*...*...* Letter 2 *...*...*
 ぬかるみのような生暖かい空気が、午後の教室中を塗り込めている。

 午後の眠気を払いのけるためには、実技の教科が相応しい、とは思うものの。
 週に1度は他のクラスとの兼ね合いもあり、どうしても理論系の授業になる。

「今度の試験にしっかり出すぞー。#が3個つくと、A dur で#が6個つくと、Fis dur。
 おーい、火原。聞いてるか、こら」

 ぼんやりとグラウンドに目を当てていた火原の注意を促すかのように、音楽理論の先生はこぶしで黒板をドンと叩いた。
 名前を呼ばれて、ようやく俺の親友は自分にクラス中の視線を集めていたことに気づいたのだろう。
 弾かれたように立ち上がると、教師の指差している箇所に顔を向けた。

「え? あー、っと。なんでしたっけ?」
「大学入試の勉強も大変なときだから、ってことで、今度の期末に出る内容、わざわざこの私がヤマを張ってあげているんだが」
「うっ。ありがとうございます……」
「ん? どれ? 外にお前のお目当ての子はいたかー? ったく、こっちに集中しろよ」

 クラス中の笑い声の中、火原は決まり悪そうに椅子に座り直した。
 そして、髪をかき上げ、教師が告げたことを慌ててノートに書き留めている。

 クラスメイトの作る笑いは、授業を聞いていない火原を軽んじる類のモノではない。
 むしろ、あいつは音楽はすごいから、仕方ないよな、という許容の空気。
 人望、と言ったら大げさかもしれないが、どんな火原をもクラスメイトは受け入れ、一目置いているような気がする。
 ── 俺には到底、真似できない。

 俺は真剣な表情でノートを見つめている火原の横顔を、改めて眺めた。

 昨日の火原を思い出す。
 自暴自棄になって暴言を吐き続けた俺を、この親友はいつもと変わらない態度で接し続けた。
 取り立てて口を挟むワケでもなく。俺の話を聞き終えたあと、無邪気な笑みで俺の本心に迫った。

『── それでも。柚木は音楽が好きなんでしょう?』

 今まで、気のおけないクラスメイト、というとても単純な感情を火原に抱いていたにすぎないのに。
 昨日の火原は、俺をも圧倒させるような男の魅力に溢れていた。
 親友のことを、初めて心から頼りにしている自分がいた。

(日野がわざわざここまで来てたとはね)

 教師陣からの信頼、というのは、別の言葉で言い換えれば、体の良い雑用係も兼ねているわけで。
 さっきの休み時間、俺は教師の雑用に掴まって図書館に用を足しに行っていた。

 始業に合わせて教室に戻ったとき。
 火原は相変わらずの鈍感さで、普通科の女が渡した手紙をラブレターとも気づかずに、開封して内容を読み上げていた……、
 というわけだ。

 おろおろと火原の口元を見ていた日野と、どんと構えた火原。
 この2人がやけにしっくりしているように思えたのは、俺の気のせいだけではないだろう。

 ── そう。火原は確実に、周囲の耳目を集め出している。

 周囲と同様、日野も、火原のことを好ましく思い始めているのだろうか。

『今日の帰りに森の広場に来てください』

 火原が読み上げた手紙の内容を思い出す。
 ちゃんと考えると言っていたから、午後、火原は生真面目に指定された場所へ行くのだろう。

(……日野は?)

 あいつは、どうするのだろう。
 我関せずとした態度を取るのか。それとも、火原を追いかけて、さっきの女を食い止めるのか。

「じゃあ、この理論を活用すると、終章はどうなる? あー、っと、柚木?」

 授業終了を知らせるチャイムに慌てて、先生は俺に目を留めると解説の続きを促した。
 俺は相手の求める回答をそつなく告げる。
 先生は待ちかまえていたように俺の言ったことを板書すると、そそくさと教室を後にした。
*...*...*
 放課後。
 時折吹き抜ける風は、放課後が始まる時間から下校時間まで、刻々と変化し続ける。
 森の広場は広い。さらに、季節柄、閑散としていて、人の目も避けやすい。

