*...*...* Donau 2 *...*...*
「あー。なにか違うな。しっくりこない」

 壁に掛かったいかめしい時計が、3時15分を指したとき。
 ドナウの第二楽章。入りの直前で、火原が頭上にタイムアウトの合図を作る。
 志水くん、冬海さんは、キリのいいフレーズまで奏でたあと、ゆっくりと指を止めた。
 肌寒さを感じるようなこんな季節は、空調の効いた講堂は練習にふさわしい場だ。
 低く唸るように続く空調の音は、楽器が鳴り止んだとたん、大きく耳に響いてくる。

「あ、あれ? 間違い、ありましたか?」

 気付いていないのはこいつだけ、ということなのだろう。
 日野は不思議そうに火原と俺を見上げた。
 俺はフルートのために溜めていた息を、そっと胸から吐き出した。
 やれやれ。……長丁場になる、って感じだな。

 火原は近くにあった椅子を引っ張り出して座ると、トランペットを脇に置いて、俺の顔を覗き込む。

「なんかさ、柚木、わかってるでしょ? おれと柚木のイメージが違いすぎてるよね。
 柚木はさ、ドナウをどんな感じに演奏したいと思ってる?」
「そうだね……。この曲はワルツだし。オーストリアでは、第二の国歌とまで言われる伝統ある曲だ。
 僕は、『優雅に、格調高く』そんなふうに演奏したいと思うよ」

 志水と冬海さんは、俺の意見に同調するかのように深く頷いている。
 だけど日野は、納得がいかないのだろう。
 考え込むようなそぶりを見せて、楽譜を最初のページに戻している。

 火原は、ひらめいた、とでも言いたげな誇らしげな顔を向けて笑った。

「やっぱりそうか。それも、すごく柚木らしいと思うんだけど。
 この曲って戦争の後に書かれたにしちゃ、明るいメロディじゃない?」
「はい。1866年の普墺戦争の後に、ウィーンのみんなを励まそうという主旨の元で出来た曲ですね」

 志水が合いの手を入れる。それに勢いを得たように、火原は声を高くした。

「そうそう。きっとどんよりしてる街の人を元気づけようとした曲だと思うんだよね。
 だから、おれはぱーっと演奏したいんだ。もっと、『明るく元気よく』ね!」
「なるほど……」

 いかにも火原らしい、か。
 3年も付き合ってきたんだ。親友の曲想に、とやかく言う気はないが。
 どうにも不愉快な思いが俺の中に蠢いているのを感じる。

 俺が面白くないわけ。それは……。
 ── 俺の知らないうちに、日野までもあっさり火原の曲想に飲まれているのを見ること、だ。

 俺は、内側の感情を押し隠して笑顔を作った。

「困ったね。これほど解釈が違っていては、今、合わせるのは難しいんじゃないかな」
「了解。わかったよ」

 今度のコンサートで、火原が予定している乗り番は、この1曲だけ。
 だけど、親友の脳裏にはもうすでに新しい曲の練習が思い浮かんでいるのだろう。
 軽い調子で相槌を打つと、トランペットを手に立ち上がった。

「お互い宿題にして考えてこよう?」
*...*...*
 俺は1人屋上に足を伸ばすと、眼下に広がる正門前の様子に目をやった。

 日暮れが早いこの季節。
 普通科と音楽科の制服が交わる場と言えば、この正門前と、購買で。
 ゆらりと散って、門に吸い込まれていく様子は、不思議と俺の気持ちを慰めていく。

 元々、日野の曲想は、清麗系のさわやかさが持ち味だ。
 個性がないのが個性、とも言える。
 ソロでは、はっきりとした印象を持たないことが減点につながることもあるが、
 アンサンブルでは、誰とでも合わせることができる音色というのは、むしろあいつの長所とも呼べるだろう。

 ドナウについてのアンサンブル練習は今日が初めてだったが、日野は火原との2人練習を繰り返していたのだろう。
 何色にも染まることができるあいつは、従順に火原の色に染まった、ということか。

 そういえば、昨日も一昨日も。

『よかったら一緒に練習してくれませんか?』

 という日野からの誘いも断って、図書館で受験勉強をしていたのが、裏目に出たというワケ、か。

「まったく……。なんて言うんだろうね」

 俺は強くなってきた風に抗うかのように顔をまっすぐ前に向けた。
 長くなった髪が、肩の後ろに流れていく。

 俺の色に染まる日野を見るのは、心地良いのに。
 親友の影響を受ける日野を見るのは、楽しくない。むしろ、不快だ。

 いや、親友だけじゃない。
 頭ではわかっていながら、あいつが、月森や土浦の影響を受けていても。
 そしてそれがやむを得ないことだとわかっていても、面白くない。

「柚木先輩! やっと見つけた」

 突然ドアが鈍い音を立てて、細いすき間を見せる。
 と思ったら、今、俺が思い描いていたあいつがひょっこり顔を覗かせている。
 さっき別れてから5分も経っていない。
 真っ先に俺を探しに来てくれたのか、と気持ちの底が熱くなる。
 それを押し隠して、俺は素っ気ない口調で日野を迎えた。

