*...*...* Ever 1 *...*...*
「おはようございます! 金澤先生」

 ちょっと肌寒いな、と感じる空の下。
 私は、ぱたぱたと白衣の裾が揺れている金澤先生に声をかけた。
 雲一つ無い青空は、また少しだけ高く、遠くなって。
 水色の空の下、ファータの銅像も、夏の頃より白く儚げな様子で空に手を突き上げている。

『秋になるとね、女はだんだんキレイになるのよ?』
『へ? そういうものなの?』
『夏の暑さで ふやけきってた肌が、少しずつ引き締まってくるからじゃない? 寂しくもなるし』
『えっと……。寂しくなるとキレイになるの?』
『ふふ。まだ香穂子には、この因果関係がわからないか』

 大急ぎで歯をみがく私の横、お姉ちゃんは念入りに化粧した顔に見入っている。
 『淋しい』と感じる先に『キレイになる』ことがあるとしたら、確かに私はまだ子どもなのだろう。
 楽譜を見て、練習して。みんなと音を合わせて、また練習。
 その間に食事と睡眠。
 1日があっという間で、一週間もあっという間。
 秋になったからって『淋しい』なんて感じたことがなかった。

「ああ、日野さんもこの時間に登校するんだ。おはよう」
「わ、おはようございます。柚木先輩」

 金澤先生のちょうど影に立っていた柚木先輩は一瞬笑顔を向けてくれたものの、またなにか考え込むかのように目を伏せている。
 金澤先生。柚木先輩。2人の間には、なんとなく重苦しい空気が広がっている。

 えっと、……。なにか、あったのかな?

「お、お前さん。ちょうどいいところに。火原を見なかったか?」

 口を開けば、いつも私に冗談を言って笑わせてくれる金澤先生も、珍しく真剣な声で尋ねてくる。
 駆けてきたときにはちょうど金澤先生の風で膨らんだ白衣に隠れてて見えなかった柚木先輩の髪が、
 存在を主張するかのように、ふわりと風をはらんで白い肩を撫でたあと、元の場所に収まった。

 私はあわてて周囲を見回した。
 お姉ちゃんの言ってたことに気を取られて、全然まわりを見てなかったかも。
 石畳の上を歩く学院の生徒たちは、のんびりと和やかに、2人、3人とまとまって校門を通り抜ける。
 それはいつもの見慣れた朝の始まりだった。

「火原先輩ですか? いえ……。見ていませんけど」
「そう。君も見ていないんだ」
「あの、火原先輩がなにか?」

 火原先輩は早起きが得意なのか、いつも7時30分前には学院に着いてて。
 森の広場までジョギングをしたり、顔見知りさんがいたら朝からバスケをしてたりする。
 右手首の文字盤を覗きこむ。
 8時5分前。この時間なら、いつもなら、火原先輩は絶対学院に いる時間。

「おはよう。香穂さん。金澤先生も、柚木さんも。みんな揃ってどうしたの?」
「あ、加地くん……。あ、あのね。みんな、火原先輩を探してるんだって」

 加地くんは軽い足取りで私たちに近づいてくると、にっこり笑って私の横に立った。

 どうしよう。
 ── いつもだったら、こんな風に不安になったりしないのに。

『ねえ、香穂ちゃん。一人前になるってどういうことだろ?』

 昨日、突然火原先輩からやってきたメールの文面が浮かんでくる。
 普段だったらにぎやかすぎるほど ちりばめられているハズの絵文字もなにもない、たった一文。

『難しいですよね……。一人前、って』

 どう返事をしていいのかわからなくて、全然答えになっていないような内容の返信をすると、
 その後、ビックリするほど早く、電話の呼び出し音が鳴った。
 せわしげに火原先輩の名前が点滅する画面は、火原先輩自身に思えて。
 慌ててボタンを押すと、小さな箱からは明るい声が飛び出してきた。

『ごめんね。あ、あはは、さっきのメール、ナシにしてくれる? なんでもないんだ。うん、ホントに』
『火原先輩……』
『こっちから電話したのにごめん。ちょっとおれ、走ってくるね』

