秋が来ることなんて、私、今まで年の数だけ経験しているはず。
秋は私の誕生日もあって、思い入れだってある、大好きな季節。
だから私、この季節を特に淋しい、なんて思ったこと、なかったのに。
月森くんの白くなった頬。
志水くんの髪が、冷たい風にあおられてふわりと浮き上がる瞬間。
毎日一緒に作っている音楽が、少しずつ上達していくと思うとき。
時間が、確実に私たちの上を通り過ぎていくんだ、って身体が知ると、
不思議だけど、私の中に1枚の写真が浮かび上がる。
子どもの頃、海水浴に行った時に撮った写真。
私は、初めて連れて行ってもらった目の前の海に目もくれず、近くの公園の砂場にいくらでもある砂でずっと遊んでいたらしい。
懸命に山を作って、壁面に貝殻を貼る。
トンネルを掘り、その中にバケツにくんできた海水を丁寧に流す。
『なんだかあなたらしいなあ、って思っちゃって』
お母さんは苦笑を交えながら、シャッターを押したらしい。
写真の中、私の右手はグーの形になって、懸命に砂を握っている。
5本の指。その間の4つのすき間から、とどまることなく砂がこぼれ続けている。
*...*...* Photo 1 *...*...*
『個人個人の練習あるのみ、だと思います』冬海ちゃんの声が何度もリフレインする。
文化祭まであと4日、となった今日。
私は、授業終了のベルが鳴るのを背中で聞きながら、ヴァイオリンを一緒に慌てて屋上へと向かった。
放課後。最初の練習は、1人練習。
これは私が決めたルールだった。
運動で言えば、ウォーミングアップになるのかな。
音楽科のみんなは、朝からの6時間の授業で、準備は万全だと思う。
だけど、私は、朝から1度もヴァイオリンに触れてない日もある。
ううん。もっと言えば、昨日の放課後から、1度もヴァイオリンケースを開いてない日もあるくらいなんだもの。
『たった1日、ピアノに触れなかっただけで、指の感覚が狂うんだよな』
練習時間がなかなか取れなくて、と言った私に、土浦くんは『わかる』と言わんばかりに何度も頷いてくれたっけ。
同じ普通科って言ったって、私と土浦くんとでは、今までの練習量が違う。
練習量って、目には見えない。
もしも、アルジェントがリリのような大らかなコではなくて、計算力に秀でてるポリムだったとしたら。
コンクールが始まってからじゃない。
『生まれてから音楽に携わってきた時間の視覚化を』
なんて言って、1時間の練習につき1cmの高さの積み木を積み上げていそうな気がする。
月森くんと志水くんは、もう富士山くらいの高さの積み木を。
そして私は、正門前のファータの銅像くらいの高さの積み木を積んでいるんだろうな……。
せ、せめて、一緒に練習をしてくれるみんなに、練習不足、って思われないだけの練習、しなくちゃ。
勢いよく屋上のドアを開けると、寒そうな空色の下、つまらなさそうに風見鶏がクルクルと回っている。
「やった。今日も一番乗りかな?」
他の人に聴いてもらうのが申し訳ないと思うような、音色の時は、自分1人しかいない場所がいい。
私はいそいそとケースを開けると、調弦に続いて、弓の調子を見る。
演奏前の用意だけは、春の頃よりちょっとはスムーズになったかもしれない。
「よし。今日は、モルダウにしようっと」
昨日はドナウばかり弾いていたから、気分をかえてみよう。
華やかな音楽もいいけど、なんだか今日はしんみりした音が聴きたくなるんだよね。
(うーん。やっぱり……)
さらりと1小節を弾いてみてすぐ、わかる。
左手小指の動きが悪い。
男の人と女の人の音の違いは、小指に現れる、ってこの前月森くんが言っていたのを思い出す。
ん……。一言で言えば、覇気がない、って感じ。
もっとしっかり押さえないといけないのに。
ウォーミングアップも兼ねて、いったん相棒を肩から降ろし、左手を握ったり開いたりする。
記憶の隅っこにある写真を思い出したからかな。
見えない砂が私の手の平からこぼれ落ちている気がした。
*...*...*
「香穂ちゃん!」「わ! び、びっくりしました! 火原、先輩?」
突然背後から呼ばれて振り向くと、そこには火原先輩が立っている。
どうやら、風見鶏の奥、パッと見ただけではわからない、階段を上った1番奥の場所にいたみたい。
いつも手にしている火原先輩の相棒は見当たらない。
その代わりに、彼の手の平には、可愛いサイズのデジカメがちょこんと乗っていた。
「デジカメ、ですか?」