 俺はさりげないふうを装って、森の広場へ向かう火原の後に続いた。
 俺の親友は俺の挙動にまったく気づくことなく、入り口に立つとあちこちに視線を投げかけている。

「あ! 君? ……あ、ごめんね。違ってた」

 一度会っただけの女の顔まで覚えていないのだろう。
 普通科の制服を見ては途方に暮れたようにため息をついている。

「きゃーー! 火原先輩、ですか? あの、トランペットの??」

 話しかけられた女は、火原のことを知っていたのか黄色い声を上げて。
 昨日のコンサートの感想を矢継ぎ早に告げると、笑いさざめいている。

「そうなんだ。ありがとね。今度、文化祭でもまたやるんだ。ぜひ聴きに来て!」
「はい! 楽しみにしてますね〜。じゃあまた」

 人の機微、だとか、恋愛、だとかが絡まないとき、火原はいつもの饒舌さを取り戻して、明るく取りなしている。
 しかし視線は不安げに、あちこちと動き回っている。

「あ、あの……。火原、先輩?」
「あ! 君……、あ、あの、さっき手紙をくれた子、だよね?」
「は、はい!」

 どうやら目的の子が来たらしい。
 俺は木陰に身を寄せると女の様子を覗き込んだ。
 普通科。タイの色からして1年か。
 胸まで伸びた髪はさらさらと風を味方につけて揺れている。
 頬を赤らめたその女の子は、いかにも素直な愛らしい子に見えた。

 小さな声までは聞こえない。
 だけど、二言三言、火原の言葉を聞くうちに、女の子の弾けそうなほど明るい空気が、だんだんしぼんでいくのがわかった。
 火原も、口少なにひたすら自分の足元を見ている。

「ごめん! 君を泣かせちゃうことになって……。本当にごめん!!」

 火原の大声に振り返ると、そこには、深々と頭を下げたあと走り去る火原の背中が見えた。
 残された女の子は、流れる涙を拭うこともせず、ずっと火原の背中を目で追っている。
 やがて、親友なのだろう。少し離れた木の陰から大柄な女の子が飛び出すと、
 泣いている子の肩を抱いて、ゆっくりと校舎へと歩き始めた。

 ……ったく。女のあしらい方も知らない男は、これだから困る。
 もっと美辞麗句で適当に、傷つかないように対処する方法だって、いくらでもあるっていうのに。

 そう思いながらも、火原の行動は俺から見ていて清々しく映ったことは事実だ。

 火原はいつもまっすぐだ。
 まっすぐで。誠実で。人を疑うことを知らなくて。周囲を明るくさせるパワーに満ちている。
 そこまで考えて俺は、これらの形容が、日野にもぴったり当てはまることに気付いた。
 日野と火原。あいつらは似た者同士、ってことか。

 と、そこに、日野がヴァイオリンケースを手に、小走りでこちらに向かってくるのが見えた。

 目的は、多分、火原。
 夏休み前のコンクールの時、俺はあいつが俺を捜す様子を見るのが好きだったけれど。
 俺以外の誰かを捜している姿、というのはどうにも面白くない。

 日野は心配げに何度も入り口のあたりを行き来している。
 さわさわと枯れた葉ずれの音が、俺の周りを何度か近づいては遠ざかる。
 俺は忌々しい気持ちで、日野の前に脚を進めた。

「どうしたの? さっきから辺りを見回して。誰かを捜しているのかな?」
「あ、柚木先輩! え、っと。あの、少し気になって……。余計なお世話かも、なんですけど」

 日野は不安げに眉を曇らせて、俺の口端を見つめた。

「火原のこと?」
「はい」
「あいつなら、森の広場にはいないぜ。手紙の子となにかあったのかな?」
「え!?」

 日野のわかりやすすぎる反応に、俺の日野への気持ちが面白くない方向へと傾くのがわかる。
 ── 飼い犬に手を噛まれた、とでもいうのか。
 とにかく、不愉快だ。こういう気持ちは。

「なに? お前。火原が他の誰かと付き合う、なんてことになったら、面白くないの?」
「そんなこと……。私、ただ、心配で!」
「目は口よりも雄弁、ってね。今のお前を見ていると、どんな風にも解釈できるぜ?」

 何に腹を立てているのか自分でもわからない。
 火原の男らしい態度に?
 それとも、日野が、俺よりも火原を選ぶことに?

 昨日の火原を思い出す。
 あいつになら、負けても仕方ない、と思う俺と。
 俺が認める唯一の親友。だからこそ負けたくない、という気持ちが揺れている。

「火原なら多分公園に行ったよ。それも1人でね」
「1人で、ですか?」
「追いかけてやったら? お前が行けば火原も喜ぶんじゃないか?」

 日野は大きく息をつくと、改めて俺の顔を見上げた。
 痛みに耐えるような悲しげな顔は、どう判断するのが正しいのかわからない。
 もしかして日野は俺のことを? と都合の良すぎる解釈を自分で戒めたり。
 日野の思いを計りかねている自分がいる。

「早く行ってこいよ」
「はい……」

 まあ、火原には昨日の貸しもある。
 日野は俺の言葉に頷くと、小さな背中を向けて走り出した。
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