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「いろいろ考えちゃうなあ……」胸の中にある、まだ形になってない気持ち。
感動、とも違う。だけど、それに近い感情。
今、私が思い切り叫んだら、屋上はどんな声でいっぱいになるのだろう。
── 切なさにも似たこの気持ちを、上手く音に反映させられたらいいのに。
ふと周囲を見回すと、屋上は用務員さんが手入れをしたのか、早くもポインセチアの赤が溢れかえっている。
赤と緑、って互いを引き立てる、いい色だと思う。
冬に似合う花だよね、と思ってまた、時間の流れが止まらないことに泣きたくなる。
こんな調子じゃ視界が滲んで、暗譜はしていても細かい速度記号とかは読めないよ。
ベンチに座って、ぼんやりと雲の動きを見ていると。
今度は密やかにドアが開いて、そこからひょっこり柚木先輩が顔を出した。
「ああ、お前、いたのか」
「え? あ……、柚木先輩」
あわてて目をしばたたせると、私は柚木先輩を見上げた。
目からこぼれ落ちる前の、涙で良かった。
頬までするすると伝っていたら、こんな簡単に笑顔になれたかわからないもの。
柚木先輩は私の顔を見て、一瞬目つきを鋭くしたあと、ふっと小さく笑った。
「またお前は、俺の考えごとの邪魔をしにきたの?」
「え? ちょっと待ってください! 先に私がここにいたんですよ?」
「いいよ。どっちでも」
「は、はい?」
「……お前は、こうやって俺にいじめられていればいいの。
そうしたら、そのベソかいた顔も言い訳がつくぜ?」
私が、柚木先輩を繊細な人だ、と思うときは、こういうときだ。
痛みがわかる人なんだ、って思う。
わかる、ってことは、知ってる、ってことだ。知ってる、ってことは体験してる、ってことだ。
そして。
泣いている自分を隠す必要がない人が近くにいてくれるってことは、奇跡みたいなことだ。
「ちょうどいい。お前もなんだか練習って気分じゃないらしいし? 俺の話し相手になれよ」
柚木先輩はそう言って私の隣りに座ると、さっき火原先輩が見ていた方角に目をやった。
正門を照らしていた太陽は、今は夜に引っ張られるようにして、重く地平線に立ちこめている。
「……こうやって、この屋上から景色を眺めることも、あと何回あるんだろうな」
人の顔かたちが曖昧に見え始める時間を、『逢魔が時』っていう、と今日の古典でやっていたのを思い出す。
そんな中に見える柚木先輩の面輪は、明るいときのそれよりも ずっと臈長けて見えた。
「お前は意外に思うかもしれないが、もし俺にもかけがえのないものがあるとすれば、それはこの学校での生活だったよ。
ここでは、俺は、普通のお気楽な一高校生でいられたからね」
「えっと、十分普通じゃないと思います……」
黒塗りの車で毎日登校、ってことも。
ファンクラブが常駐してて、お茶出し当番がある、ってことも。
知れば知るほど、柚木先輩は、遠くの世界にいる人、って感じがする。
私の意見に耳を貸すことなく、柚木先輩は懐かしそうな目をして空を見上げている。
「まあな。だけど、家でつけている仮面を思うと、学校で演じる俺なんて、ぜんぜん大したことじゃない。
……けれど、それももうすぐ終わる。どんなに名残惜しくても時が止まるわけじゃないんだ」
柚木先輩は吐き捨てるように、言葉を繋いだ。
「── 失うとわかっているものを、いくら思ったところでどうにもならないよな」
「ちょっと待ってください!」
自嘲気味につぶやく言葉に納得がいかなくて、私は荒々しい勢いで立ち上がった。
こんなに賢い人なのに、どうしてこんな考えをするのかわからないときが良くあった。
なぜだろうと突き詰めていく、その先には必ず音楽の道があった。
そう……。
柚木先輩は、いつも、一歩距離を置いてるんだ。音楽から。
自分から、離れよう。切り捨てようとしてるんだもの。
「そんなこと、ないです! 思い出が残るし……」
春のコンサートのことを思い出す。
初めはリリなんて妖精が見える自分が信じられなかったし、音楽は今ほど私の近くにはなかった。
今、一緒にアンサンブルの練習をしているみんなも同じ。
私、土浦くん以外は顔も名前も知らない人たちばかりだった。
だけど今は違う。
月森くん。土浦くん。志水くんだって。冬海ちゃんだって。
それに、火原先輩、柚木先輩とも。
会えば、話をする。それもかなりつっこんだ話をする。
一緒にいる時間が長いから? 1つのことに一緒に取り組んでいるから? 理由はわからない。
そして、卒業して、大人になって。もしみんなとどこかですれ違ったら。
私はぜったい声をかけるし、みんなも、声をかけてくれる。そう信じてる。
だから、『失う』ワケじゃないし、『どうにもならない』ワケじゃない!