 明日、また顔を見て話せばいいかな、って、私、電話もメールもしないで、そのままにしてた。
 やっぱりあのとき、かけ直せばよかったのかな。

 加地くんは、火原先輩、と聞いて、楽しげに顔を上げた。

「そうだ、驚いたよ。火原さんってCMに出てるんだね。
 今朝、テレビをつけたら火原さんがトランペットを吹いてて、一気に目が覚めたな」
「あ、私も聞いたよ? 『トランペットの少年』ってフレーズで。
 シルエットの火原先輩が映るの。素敵だったよね」

 力を込めて言うと、加地くんも、うんうんと何度も頷いてくれる。

 アンサンブルのメンバーは、誰一人知らなかったけれど。
 ちょうど火原先輩のメールのあと、天羽ちゃんから、『ビッグニュース到来!』っていう題名のメールをもらった。
 そこには、明日の朝火原先輩が出るCMのテレビ局の名前と時間が書かれていて。

『必見だよ〜! ああ、忙しくなりそう(≧▽≦)』

 という天羽ちゃんのメッセージと共に、

『このメールを見た人は今から10分以内に、10人の人に回すこと』

 なんていうチェーンメールのようなメッセージもついていて、思わず笑っちゃったっけ。
 私の知ってる人たちはとっくに知れ渡ってるよね、と、とそのままにしておいたけど、
 加地くんっていう人は、まっさきにこういう情報をゲットするんじゃないかな、って思ってしまう。

「朝の時間帯に流れたから見た人も多いみたいだね。周りも騒いでたよ。
 でもさ、香穂さん。気付いてた? 火原先輩のトランペットの音。あれって……」
「トランペットの、音?」
「ああ。そういえば加地くん。君のクラスメイトが、君のことを探していたみたいだけど?」

 私が首をかしげていると、柚木先輩は すっと加地くんの前に脚を進めた。
 気のせい、かな。私の頭の上で、2人の視線が、ぴりりと光った気がする。な、なんだろ……?

「あ、あの。柚木先輩? 加地くん?」

 2、3秒は見つめ合っていたのかな。
 加地くんはふっと目を伏せると、私の方に顔を向けた。

「うーん、僕の聞き間違いかもしれないな。ごめん、なんでもない」
「加地くん……」
「それで。当の本人の火原さんはどうしたの?」

 加地くんは金澤先生に視線を流すと、不思議そうに尋ねた。

「さっきまでそこにいたんだが逃げちまってな。ちゃんと戻ってくりゃいいんだが……」
「私、ちょっと探してきます!」
「……ああ、僕からもよろしく頼むよ」

 柚木先輩はなぜかほっとしたように頷く。

「あ。香穂さん。僕も一緒に行こうか?」
「ううん? ありがとう。私1人で行ってみるね」

 なんとなく、火原先輩の行き先はわかる気がする。
 そして。なんとなくだけど、私1人で行った方がいいような気がする。単なる予感だけど。
 加地くんって勘が鋭いんだと思う。ううん、空気を察するのがとても上手なんだ。
 あっさり自分の意見を取り下げると、私のヴァイオリンケースに手を伸ばす。

「そう。じゃあ気をつけて行ってきてね。……ああ、その前に」
「はい?」
「君の荷物、教室まで運んでおくよ。楽器を持って走り回って、君がケガでもしたら心配だから」
「え? えーっと、私がケガをしたら、じゃなくて、ヴァイオリンがケガをしたら、だよね?」

 月森くんのヴァイオリンのメンテナンスを見て思う。
 上手な人ほど、みんな自分の楽器を大切にしている、ってこと。
 月森くんほど上手になるのはムリかも、だけど、せめて楽器の扱い方くらいは、真似、したい。

「楽器の代わりなんてなんとでもなるでしょう? けれど、君の代わりはどこにもいないんだよ?」

 加地くんは不思議そうな顔をして、私の手の中の荷物を引っ張った。
*...*...*
 授業で教えてもらうモノじゃない。
 ましてや参考書に載ってるモノでもない。
 大人に近づくにつれ、自然と誰もが覚えていく、人の気持ちを推し量る、という行為。

