*...*...* Donau 3 *...*...*
「うーー。ごめんね、2人とも。3年のおれたちがこんな風に言ってたら困っちゃうよね」ドナウのアンサンブルが、柚木とギクシャクしたまま、モノ分かれに終わったあと。
香穂ちゃんは、おれたちに一礼をするとあわてて柚木のあとを追いかけていって。
おれは、おろおろとしている冬海ちゃんと、まったく動じている様子のない志水くんに頭を下げた。
どんな理由であれ、上級生のおれたちが、せっかく集まってきてくれた後輩の時間をムダにする権利はないもんね。
「そんな……。あ、あの、オケ部でもたまにこういうの、ありますよね?」
冬海ちゃんは、何度もかぶりを振ると、おれを必死にフォローしてくれる。
目が合っても、恥ずかしがることなくしっかりと自分の意見をいう冬海ちゃん、って、
春の頃から考えると、まるで別人みたいにしっかりしてきてる、って思う。
あともう少ししたら、新一年生がやってきて冬海ちゃんも先輩になるんだよな。
「……いいことだと思います」
「え? 志水くん?」
「こうすることで、より深い音楽が生まれると思うから。僕はもう少し練習をつづけます。
先輩たちの方向性が決まったら、また声、かけてください」
「了解! おれ、ちょっと香穂ちゃんと柚木、探してくる」
おれはトランペットもそのままに、柚木と香穂ちゃんの背中を追いかける。
「あれ? どこ行ったんだろ? そんなに遠くへは行ってないと思うんだけどな」
ほんの5分の差が、どれだけ大きく広がったのか。
カフェテリア。練習室。音楽室。
思いつくところをくるっと一周して、おれは2人を見つけることができないまま。
置きっぱなしのトランペットが気になって、さっきいた講堂へ戻った。
音を作るおれの身体、も、他のモノと置き換えることはできないけれど。
おれの手に馴染んでいるトランペットも、他のヤツじゃ、ダメだから。
「香穂ちゃんと柚木、どこ行っちゃったんだろうね」
置きっぱなしのトランペットに独り言を言うと、彼は恨めしげにおれを睨んでくる。
とりあえず、柚木の言ってたこと、もう一度、自分の中で砕いてみよう。
香穂ちゃんの音も思い出しながら。
そしたら、さっきおれが見えなかったところも見えてくるかも。
そう思って顔を上げたとき、香穂ちゃんが講堂に飛び込んでくるのが見えた。
「香穂ちゃん! 練習、もう一度やってみない? 今から! すぐ!」
「あ、火原先輩! えっと、今から、ですか?」
「うん! そう!」
おれは有無を言わせない勢いで香穂ちゃんを2人練習に誘って。
香穂ちゃんがヴァイオリンを肩に載せる時間ももどかしいような気持ちで、香穂ちゃんの作る音に耳を澄ませる。
そして、おれと香穂ちゃん、2人の音と、それに今はいない柚木の音を頭の中でチューニングする。
── あ、なんか、これ、って。
「あ、そっか。だからかも……」
「はい? なんですか? 火原先輩」
肩からヴァイオリンを降ろす香穂ちゃんを見ながら、おれは浮かんだ感情をまとめる前に香穂ちゃんに話しかけた。
香穂ちゃんは聞き上手なんだろう。
いつもゆったりと話す人の顔を見る。
余計な口を挟まないで、おれが話すのを見守ってくれてる。そんな感じ。
女の子って言ったら、今までのおれはにぎやかすぎるほどにぎやかなクラスメイトたちを思い出すんだけど、
香穂ちゃんとクラスメイトって、話す言葉数が全然違う。
ふんわりとしてて、優しい。
── そう。もっともっと話したくなるんだ。
「ねえ、日野ちゃん、おれたちのアンサンブルだけどさ」
不安そうに頷く香穂ちゃんにおれも頷き返す。
優しいこの子なら、きっと、おれと柚木の関係を心配してると思うんだよね。
「おれ、柚木にも楽しく演奏して欲しい、って思うんだ。
仲いい相手と組めるのって嬉しいことなんだから、思い切り明るく演奏したい。
聞いてる相手も楽しくなっちゃうくらいさ」
「はい。火原先輩らしい、って思います」
「だけどさ、柚木はそうじゃないでしょ?
