*...*...* Donau 1 *...*...*
「香穂先輩。あの、文化祭に演奏する曲、3つ、決まりましたか?」
「あ、冬海ちゃん! ……ううん、まだ、なの」

 図書館の帰りなのかな。
 冬海ちゃんは志水くんと一緒に、同じ背表紙の本を抱えて私の方へ近づいてくる。
 午後3時過ぎの日差しは柔らかく2人の肩を照らしている。
 志水くんは首をかしげると、ゆっくりと口を開いた。

「そろそろ、はっきり決めた方がいい時期に来ているかもしれません。
 香穂先輩、知ってますか? べき乗則の法則って」
「え? 『べき乗則』?」

 志水くんの柔らかな唇から飛び出した言葉に、私はオウム返しのように同じ言葉を呟いた。
 なんだろ、その、物理みたいな法則、って……。

 春のコンクールの時には、まだどこか幼げな表情をしていた志水くん。
 だけど、こと音楽のことを話し始める彼は、先生のような威厳があるときがある。
 空気が変わったのを感じて、私はぎゅっと背筋を伸ばした。

「1人が演奏するソロは、1人分の練習がそのまま音に反映されますよね」
「うん……。ううん、はい!」
「でも、アンサンブルはそうじゃない。2種類の楽器が登場するなら、2のべき乗である4の練習量が必要になるんです」
「え? ってことは……。えっと、今私がやろうと思っている、ドナウだと、5人のアンサンブルだから……」
「そうです。5のべき乗の25の練習量が必要になる、ということです」
「そんなに?」

 25倍、……って、ホント?
 それって、単純に練習時間のことを指すの? それとも心意気?
 うう、きっと心意気、っていう問題じゃない。
 さーっと、顔が青ざめていくのを感じる。

 選曲のとき、私は単純に、3人より、4人。4人より5人で奏でた方が、リリの元気が出てくるかな、って考えていただけで。
 そんな、5人で25の練習量が必要になるなんて、頭の片隅にも思ってなかった。

「志水くん……。香穂先輩が驚いてるよ?」

 冬海ちゃんが、私たちを取りなすようにふわりと微笑んだ。

「それは理論値なんです。
 絶対値、というわけではないので、そんなに気になさることもないんですよ? 香穂先輩」
「そっか−。ビックリしちゃった」
「だって50人もいるオケ部だったら、それこそ想像もつかないような努力をしなくちゃいけなくなる、ってことになります。
 志水くんは、それくらい周囲の音に気を遣おう、って言っているんだと思います」
「うん……」
「でも、お互い、独り練習が足りないのは事実ですよね」

 志水くんの言葉に、私と冬海ちゃんは頷いた。
 だって本当にそう。
 今度の文化祭の曲は、時間も場所もしっかり確保できるということもあって、
 リリに請われるまま、3曲も演奏することにしていた。

 技術も、そして練習も足りない、って思う私は、とんでもなく無計画に練習を繰り返していて。
 本番まであと5日、となった今、どの曲も中途半端な仕上がりになっている。

「とりあえず、香穂先輩。練習しましょう」

 2人の後輩は慰めるように私を見つめたあと。
 冬海ちゃんは1人で思い切り吹き込んでみたいからと森の広場へ、
 志水くんはヨハン・シュトラウスとブラームスの関係が気になるから、と呟いて、再び図書館へと向かった。
*...*...*
「うーん……。選曲に無理があったのかなあ」

 森の広場は、急に影が差して冷ややかな風が通り抜けていく。
 私はベンチの端に腰掛けると、ほ、っと息をついた。

 夏の頃より透明度が増したのかな。
 ひょうたん池の底では、小さな魚が春を待つかのようにじっと静かに尾びれを動かしている。

 私は束になっている楽譜を手に取ると、付箋紙が差し込んである順にパラパラとめくった。
 今度の文化祭でのコンサート。せっかくだから、春のコンクールメンバーがたくさん参加できる曲がいい。
 そう思って選んだ曲は、『美しき青きドナウ』、『動物の謝肉祭』、それに、『モルダウ』だった。

 だけどどうしたって、練習時間が足りない。
 加地くんのレベルを上げるために、2人練習は欠かせない。
 それに、1人練習を黙々とやっていたら、アンサンブルをする時間がない。
 その曲の歴史や、作者さんの背景。
 志水くんを見ていると、知っているのと知らないのでは明かな違いが生まれるのもわかってきたし……。

 そう。私、もっと、練習したいのに。
 どうしたら……。

「香ー穂ちゃん!」
「あ、あれ? 火原先輩?」
「どうしたの? 眉間にシワ寄せちゃって」
「は、はい? 寄ってましたか??」

 突然明るい声が私を呼ぶ、と思ったら、目の前に火原先輩が飛び出してきた。
 どんなしかめっ面をしてたんだろう、と私は指で眉の間を撫でる。

 鏡に自身を映すとき、誰でも少しだけ取り澄ました表情を作ってる。
 ということは、自分が自分だ、と思っている顔と、周囲のみんなが『日野香穂子だ』って思ってる顔には違いがある、ってことだ。
 私、眉間にシワが寄った自分の顔を、見たことがない。
 うう、考えれば考えるほど、恥ずかしいかも。

 火原先輩は、寒いこの季節でも案外平気そう。
 にこにこと血色のいい顔で私を見下ろしている。

「はい……。あのね、もうすぐ文化祭だっていうのに、なかなか曲が決まらないんです」
「あれ? ああ。アンサンブルの?」
「はい。あ、あの、今のままじゃ、リリ、元気になるどころか、却って病気になりそうな気がします!」

