて柚木の顔を見つめた。
 女の子と見まがうくらい、白い頬。その周りを艶のある髪が覆う。
 ちょっとしたクセ毛で、朝起きたときなんか、爆発しそうな勢いのおれの髪とは違う。
 しなやかで柔らかそうな髪だ。

「でもさ、おれ、なんだか嬉しいよ」
「火原?」
「やっとこれで、柚木は認めてくれたんだよね。自分が音楽が好きだ、ってこと」

 ぽつりと本音が、舞台袖中に広がっていく。
 さっきまでの演奏も。観客の拍手も。みんなと作った熱気も。
 今はなにもかも包み込んで、いつもの冷たいような空間。

 おれは端っこにうち捨てられたようになっていたパイプ椅子を引っ張り出すと、そこに腰を下ろした。
 親友だ、って思ってて、今も思ってることに間違いはないけど。
 こうして2人きりで、こんな場所にいる、っていうのも、なんか不思議だ。

「ずっと思ってたんだ。どうして柚木は、なんでも一歩引いたところがあるのかな、って。
 選曲だってそうでしょう? いつもおれに合わせてくれて。曲想だって、おれとは違う。
 自分の奏でたい曲を奏でるんじゃなくて、観客の聞きたい曲を奏でてたよね」

 いつも疑問だった。
 柚木は何もかも優れてる。技巧だって、技術だって。
 どんな人間にだって優しい。親切だ。
 だけど。
 ……そんな完全な世界の中で、自分らしい自分って出せているのかな、って。

 柚木は憎々しげに呟いた。

「俺はね。自分から捨てるつもりだったんだよ。音楽のことを」
「柚木」
「しょせん、芸事だ。なんの利益も利潤もない。ただの娯楽だと」
「柚木!」

 日頃の柚木じゃないような、汚い言葉を吐き続ける親友を、おれはただ黙って見ていた。
 上手く説明はできないけど、親友が親友じゃないような様子は、却っておれを安心させた。
 なんか、これでようやくおれは柚木と肩を並べることができる、っていうのか。

 だってそうでしょ?
 完璧すぎる優等生の親友と、抜けているところいっぱいのおれじゃ、なんだか申し訳ないもんね。

 とどまることのない、柚木の心の声を聞く。

「芸事なんて、金を生まない。ただの慰みものなんだ……」
「うん……。それから?」

 幼い頃のピアノの話。フルートを始めた理由。中学に上がってから。
 柚木の2人の兄は、柚木がピアノを辞めたあと、なんのためらいもなく辞めた話も。

 どれくらい時間が経ったのだろう。
 糸が切れたようにぷつりと話すのを止めた柚木に、おれはにっこりと笑いかけた。

「── それでも。柚木は音楽が好きなんでしょう?」

 今度がおれが反撃に出る。

「だいたい、音楽が好きじゃなきゃ、柚木にあんな音は出せないよ」

 心を込めて告げてみたけど、柚木からの返事はなかった。

 そうだなー。
 おれの生まれて育った家、ってここからここまで、というか、ちんまりとした普通の家だし。
 柚木のような大きい家、って想像がつかないし。家が傾く、とか、壊れるとかを心配するたいそうな歴史もない。
 だから、よくわからないけど……。
 決して壊れることない大きな家に包まれて大きくなった柚木は、そりゃ、やっかいなことも多かっただろうけど、
 守られてきた部分もきっと大きかったわけで。
 今の柚木は、一人裸で冬空の下に放り出されたような気持ちなのかな、とふと思った。

「あ、そうだ。今日の柚木の予定は?」
「……いや。なにも」
「じゃあ、たまにはおれに付き合ってよ。思い切り遊んでさ。めいっぱい疲れて、今日はそのまま寝ちゃえばいいんだよ」
「火原」

 おれはそこで話を切ると、ひょいと柚木のフルートケースを手に持った。
 いつも頼ってばかりのおれだけど、たまにはこんなポジションも。うん、いいかも?

「行こう? 柚木」
「行こう、ってお前……」
*...*...*
「ヘンなヤツだな。こんな俺を見て、なんとも思わないなんて」
「んー。そう? それがなに?」

 2人でゆっくりと正門前を横切る。
 創立祭のコンサートが済んでから、少し時間が経ったからかな。
 3時すぎのこの場所は、あちこちに柔らかな日だまりができている。

 『こんな俺』っていうのは、柚木の多分、柚木自身の言葉遣いのことを言ってるのかなー、なんて思わないでもなかったけど、
 そんなのは、おれにとってなに1つ問題じゃなかった。
 別に……。だってさ。今、おれの目の前にいる柚木は、いつもおれの近くにいる柚木でしょ?
 なんでそんなこと、気にするのかな。

 ゲーセンに、カラオケ。それにボーリング。
 いろいろ提案したけれど、さすがにカラオケとボーリングは却下された。
 そうだなー。指痛めてもなんだしね。だけど、カラオケ、って結構 はまると楽しいのに。
 あんまりしつこく誘ってもなんだよね、ということで、おれたちはゲーセンに行くことにした。
 1番奥にある、簡単なメダルゲームのやり方を伝える。

「ここを、こうするんだよ。ブラックジャックだね、これは。スロットもあるよ」
「へぇ……。火原はよく来るの? こういうところ」
「まあ、たまにね。悪友に誘われると、試験前でも来たくなるよ」
「たまにならいいんだろうけど。結構騒がしいものなんだな」

 あたりはタバコの匂いが充満している。
 柚木は軽く息をつくと、白い上着を脱いだ。
 黒いベスト姿になった親友は、場違いに美しくて、周りの男たちが驚いたように振り返る。
 柚木はそれに構うことなく、俺の示した台に座った。