柚木の演奏スタイルは、もちろんおれもわかってるんだけど……」
「はい……」
柚木の曲調は、一言で言えば、とにかく優雅だ。
聴いている人間が、良い気分になれる、っていえばいいのかな。
自分は特別な人間なんじゃないか、って勘違いしたくなるような、神々しさがある。
って、あいつ、本当に高校で音楽を辞めるのかな?
あんな才能、欲しいって思ったって手に入るモノじゃないのに。
あー、っと……。とにかく、おれとは違うカラーを持っているのは事実で。
音楽は、数学みたいに、これは正解、これは間違ってる、なんて2つに分けられるモノじゃない。
演奏する人間の数だけ、演奏スタイルはあって。
どれが正しい、どれが間違ってる、っていうモノじゃない。
それに、今度のアンサンブルの目的は、リリを元気づけるためのもの。
演奏者が思いきり楽しんだって、バチは当たらない。
ううん、むしろ、柚木が思いきり楽しんでくれた方がリリも喜ぶだろう。
── だけど。
肝心なのは、そのスタイルで柚木がオッケーを出してくれるかどうか、ってことなんだ。
多分、……難しいよな。
「はーーー。無理かな」
言葉よりまず、ため息が出る。
つきあい長い、ってこういうとき不便だ。
言い出す前から、親友がどんな顔してどんな口調で、しかも告げる内容まで想像がついてしまうんだから。
「たまには柚木だって、ぱっと ハジけた音楽で一緒に楽しんでもいいよねえ?」
「はい。あ、あの、さっき柚木先輩も同じこと、言ってました」
「え? ホント?」
「はい! 私、それを伝えたくて! だけど、伝えようって思ったら、合奏が始まっちゃって」
香穂ちゃんは胸につかえてた重石が取れたんだろう。
とびきりの笑顔で何度も頷いてる。
「やった! 嬉しいな! よしもう一度柚木と話さないと」
「良かったです……。私」
「私、火原先輩と柚木先輩が好きです」
「香穂ちゃん?」
お、落ち着け、自分。心臓。えっと、でも、でも、この香穂ちゃんの『好き』って……?
え、っと、でも、待て。おれ、と、柚木、2人、が好きって、えーっと、どういう意味なんだ?
「2人が仲良く話してるのを見るのが、好きです」
「……なんだ。そっか。そうだよね」
「火原先輩?」
「いいよいいよ。香穂ちゃんはなにも気にしないで。── 一瞬、どきっとしたけどね」
「はい……?」
音楽に関しては鋭い指摘を返してくれる香穂ちゃん。
だけど、自分に向かってくる好意には疎いのかな。
それともおれは、香穂ちゃんの恋愛対象外。ただの気の良い先輩。それだけのポジションなんだろう。
だけど、このポジションはおれにとってはとても大切で。
今は、このふわりとした温かい関係で遊んでいられたらなんて思ってしまう。
「ね? 柚木を探しに行こうよ」
*...*...*
おれは香穂ちゃんを引き連れて、柚木を探しに走り出した。11月。秋まっさかり。
だけど、昼バスをしたときは着替えを持ってこれば良かった、って思うほど上天気だったから、
柚木が室内にいるとは限らない。
「ねえ、柚木、どこにいると思う?」
「どこでしょうね。さっきは屋上でお話したんですけど。柚木先輩って神出鬼没だから」
「そうだよね〜。ひょい、と思いがけないところにいたりするんだよね、あいつ」
「あ! 観戦スペースにはいないような気がします」
「あはは。かもね」
「携帯に連絡してみます?」
「うーん。大事なことだから、おれ、柚木の顔見て話したい」
すらりとスタイルが良くて、おれと同じくらい足も長い、って思うのに、
やっぱり歩幅、ストライドはおれの方が長いんだろう。
香穂ちゃんはおれの後をちょこちょこと小走りで着いてくる。
その様子が可愛くて、おれは走るのを止めて香穂ちゃんの隣りに並んだ。