「うん。おれね、今、学校のいろんな場所撮ってるんだ。今のうちに写真をいっぱい撮っておこうって思って」
こういうとき……。そう、音楽以外の話のときって、火原先輩はすごく可愛い人だ、って思ってしまう。
弟、って私にはいないけど、こんな感じなのかな、なんて。
「はい……。今日は屋上の日、ですか?」
「うん! あ、でも屋上、っていうか、屋上はもうこの前撮っちゃったんだ。今日は屋上から見える正門が撮りたくて」
「わかります。とっても綺麗ですよね」
私が頷くと、火原先輩は飛び上がらんばかりにして何度も頷いている。
「うん! 星奏ってすごくいい学校だよねー。校舎もキレイだし。遊ぶ場所も自然も多いし」
私も火原先輩に釣られるようにして、彼の指さしている方向に目をやった。
日暮れが早まってきてるのだろう。
3時を過ぎたばかりなのに、太陽はもう、てっぺんを通り過ぎて、長い影を作っている。
地平線。きらきら光るオレンジの波は、陸と海との境界の色。
同じ色がすぐ横の先輩の頬にも乗っている。
── 私の中で、また少し、砂がこぼれていく。
そう。こんな感じなんだ。
今がとても大切で。かけがえがなくて。大好きで。
このままでいたい、って思って。でもこのままでいられないこともわかってて。
痛みのような気持ちを、自分ではどうすることもできなくて。
「ねえ、香穂ちゃん。相談なんだけどさ」
改まった声に、はっと顔を上げると、そこには、今まで見たこともないような真剣な目をした先輩が立っていた。
「あ、あの、なんでしょう?」
「ね……。よかったら1枚練習風景、撮らせてくれない?」
「え? あ、あの、私でいいんですか?」
「なに言ってるの。もちろんだよ!」
火原先輩はそう言って、私のすぐ足元でしゃがみ込んだ。
わわ、そんな、近く?
そういえば昼休みの時、須弥ちゃんが食べかけのチョコレートを半分私の口に入れながら言ってたことを思い出す。
『目が赤いよ?』
って。
『あんた、かなりムリしてるんじゃないの? 今日は早めに休んだら』
乃亜ちゃんも心配そうに私の頬をつついてたっけ。
えーっと。あ! そうだ。
「で、できれば、あの、遠目でお願いします……」
「へ?」
私は理由も言わずに、今いる場所から2、3歩下がると、ヴァイオリンを構えた。
赤い目をした私の写真なんて、火原先輩に見せたくないもん。
録音、は、どんなコンサートのときも必ずやってる。
けど、それは、機械が自動的にやってくれるから、わざわざ、『今は録音中なんだ』なんて意識したこともなかった。
だけど、すぐそこで、カメラを覗き込んでいる火原先輩を見ると、どうしても緊張が止まらない。
「えっと、こうですか?」
弓を構えて固まっていると、火原先輩は構えていたカメラを降ろして、困った顔をしている。
「火原先輩……?」
あ、あれ? 私、なにか勘違いしてるのかな?
確か、練習風景を撮らせて、って火原先輩、言ってた、よね……?
「ねえ、香穂ちゃん。演奏つきでお願いしてもいい?」
「え? あ、はい!」
良くわからないけど、『練習風景』って言うからには、実際に音を作った方が良い写真が撮れるモノ、なのかな?
思えば、演奏中の写真って、意識して撮ってもらうのって初めてかもしれない。
えーっと。どの曲を弾こう?
できれば火原先輩の好きな曲……。
ちょっと簡単すぎるかな、と思わないでもなかったけど、私の指は勝手に『ガボット』を弾き始めていた。
火原先輩はハッとしたように、またファインダーを覗きこむ。
春のコンクールが始まったばかりのころ。
練習の方法もわからなくて。音楽が楽しいとも思えなくて、落ち込んでいたとき。
初めて火原先輩とこの曲を合奏したっけ……。
どうしてだろう。
それほど時間が経ったワケじゃないのに、ひどく昔のことのように感じる。
火原先輩は、最初はファインダー越し私の方をみていたはずなのに。
やがて、デジカメを下ろすと、目を閉じてじっとヴァイオリンの音に聴き入っている。
私は急いで演奏を終えると、先輩に一歩近づく。
「火原先輩? あの、大丈夫ですか?」
「綺麗な演奏だったよ。胸の奥が、きゅーって切なくなる感じ」
「はい……」
涙目になったのを気付かれたくなくて。
そして、少しだけ目の赤い火原先輩に気づかないふりをしたくて。
私は弦の調子を見るかのように、ヴァイオリンに顔を向けた。
「あ、香穂ちゃんの言ってたとおり、正門前もキレイだね。おれ、ちょっと写真撮ってくる!」
私に気遣うかのように、火原先輩は背中を向けると、ドアに向かって勢いよく走り始めた。