 昨日の火原先輩のメール。
 今朝、CMを見て、耳をそばだてた。
 そしてさっきの、柚木先輩と、火原先輩のやりとり。

 どうして私、気が付かなかったんだろう。
 日頃、底抜けに明るい先輩の、おかしな行動。
 いろいろ立ち入ったら失礼かな、って入り込めなかった自分がクヤしい。

 昨日火原先輩と見た夕焼けの色がキレイだったから。
 たった、それだけの理由だったけど、自然と私の足は屋上へと向かった。

『泣きたいくらいキレイだったね。屋上からの景色』

 メールにもそう書いてあったもん。多分、あそこだ。

 ドアの重いのがもどかしくて、強引に引っ張ったら、鉄とコンクリートがケンカしたような鈍い音を立てた。
 火原先輩ははっとしたように、音が生まれた場所を振り返る。

「あ、香穂ちゃん。ど、どうしたの? こんなところまで」
「火原先輩を捜しにきたんです」
「あー。ごめん。柚木や金やんに会ったんでしょう?」
「はい……」
「おれ、金やんや柚木の質問に上手く答えることができなくてさ。それで、すっ飛んで来ちゃったから」

 柚木先輩の、質問? 金澤先生も、なにか気づいてたの? なんだろう。
 もしか、して……。

 続きを言うのが怖くて、私は黙って火原先輩の顔を見上げた。
 目の前の人の顔は、今まで見たこともないくらい、歪んでいる。
 なんだろう……。
 1番大切にしていた秘密基地。それをズルい人にメチャクチャにされた。
 そんな、痛そうな顔。

「あのさ。きみもCM見たよね。気づいた? それともきみにはわからなかった?」
「あ、あの! それは……っ」
「……CMに流れてるトランペット。あれはおれの演奏じゃないってこと。
 あれね、別の演奏家のプロの吹き替えなんだ」

 火原先輩は必死に言葉を繋ぐ。
 そうすることで、まるで自分の音楽を肯定するかのように。

「おれさ、もちろん、いやだって言ったんだよ! 映像はおれで、流れてくる音楽は別人の差し替えだなんて。
 あんなの、見てる人は誰だって、おれの演奏だ、って思うよね? そんな、人を騙すようなことは嫌だ、って!」
「火原先輩……」

 火原先輩が須弥ちゃんや乃亜ちゃんみたいに、私の気のおけない女友達だったらよかったのに。
 そうしたら、私、強引にでも火原先輩を抱きかかえて、話し続ける口を胸で塞ぐのに。

 でも私にできたことは、再び火原先輩が走り出して、今度は学院の外に飛び出していかないように、と、
 制服の袖口を握ることだけだった。

「でもね。CMの監督さんがおれの演奏は使えないって。
 きみはただの高校生でシロウトなんだから、そんな演奏、全国に流せない。
 ……そう言われて、なにも言えなくなって」

 きっと人一倍真っ直ぐなこの人は、たくさんの人からの賞賛も辛くて。
 開き直ることはプライドが許せなくて。それだけ、ううん。そこだけは譲れないほど、音楽を大切にしてて。

 火原先輩は、笑おうとして笑えなかった目元を隠そうと、手を動かして。
 そして、私の手がおもりのように繋がっているのを見て、悲しそうに笑った。

「今日正門通ったら、もうCMのことで もちきりでさ。
 おれ、一生懸命笑おうってしたんだ。でも上手く笑えなくて……。情けないよね」
「いえ、あの……っ。火原先輩の気持ち、当然だと思います!」
「香穂ちゃんは優しいよね。あー。だめだね。おれ。朝からきみに、こんなイヤな話して」
「待って。私、あの!」

 火原先輩は心のふたを閉めたみたいに、私がなにを言ってもただ笑ってる。

「火原先輩……」
「ほら、始業のベル鳴ってるよ? ホームルーム始まっちゃうね。
 こっから香穂ちゃんの教室は遠いからさ。行こうか!」



 無理に微笑もうとして、カサカサに乾いた唇が震えている。
 次々と飛び出してくる言葉より、火原先輩のその部位の方が遙かに雄弁に思えて、私はまた泣きたくなった。
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