携帯って便利だと思う。顔文字なんかふんだんに使ってるメールを見ると、
おれもそれに負けないぞ、とばかりに変わった画像なんかをダウンロードして、
もっと面白くて賑やかなメールを返そう、なんて気合いを入れる。そんなところは楽しいって思う。
だけど。
メールじゃダメ。電話でも足りない。
ちゃんと顔見て。そいつの表情を見ながら、自分の気持ちを告げたい、って思うこともある。
今が、そのときなんじゃないかな、って。
2年半も一緒にやってきた柚木と、こんなささやかなことで、わだかまりなんて残したくない。
屋上に森の広場。その間に正門前。それに音楽室。
どれだけ探しても柚木の姿はなかった。
もしかして、もう家に帰っちゃったのかなと思ったけど、その可能性を否定して、おれはさらにあちこちに目をやった。
こういうとき、上靴っていう存在がない学院って不便だよな、と独り言が飛び出す。
靴箱を見れば分かる、ってわかりやすい存在があれば、今起こってることは少しは簡単になるのに。
「……あ。見つけました。ほら、あそこに」
「え? どこ?」
2回目に行った、講堂の最奥。香穂ちゃんの指差す先にはピアノ。
ぱっと見た感じでは、影になってしまうその場所に、柚木はいた。
文化祭が近いから、みんな、それぞれの教室に引きこもって、いろんな準備に忙しいのかな。
珍しく周囲は閑散としている。
小さな旋律が流れている。耳をそばだててみると、それは、ドナウのフルートパートだった。
「話しかけていいんでしょうか……?」
「香穂ちゃんってば、なに言ってるの。おーい! 柚木!!」
おれは周囲に人がいないことをいいことに、大声を上げて手を振った。
柚木は、一瞬指を止めたものの、再び音楽を作り出す。
「あ、あれ? 柚木、これって……?」
いつもの柚木とは違う、明るい、楽しい音が生まれてる。
「行こう、香穂ちゃん」
「はい」
息を切らして舞台に辿りつく。
柚木はそんなおれをいつもみたいに笑って受け止めると、静かな口調で告げた。
「いいぜ。なにも言わなくても分かってる。『明るく、楽しく』。基本的にその方向で曲を仕上げよう?」
「わかった! ありがとう、柚木」
「本当に、お前はそれでいいの?」
「もちろん! 柚木がいいって言ってくれるなら、おれ、大歓迎だよ」
「そう」
背後で香穂ちゃんの『……良かった』という小さな声が聞こえる。
「ただ……。演奏にはどうしても気質が反映されてしまうものだからね。
火原が望むような表現は僕にはできないかもしれない」
「うーん。難しいね。おれと柚木じゃ演奏のスタイル違うものね」
「それで考えたんだ。全面に楽しさを押し出すというよりはもっと抑えて……。
そうだな、弾むような楽しさを感じさせるくらいの表現でどうかな?」
こんな感じで、と、柚木の指は、ややVivace寄りの音を作った。
鍵盤に走る長い指は、普段見慣れているおれが見ても、緻密な計算の上に作られた1つの芸術品のように見えた。
「火原?」
「あ、うん。ちゃんと聞いてる」
「ちょっとよそゆきにはなるけれど、その方がそれぞれの個性を生かせるでしょう?」
「うん! おれたちにしかできない演奏だよね!」
香穂ちゃんは、おれと柚木の一歩後ろにいて、おれたち2人を見つめている。
おれは香穂ちゃんの背を押すと、おれたちの輪の中に入れた。
「これも香穂ちゃんのおかげ、だよね? 頑張ってくれたんでしょう? どうもありがとう」
「いえ、私、なにもしてないです!」
おれは2人の顔を見つめる。
おれってもしかしたら、誰よりも幸せな人間かも。
こんなに好きな仲間に出会えて。一緒の時間を過ごして。
そして、同じ旋律を響かせるだから。
「ねえ。文化祭、頑張ろうね!!」