 は−、っと盛大にため息をつくと、火原先輩は釣られるように笑っている。

「あはは! それは香穂ちゃん、言い過ぎだよ〜。おれで良かったら相談に乗るよ?」
「はい。ありがとうございます」

 そっか。オケ部の経験がいっぱいある火原先輩なら、すごくためになるお話を聞かせてくれるかも。
 私は、火原先輩の方に膝を向けると、手にしていた楽譜を広げた。

「あの……。天羽ちゃんから聞いてるんです。今回の文化祭、ちょっとアンサンブルの人気が少ない、って」
「え? そうなの?」
「はい」

 昨日、煮え切らない表情の天羽ちゃんが、珍しく言葉を詰まらせながら教えてくれた。
 文化祭では、アンサンブルの他にもクラスごとの催しごとを初めとして、部活や有志でのイベントもある。
 ざっと数えて30くらい。
 その中で、あんたたちがやるイベントは認知度が低い、ってワケじゃないけど、1番手、ってワケじゃない。
 アタシとしては、あんたたちの曲、校内のみんなに聴かせたいって思うんだけど。
 どうも他のイベントに流れちゃうような気がするんだよね。

 天羽ちゃんの、への字に曲がった口元を思い出す。

 私だけならともかく、柚木先輩や火原先輩は、3年生の忙しい時期に、頑張ってくれているのに。
 月森くんや志水くんも、自分の時間を割いて、いっぱい協力してくれるのに。
 その……。聴いてもらえる、以前の段階で足踏みをしてる、って悲しいよね。

 火原先輩は、口を尖らせて何度も頷いている。

「わかるよ〜。オケでも、演奏日によっては、ガクッと客足が鈍るとき、ってあるから」
「そうなんですか?」
「なるべく多くの人に聴いて欲しいから、おれたちもリサーチはするんだよ?
 オケ部の発表会のスケジュールはね、この日なら、大きなイベントもコンサートもない、なんてところから決めるんだ。
 だけど、決めた後で、どーんと有名な楽団が来日、なんていうとアウトだね」
「そう、ですよね……」
「だけどさ。いつもおれ、言うんだ。『おれたちはおれたちらしい演奏をすればいいよね』って」

 オケの話をする火原先輩は、いつもの火原先輩と別人だ。
 目が熱っぽく光り始めて。頬がキラキラしている。
 私は、初めて出会った人のようにぼんやりと火原先輩を見つめ続けた。

「おれさ、今度は彩華系の曲がいいな、って思ってるんだ。ドナウなんてどう?」
「あ、はい。『美しき青きドナウ』ですよね。一応選曲には入ってます」
「ねえ、香穂ちゃん、知ってる? この曲、って第一次世界大戦の後に書かれた曲なんだ。
 明るく、元気がいい、ワルツ形式の楽曲でさ」
「はい」
「きっと、戦争に負けて落ち込んでいるみんなを元気づけた曲だと思うんだよね」

 私は楽譜に目を落とす。
 頭の中で再生される旋律は、確かに明るい。なんだか希望に満ちた華やかさがあるような気がする。

「こういうときは自分たちで盛り上げる曲にしないとね。ぱーっと明るく、さ?」
「はい……。ありがとうございます。教えてくださって」

 そうだ。まず、しっかり曲を決めよう。

 聴きにきてくれない人の数を数えるより、それより、来てくれた人が、せめて楽しかった、って思えるような曲を奏でて。
 そして、せめて、来てくれた人が帰らない曲にしよう。
 私にできることって、それくらいしかないもん。

 じゃあ、早速練習あるのみ、かな。
 私は、ベンチから立ち上がると森の広場の一番奥に目をやる。
 ひょうたん池のさらに奥、茂みに隠れたその場所は、寒くなるこの季節はほとんど人がいなくなる。
 うん。あそこなら、多少音程を崩しちゃっても、恥ずかしくない、かも。

「あ。えーっと、火原先輩は、これからどこへ?」
「え? うん。おれはちょっとね」
「はい……?」

 歯切れの悪い口調を不思議に思っていると、火原先輩は頭に手を当ててため息をついている。

「進路指導。この前、5分で進路調査票を出したら、ダメ出しされてるんだ」
「5分、ですか」

 えっと、5分、ってさすがに短いかも。
 まだ2年生の私たちだって、夏の進路指導票を出したあとの話し合いは、1人15分ずつ組まれてた。
 それを、5分……?

 笑っていいのか、一緒に悩んでいいのかわからない。
 そんな私の顔を見て、火原先輩はくすりと口元を緩めた。

「まださ、おれ、ずっとこのままでいたいんだよ。ずっとこうして好きな仲間と一緒に音楽をやっていたい。
 モラトリアム、な時期なのかもね。
 まったく、宇野っちったら、金やんまで味方に付けて、ズルいんだよ」

 宇野っちっていうのは、3年音楽科の進路指導の先生だ。
 そう言えば、この前、金澤先生ともう1人の先生、それに火原先輩が3人でなにかお話してるのを、
 音楽室で見かけたこと、あったっけ……。
 火原先輩の子どものような口ぶりに思わず吹き出す。

 すると目の前の先輩も、弾けるような笑顔になった。



「……笑ってた方がいいよ。香穂ちゃんは」
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