「なんだ。お前か」
「はい! 今日もお願いにきました。あの……。一緒に練習、してくれませんか?」
「ドナウ?」
「はい。私、ずっと火原先輩の解釈が正しい、って思って弾いてきたんです。
 だけど、あれから志水くんとも話をして。意見の違いのすりあわせ、というのが大事だ、って……。
 私、1つの曲を演奏するのに、そんな何通りもの解釈がある、ってわかっているようでわかってなかったんです。
 1度、しっかり柚木先輩の解釈も聴いてみたいです。よろしくお願いします」

 日野は律儀に頭を下げている。
 どれだけ親しくなっても、日野は、先輩後輩のラインを崩さない。
 まっすぐ俺をおってくる姿が可愛らしく思えて、俺は日野の方に身体を向けた。

「じゃあ、せっかくだから一緒に演奏するか? お前との解釈の違いがよくわかるはずだ」
「はい!」
「すぐ、準備はできる? ── いい? いくよ?」

 弾むような軽い旋律が続く、ヴァイオリン。
 その後に、俺のやや重みを増したフルートが空中に広がる。

 奏でながら、節々に感じる。── やっぱり、か。

 多少、思うところがあったのか。
 それとも、俺のフルートに染まるように変わっていく音色のせいか、日野の音はさっきよりも、優美さを増している。

 だが、端々に残る音は、どこか愛らしく、これは、俺でもない、火原でもない、日野本人の性質が表れていると言ってもいいだろう。
 冷え込みを増した屋上で、フルートとヴァイオリンは余韻を競い合うようにして消えていく。

 弾き終えたあと、日野はまっすぐに俺を見上げると、俺が口を開くのを待っている。

「ああ。今のはとてもお前らしい演奏だったな」
「はい……。『お前らしい』ですか?」
「ま、素朴というか、単純というか。とても俺には真似できない」

 火原はもっと言葉豊かにこいつのことを褒めちぎっていたのだろう。
 日野は困ったような顔をして、俺の口元を見ている。

 どうしてだろう。こいつには笑った顔が似合うと思うのに。
 眉根を寄せて、困ったような不安そうな顔で見上げてくる様子に、気持ちが疼くときがある。
 俺は思わず吹き出すと一歩日野の近くへ寄った。

「……なに困った顔してるの? お褒めにあずかり光栄、だろ?」
「光栄、って思ってもいいんですか? 褒められてる、って感じがしなかったです……」
「俺は純粋に賛辞を述べたつもりだけど。ほら、こっちへおいで」

 日野の指先が真っ赤に色づいているのを見て、俺は風の当たらない壁際へと日野を引っ張った。
 それともこうして共にアンサンブルで同じ音を作るようになったからだろうか。
 日野は俺に触れられることに特に抵抗は感じていないらしい。
 言われるがままに壁際に寄ると、澄んだ目で俺を見上げてくる。

「お前の気質じゃなきゃ弾けない音楽というものがあるんだろう?
 人はそれを『個性』と呼んだり、『特質』と言ったりもする」
「はい」
「火原もまた……。いや、アンサンブルの話だが、火原のいう解釈に合わせようと思う」

 ゆっくりとそう告げると、日野の顔がふっと和らいでいくのがわかった。

「優雅で格調ある演奏を求めても良いが、お前たちにはハードルが高いだろうしな」
「ハ、ハードル、ですか? あと5日でなんとかします! って私には言えないけど、
 火原先輩や冬海ちゃん、志水くんならそれもできるような気がします!」
「おや? 一人前に『ハードル』って言葉が気に障ったの? もちろんそれだけじゃないさ」

 俺はさっき火原が作っていた旋律を口ずさんだ。
 『文は人なり』という言葉があるが、火原を見ていると、『音は人なり』という言葉を贈りたくなる。
 それくらい、親友の音は屈託なく、いつも底抜けに明るい。

 家での葛藤。祖父母と両親とのやりとり。進路。
 そんなことで沈みがちだった俺が、学院に来て、火原の音を聴くことで、今までどれだけ救われてきたか。
 誰に言われるまでもなく、俺自身が1番良く知っていることだったのに。

「これでも俺は火原の美徳を高く評価しているんだよ。
 明るく楽しそうに演奏しない火原なんて、火原じゃない。そう思わないか?
 ……だけど。だからと言ってすべて火原におもねる必要はないんだよ?」

 しかし、これだけはクギを刺しておこう、と俺は日野の指を見つめた。
 流れていく視線の先を不思議に思ったのだろう。
 日野は自分の手を持ち上げると、それを眺め、また改めて俺を見る。

 自分の気持ちを冷静に分析することでわかることがある。
 ドナウの作る旋律が不愉快だった理由。
 1つは、火原とのイメージがあまりにかけ離れていたこと。
 それ以外にもう1つ。
 日野の音があまりに火原に似通ってきていたことが不満だったんだ。

 すぐ近くに日野の髪がある。
 雅にするときのように、さりげなく手を伸ばそうとして止める。
 ── 触れたい、と思う気持ちと一緒に。

「アンサンブルは、お互いの特性を持ち寄って、より良い音楽にする形態だ。
 お前も、お前にしか出せない音がある。それを大事にしろって言ってるの」
「はい……」



「わからない? 火原に染まってばかりじゃダメだってこと。── 俺が面白くないから」