*...*...* Letter 1 *...*...*
 それほど大きな声、大きな音、ってワケじゃないのに、特別、耳に飛び込んでくるモノってあると思う。
 その物差しってなんだろうと考えたとき。
 それは、『どうか届きますように』という『願い』の強さなんじゃないか、って、最近気付いた。

 志水くんが作る音だってそう。
 チェロって、高音部だって、ヴァイオリンよりもずっと下。
 だけど、たとえば志水くんが講堂の端っこでチェロを奏でていたとしても、
 私は足を踏み入れると同時に、彼がチェロを鳴らしてる、って気付くことができる。

 乃亜ちゃんが、谷くんと話す声だって、そうだ。
 私に話すときとは違う、ちょっと甘い、柔らかな声。
 普段だったら耳をそばだてないと聞こえないような声も、私によく届く。

 志水くんのチェロ。乃亜ちゃんの声。
 2つとも、どちらも聞いてて心地良いってところが似てる気がする。

「香穂さん。昨日はお疲れさま」
「加地くん?」
「昨日、僕は客席で君たちの音を聴いていたわけだけど……」

 2時間目の古典の授業。
 先生はチョークで黒板を軽く はじくと、次の授業からは新しい単元に入ることをボソボソと小声で告げている。

「創立祭、来てくれたんだ。ありがとう。どうだった?」
「いいね。君らしい、清々しい音色だった。
 君の音は、何の悩みも持たない桃源郷へと僕を誘う音なんだよ」
「とう、げん??」
「── 僕にはけっして真似できない」
「加地くん……」
「まあ、君と君の作る音楽があれば、今の僕には何も必要ないけど。ふふっ」

 加地くんは優しい表情で私の顔を覗き込む。

 私のヴァイオリンを聴くたびに、加地くんは限りない賞賛を注いでくれる。
 だけど、本当はわかってるんだ。
 昨日のコンサートは、1回目の教会のコンサートよりはましだった、ものの。
 大成功、といえるほどのレベルではなかったこと。
 対外的に、成功、という範疇に入れたのは、私自身の力じゃない。
 トルコ行進曲で言えば、冬海ちゃん、志水くんコンビの後輩メンバーが、すごくすごく頑張ってくれたから。
 『恋』もそう。冬海ちゃんと土浦くんが、後半部分を目いっぱい盛り上げてくれたから、だと思う。

(柚木、先輩……)

 昨日の演奏曲のメロディを辿っていくと、どうしても最後には、フルートの旋律に行き着く。
 どこか、空っぽの、寂しい音が、オルゴールみたいに何度も私の中をリフレインする。

 ── 昨日。演奏を終えた舞台袖で。
 私はその場に居ることが場違いなことを十分分かっていながらも、どうしてもあの場所に居たいって思った。
 何の役にも立てなくても、ただ、そこに居て。
 柚木先輩のこと、見ていたい、って強く願ったんだ。

(これって……?)

 眠れないベッドの中で寝返りを打つたび、何度も自分の気持ちを確かめた。
 これって、……この気持ちは、って。
 気づくの、遅すぎ。って自分で突っ込みたくなるほど、わかりやすい気持ち。

(私は、柚木先輩が好きだったんだ)

 いつからなのか、って自分を振り返ってみても思い出せない。
 初めは、優しい先輩で。そしてあの屋上での出来事を経て。怖くてたまらない先輩になって。
 だけど、この人の助言は正しい、って思うようになってから、もうどれだけの時が経ったんだろう。

『誰もが自分の思う道へ進めるわけではないよ』
『僕には特に願いなんてないしね』

 そう呟く影のある表情を、悲しい、って思うようになったのはいつからなんだろう。
 古典の前の授業のgrammer のとき、加地くんがこっそり教えてくれたことわざを思い出す。

『ねえ、香穂さん。このことわざ、知ってる? ── 『Pity is akin to love』』
『え? えーっと。『be akin to』 が、『〜〜と類似している』、っていう意味だよね』
『そう。漱石の三四郎に出てくるんだけど』

 加地くんの知識の深さは、古典だけじゃない。近代史でしょ。それに文学史。
 それも西洋の神話の時代から、最近の作家さんのことまで、すごく多岐に渡ってるって知ったのは、最近のこと。

『まあ直訳すると、『憐憫と恋は似ている』、かな。僕はこの訳は好きじゃないけどね』
『ん……』
『僕だったら、どう訳すかな。やっぱり『可哀想ってことは惚れたってこと』 っていう訳は時間の洗礼を受けて美しいね』

 可哀想。可哀想、か……。

『ごめんね。香穂ちゃん。ここは外してくれる?』

 火原先輩にそう言われて、私は重い足取りで、その場を後にした。
 あれから、先輩たちは、どうなったんだろ。
 柚木先輩と火原先輩は親友同士で。ずっとずっと仲良しさんだったんだから。
 私が心配するなんて余計なお世話だけど。でも、どうしても。

「あ、香穂さん?」
「ごめんね。私、ちょっと柊館まで行ってくる!」
「って、次、移動教室だよ?」

 私は柚木先輩の様子が気になって、先生よりも早く教室を飛び出してパタパタと柊館へと向かう。
 元々20分しかない、短い休み。
 往復だけで、10分は使っちゃう。
 音楽科の授業は実技が多い。
 だから、もしかしたら教室は人1人いない淋しい場所になっているかもしれないけど。
 ……うん。そう。別に話なんかできなくてもいい。
 いつもの先輩たちを見ることができたら、いいもん。
*...*...*
 私の不安は上手い具合に外れて、昼休みの3年B組は、わいわいと和やかな空気に包まれていた。
 廊下側の席の火原先輩は私に気づくと、いつもの笑顔で廊下に出てきてくれる。