私がぼそぼそと言い返すのが楽しかったのか、柚木先輩はくすりと口元を緩めた。
「お前はどうしてそう無意味に前向きなんだろうね。本気でそう思えたら、さぞや気楽な人生だろうね」
「気楽、ですか?」
「そう。お気楽で結構なことだよ」
気付かないうちに私はふくれっ面をしていたのだろう。
柚木先輩は楽しそうに私の片頬をつまみ上げた。
「わ……。いひゃい、ですっ」
「ははっ。……ヘンな顔」
効果はない、とわかっていながらも、さらにふくれっ面を続けていると、するすると長い指が離れていった。
近すぎる距離が恥ずかしくて、下を向く。
するとさっきつまんでいなかった方の頬をつままれた。
「な、なにやってるんですか?」
「気分転換」
気分、転換……って。
クツクツと笑い続ける柚木先輩を見ていると、さっき一生懸命自分の気持ちを告げたことが少しだけクヤしくなる。
それに。
いくら、好き、って思っても。近づきたい、って思っても。
今の対応を見てる限り、柚木先輩が私と同じ気持ちを持ってくれる、とは到底思えない!
「お前には楽しませてもらったよ。じゃあ、俺は練習室の予約を取ってあるから」
そっと指を外したあと。
目の前の人はいつものすっきりとした笑顔を見せると、ドアの奥へと消えていった。
*...*...*
「うう。今日はあまり練習ができなかったような……」楽譜台をたたみ、ベンチの上に山積みになってあった楽譜を手にする。
ずっしりとした重みと比べて、今日の練習量はとても軽い。
文化祭での演奏まで、もうあまり時間がない。
感情が、とか、気持ちが、とか言ってる場合じゃないのに。
「よし。最後に1曲だけ!」
私は、1番上に置いてあった楽譜を譜面台に乗っけると、タイトルに目をやった。
モルダウだ。
もうあと4日。欲張って、選んだ3曲とも全部5人のアンサンブルにしたから、
明日からの時間はなるべくアンサンブル練習に当てたいもん。
弾き終えると、本当に周囲は薄暗くて、黒い音符は闇に消えた。
ため息と一緒に肩からヴァイオリンを外していると、今度は王崎先輩が屋上にやってきた。
「やあ。香穂ちゃん。こんな時間まで練習? 頑張ってるね」
「あ、王崎先輩、こんにちは」
曲が終わるまで、ドアの奥で待っててくれたのかな。
話しかけてきてくれるタイミングの良さは、この人は音楽をやってる人なんだ、ということを教えてくれる。
「香穂ちゃんって清麗系の爽やかな曲想が得意、って思ってたから、意外だね。今のモルダウは」
「あ、はい……。でもなんだろう。今日はそんな気分だった、です……」
「香穂ちゃん?」
「ヘンですよね。私、まだ卒業、ってワケじゃないのに」
誰も聴いていない、っていう安心から、私が閉じ込めていた感情は、出口を音に求めたらしい。
火原先輩。柚木先輩。
2人の先輩の背中を思い出す。
限りある日々。止まらない時間。
1年後、確実に先輩たちはこの学院にはいなくて。
私は、1人、この場所でヴァイオリンを弾いてるのかな。
そして、いない人たちの気配を感じて、泣くのかな。
ドナウ。モルダウ。
2つの旋律は、何年経っても、きっと私を高2の私に連れ戻す。
柚木先輩に、口ではエラそうに『思い出が残る』なんて言いながら。
実はその言葉に甘えたかったのは、私自身だ。
王崎先輩は私のまとまりのない話を根気強く聞いてくれたあと、懐かしそうな目をして自分の時のことを話してくれる。
「ああ。おれも同じだったよ。高3の秋はね。ピアノ科の女の子とよく合奏をしたり」
「そうなんですか」
「ああ。香穂ちゃんは知らないよね。都築さん、っていうんだけど。あまり高校には来ないからね」
王崎先輩は、1人うんうんと頷くと、暗くなった空を見上げた。
一等星よりもはるかに明るいんです、と昨日志水くんが教えてくれた、金星と木星が、西の空に輝いている。
その2つの星を受け止めるかのように、少し下には三日月が細い弧を描いている。
「ねえ。香穂ちゃん。今夜、おれから宿題を出していいかな?」
「はい! お願いします」
なんだろう。王崎先輩が宿題なんて出すのは珍しい。
ってことは、あれ? さっき王崎先輩に届いた音が、聴くのも辛いほどのレベルだった、ってことかな?
おそるおそる顔を上げると、王崎先輩は包み込むような微笑を浮かべている。
「今日は、練習が、とか、ヴァイオリンが、とか思わないで、ゆっくり寝ること。
いつかきっと、今のきみの中にある感情がちゃんと冷えて固まって、音に反映させられるときがくると思うよ」