授業開始のベルが鳴ると、待ちかまえていたように楽典の先生が滑り込んできた。
俺は、今朝からずっと抱え込んでいた違和感を胸に納めながら一人頷いた。
今朝、テレビから流れてきたトランペットの音。
朝、金澤先生に話題を振られたときの、火原の表情。
あたふたと逃げ出した後ろ姿。
曖昧な形を成していた想像は、具象的な確信へと変わる。
……やっぱり俺の予想通りだった、ってことか。
*...*...* Ever 2 *...*...*
『ねえ、お兄さま。あたし、クラスメイトに聞いたの。星奏の生徒が、今日から放映のCMに出てるって!』『おやおや。朝から にぎやかだね、雅』
『放映時間までバッチリ聞いてきたんだから。えっと、6時47分の、このチャンネルよ?』
いつもは朝はぎりぎりの時間まで自分の部屋に閉じこもっている雅が、珍しく早い時間に出てくると、ダイニングのテレビの電源を入れた。
食事の最中のテレビは御法度。
それを知っていてもなお こういう行動を取るということは よくよく関心があるのだろう。
『あ。これね? 紅茶のCMって。あ、あら? この人?』
雅が大きな目を見張る。
釣られるようにして目を移すと、画面の中では細身のシルエットがトランペットを抱えてファンファーレを吹き鳴らしている。
『ねえ! これ、火原さんよね? お兄さま!』
『……確かに、ね』
『なんだかすごく素敵ね。以前見た火原さんとは別人みたい』
他校の雅が知っていることなら、当然学院内ではウワサになっているはずだが。
最近はアンサンブルの練習と受験勉強が重なっていたからか、俺も、聞き漏らしていたのかも、な。
俺は、真剣にノートを取っている火原の横顔を見つめた。
画像は確かに、俺の知ってる親友だった。間違えようがない。
だけど、あのトランペットの音は、聴き間違いようがない。
火原とは違う、老成した、大げさな表現が耳触りな、音。
「あー。来週の授業は、音楽室で行うから、みんな、音楽理論2の教科書を持ってくるように。いいね?」
授業の間中、俺は注意深く火原を観察し続ける。
観察、という言い方を、人は冷たい性格に関連づけたがるが、そういう問題ではない。
人の気持ちなど、目には見えない。
だから目から受ける刺激の中で、気持ちを推し量るには、より深く観察するしか方法がない。
だがあいにく、午前中の授業は珍しく、実技以外の授業ばかりで、
火原はおとなしく、いや、見方を変えれば、生真面目に教科書を覗き込んでいた。
俺は今日の授業が既に俺の知識内の内容だと知って、昨日覚えた英単語を書き出していった。
[com]と[con]。この2つを接頭語とした受験英語は多い。
闇雲に記憶に辿るより、[com]は、『共に、一緒に』という意味に捉えて、単語を分解するといい。
文学も音楽も、作ったの人間だ。根底を理解すれば何事もたやすい、と思ったりもする。
のろのろと終業のチャイムが鳴ると、のんきそうな顔をしたクラスメイトが、火原の肩を叩いた。
「あー。やっと昼か〜。火原。お前、昼メシは?」
「え? あ、ああ! おれは予定通り、休み時間に食べちゃったよ」
「んなら、一緒に購買へ行こうぜ」
「えーっと、おれ……」
火原は曖昧な笑顔を作ると、勢いよく立ち上がった。
「あー。そうだ。おれ、超熟カレーパンどうしてもゲットしたいんだった! ちょっと先に行くね!」
「なんだよー。火原!」
俺は周囲に気づかれないようにため息をつくと、そっと親友の後を追いかけた。
案の定、火原は、購買には脚を向けず、まっすぐに、人通りの少ない森の広場まで脚を伸ばす。
そして ひょうたん池の前まで来ると、肩で息をついた。
さて、どうするか。
話しかけて、問い詰めて。朝の続きをするか。
それとも、放課後まで様子を見続けるか。