「どうしたの? 香穂ちゃん。こんなところまで」
「火原先輩! 会えて良かったです。あの、昨日、柚木先輩は、あれから……?」
「ああ、心配してきてくれたんだ」
「も、もちろんです!」

 私はやや強張った表情のまま火原先輩を見上げた。

「大丈夫だよ。香穂ちゃん。柚木も俺も今までと全然変わらないよ?」
「本当に? 良かった……」
「ごめんね、昨日は。香穂ちゃんにも心配かけちゃったよね」
「いえ、私はいいんです!」

 ほっ、と知らずため息がもれる。
 ── 本当に、良かった。

「すみません。火原先輩に用があるんですけど。ちょっと、いいですか?」
「は、はい! ごめんなさい」

 少し固い声がして振り返ると、そこには私同様、ちょっと場違いな普通科の制服を着た女の子2人組が立っていた。
 タイの色と、まだ新しい感じの冬服は、彼女たちが1年生だということを伝えてくる。
 そのうちの1人。小柄な女の子は背中に手を回したまま、健康そうに日焼けした頬を赤らめている。

「ほーら、綾子。もう3時限目始まっちゃうよ? 頑張って!」
「う、うん!」

 仲良しさん、なのかな?
 付き添いの女の子に脇腹を突かれ、綾子と呼ばれた女の子は火原先輩の鼻先に白い四角いモノを差し出した。

「あ、あの火原先輩、これお手紙。読んでください! じゃあ!!」
「え? お、おれに? 柚木にじゃなくて?」

 2人の女の子は、火原先輩の顔も見ずにすごい勢いで廊下を走り抜けていく。
 うわ……。
 たった、1つしかない年の差だけど、こういうとき、1年生って私よりずいぶん若いなーなんて、ちょっと切ないことを考えたり、する。

 火原先輩は目を見開いて、手にした封筒を不思議そうに見つめた。

「いったいなんだろうね。これ」
「あ、そ、それは、多分、火原先輩……っ!
 あの、開けない方が、というか、1人きりのときに、開けた方がいいような……っ」

 多分、というか、絶対、というか……。えっと、内容は多分、好きです、っていうメッセージ、だと思うもの!

「え、どうして? 開けなきゃ内容わからないでしょ? いいじゃない」
「あ……」

 火原先輩は封筒の端を無造作にピリピリと破ると、内容を読み上げ出した。
 わ、わ……っ。
 私はそわそわと周囲を見渡す。
 特に今、私たちに注意を寄せている人はいない、よね。
 だけど、女の子って結構鋭いもん。
 誰かおしゃべりさんの耳に入ったら、綾子さん、って女の子、ウワサになっちゃう。

「なになに……。『いつも演奏を聴いています。もっと火原先輩と仲良くなりたいです。
 よかったら今日の帰りに森の広場に来てください。お返事待っています……』、だって。香穂ちゃん」
「火原先輩、読み上げちゃった、んですね……」
「ねね。香穂ちゃん。これって、あの子がおれの演奏気に入ってくれた、ってことだよね! すごく嬉しい」
「はい。……それは正しい、って思います……」

 私はガックリと肩を落として頷いた。
 多分、いや、絶対、火原先輩の言うことは間違ってない、けど。
 だけど、綾子さんって人は、火原先輩の音楽だけじゃない。もっとその先を望んでいる、ってわかるんだもの。

 火原先輩、そのこと、分かってるのかな。

「ねえ。さっきの子って普通科の子だったよね。
 嬉しいね、香穂ちゃん! こうして音楽の輪が広がっていく、って感じって。
 あー。おれ、もっとチラシ、作ってみようかなー。
 そうしたら、今、音楽に関心のない子も今度の文化祭、聴きに来てくれるかも、だよね」
「まったく。お前も罪なヤツだね、火原」
「柚木?」
「ゆ、柚木先輩?」

 背後から声がする、と思ったら、いつからそこにいたんだろう。
 私の後ろには、革の装丁を施した分厚い本を手にした柚木先輩が立っていた。

 背表紙に、銀箔の横文字が並んでいる。
 この人が手にしてる、っていうだけで、本はこんなにも垢抜けて見えることに驚く。
 火原先輩は無邪気な声で言い返した。

「え? うん、手紙は受け取ったけど……。おれなんかマズイことした?」
「それ、ラブレターだろ? 遠目にもわかった」
「ら、ラブレター?」
「違うの?」
「え、いやそうじゃなくてだっておれこういうの初めてで。あー。だから香穂ちゃん、さっきから微妙な顔してたんだ」
「そ、そうです! だって、火原先輩、内容を読み上げちゃうんだもの……。ハラハラしました!」

 3人で、顔を合わせるのは、昨日以来。
 火原先輩の前、柚木先輩はすっかりくつろいだ様子で、ありのままの姿を見せているみたい。
 だけど、火原先輩は全然動じてる様子もない。
 ……ううん。
 柚木先輩と火原先輩の作る空気は、却って親しさが増したような、ふんわりとした空気に包まれている。

「あー、おれホント鈍感。全然わからなかった。だめだなあ」
「それよりお前、返事はどうするの? 返事を聞かせろと書いてあるんだろう?」
「うん、今日の帰り森の広場に来てくださいって……」
「やれやれ。よく考えろよ?」
「そうだね。うん、おれちゃんと考えるよ」

 さっきの元気な表情とは裏腹に、火原先輩はどこか浮かない顔をしている。
 柚木先輩は大げさにため息をつくと、私の方を振り返った。



「さて。もう、始業のベルは鳴ったけど。お前はどうやって、桜館まで戻るつもりかな?」
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