「楽しい?」
「まあ、新鮮だ、と言っておこうかな」
「うんうん。って、柚木、すごくたくさんメダル、ゲットしてるよね?」

 最初のメダルで30分くらい遊べたら十分かなー、と思ってプレイを始めたけれど。
 柚木のメダルは増えるばかりで、最後の方はおれが柚木からメダルをもらっては、使い込んでいた。
 柚木は大したことない、という風におれを見上げた。

「ああ、まあ。こういうのは確率の問題だからね。機械相手でも、人間とやるのとさほど変わらないだろう?」
「はは。おかげでおれ、助かったよ。メダルたくさんもらえて」

 そろそろ帰ろうか、ということになって、おれたちはすっかり暗くなった街へと飛び出した。

 クリスマス、なんてまだまだ先だ、って思っているのに。
 街のショーウィンドウの中には、トナカイがのんきな顔をして首を振っているイルミネーションもあった。
 クリスマスにトナカイ、っていうと、おれはいつも『赤鼻のトナカイ』っていう童謡を思い出す。
 いつもみんなの笑いものだったトナカイは、幸せになれたのかなー、とかさ。
 みんなが幸せだったら、いい。なんて、センチなことを思う季節だったりするんだ。クリスマスは。
 クリスマス。12月か。そのころ、おれは18才になる。

 柚木の顔が、心なし疲れているように見えるのは気のせい、じゃないかも。
 でもさっきよりもなんか、吹っ切れた顔をしてる。
 柚木はおれの視線に気づくと、片頬をほころばせた。

「……たとえ、音楽が役に立たない芸事だ、手遊びだ、と言われても……」
「ん? なに? 柚木」
「俺は、お前に出会えたことに感謝しているよ。火原」
「柚木……」

 柚木はそこで首をすくめると、からかうような笑みを見せた。

「お前と会わなかったら、俺の3年間は、もっと味気ないものになっていただろうからな」
「あはは! 本当だよ! おれさー。卒業証書もらったら、真っ先に柚木に見せようって思ってるくらいなんだから」
「ふふ。それはまたどうして?」
「だって、おれの卒業は柚木のフォローがあってこそ、でしょう?」
「卒業……、できたらね?」
「あ、もう! 柚木ってば、意地悪だなー」

 柚木は微苦笑を浮かべている。
 ときおり路地を駆け抜けていく車のライトが、柚木の横顔を白く浮かび上がらせては去っていく。
 儚げな親友の面輪は、どうしてだか強くおれを突き動かした。

 今までさ、どれだけおれは柚木に助けられてきたんだろう、って。
 そして、柚木に助けられた分のうち、おれはどれだけ柚木にお返しができてるんだろう。

「って……。あああ! 忘れてた!」
「なんだい? 火原」
「おれはともかく、柚木にはもう1人、感謝したい、って思う相手がいるんじゃない?」

 なんとなく本人の口から本当の答えが聞きたくて、おれはまっすぐ柚木を見つめた。

 いつからか気付いていた。気付かないふりをしてたけど。
 それは、柚木は香穂ちゃんの前では、とても気持ちよさそうな表情をしてる、ってことだった。
 さっきの、柚木の変化にも、香穂ちゃん、全然驚いた様子もなかったし。
 むしろ、穏やかに柚木のことを受け止めていたような気がする。

「感謝したい、って思う相手? 誰のこと?」
「おれから答え言ったら、つまんないでしょ?」
「……ああ。日野のことか」

 ゆっくりと頷いて柚木を見ると、親友は淡々と話し始めた。

「あいつは、春のコンクールの頃から俺の本性は知ってたよ。あいつ、イジメがいがあるから面白くて」
「ははっ。確かにそうかもね」

 真面目すぎるほど真面目で。一生懸命で。それでいて可愛くて。
 突然飛び込んだ音楽の世界で、春の頃にはあんなに右往左往してた香穂ちゃん。
 半べそかきながら、だけど手を抜くことなく一生懸命やりきった、4回のコンクール。
 そして、今は、慣れないアンサンブルも、リリのためなら、ってコツコツと取り組んでいる。

 そんな香穂ちゃんが、おれは可愛くてしかたなくて。
 そして、俺の親友も同じ気持ちなんじゃないか、って思えてきて。
 ── ってことはなんだろ。おれたちは、ライバル、ってことなのかな。

「日野の笑っている顔を見ると、嬉しくなると同時にねたましくもあったよ。
 音楽のことをここまで真剣に無邪気に捉えてるあの姿がね」
「柚木……」
「いや。これは日野だけに限った話じゃない。クラスメイトもそうだし、今回のアンサンブルメンバーもそう。
 どうして周囲の人間はみな、音楽へ向かう道が許されているんだろう……、ってね」

 そう言って柚木は暗い色をした目を逸らした。

「ただ、日野は、俺が何を言っても受け止めてくれそうな気がした」
「……そっか」

 ううーん……。
 聞いててなんだか、柚木ってば、気になる女の子にちょっかいを出してる、小学生の男の子って、感じ……?
 っていう印象を持たないわけではなかったけど。

 まあ、いいや。今日の柚木は疲れているだろうしね。

 明日のことは明日、考えよう。
 疲れている頭で考えてたって、良い考えは浮かばない。
 とりあえず、1つだけ言いたいこと伝えて、今日は終わりにしよう。

 おれは柚木に笑いかけると、しっかりと念を押した。

「ねえ、柚木。明日はちゃんと、香穂ちゃんに、お礼、言うんだよ? 『感謝してる』って」
「火原?」


「たまには悪友の助言を、聞いてみるのもいいでしょう?」
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