「わ、あれ、火原っちじゃない?」
「ラッキー。トランペットも持ってる??」
「行こうよ。それで、CMの曲、聴かせてもらおう?」
「うん!」
突然、黄色い声が飛んでくる、と思ったら、それは普通科の制服だった。
彼女たちは多勢に無勢といった感じで火原を取り囲むと、声高にCMの話を始めた。
*...*...*
朝。そして昼休みの疲れがどっと出たのだろう。昼からの授業も、火原はぼんやりとしたままだった。
今度こそ、一人になりたかったのだろう。
放課後のベルが鳴るなり、火原はトランペットを背中に背負い込むと、とぼとぼと教室を出て行く。
こういう日は家に帰るのが1番なのに、きっと文化祭のことも頭から離れないのだろう。
窓越しに見る火原は、またしてもまっすぐに森の広場へと向かっていく。
(やれやれ)
普通科の人間は昼にたっぷり相手をしたのだから。
もし俺なら、講堂や練習室など、普通科が滅多に寄りつかない場所へと行くだろうが。
耳の聡い音楽科が集まるところは、もっとイヤなのかも、な。
考えてみれば、今日1日、火原と話をしていない。
俺は彼の足取りを追うように教室を出た。
「ひっはら〜。よし。ようやく捕獲だぜ」
── 案の定。
森の広場の一番奥で、火原はまた普通科の生徒に掴まっている。
「あ! なんだー。長柄か。なんか用?」
「なんだよ。その愛想のない言い方。
ほら、なんて言うんだっけ? 普通科のヴァイオリン弾き。あの子に対して、みたいな反応してくれよ」
「は? か、香穂ちゃんのこと?」
「うしし。スマイルスマイル。で、聞いたぜ? 火原っち、CM出演おめでとう、ってことでさ。
なんだっけ、あのCMのトランペット曲、よい曲だよな。ちょっと吹いてみてくれよ。な、火原」
あの顔は見覚えがある。普通科で、よく火原とバスケットをしているやつ……。確か、長柄とか言った。
そいつは、屈託のない表情で火原に演奏をねだっている。
「え? おれ、いやだよ」
「別にいいだろ。な1曲。聞きたいんだ。聞いて、みんなに自慢したいんだ! な? な?」
「うーん……」
断るのも面倒だと思ったのだろう。
火原は手にしていたトランペットを勢いよく持ち上げると、わかりやすい一節を吹いて、すぐ唇から外した。
「やっぱりほんと上手いよな。おまえ。CM通りだぜ?」
「……だよな。気づかない、よな」
「え?」
「あ、ごめん。長柄。な、なんでもない!」
「よーっし。オレ、みんなに自慢してくるよ。火原のトランペット聴いてきたってさ。ホント、サンキュ!」
火原はげっそりと肩を落として、近くのベンチに腰掛ける。
周りに人影はない。
それに気を許したのか、乾いた唇が、独り言を言い始めた。
「……誰も気づかないんだな。おれのトランペットかどうかなんて」
「火原。大丈夫かい?」
俺は やつれきった親友に一歩近づいた。
「柚木! 今の……。大丈夫だって。なにが?」
「CMのことだよ。話題になってしまって。君には堪えるだろう」
「あ、ああ。そんなことないんだ。ただ……」
この期に及んでまだ、取り繕うとする親友が痛々しくて。
それにどういうわけか腹も立って。
俺はさらに質問を重ねた。
「ただ? どうだっていうの?」
「あー。お、おれの下手な演奏なんかで有名になっちゃって申し訳ないな、って」
「火原」
「そ、それだけ!」
「本当に?」
「う、うん! それだけだよ。なに? 柚木、疑ってるの?」
視線はあっちこっちと定まることを忘れて。右の口端が言い訳の準備をするかのように挙がっている。
俺だったらもう少しまともなウソがつけそうなものだと思うが、これが火原の精一杯なのだろう。
火原の背中の方向。校舎の方から、日野が小走りで近寄ってくる。
火原を探しにきたのか。それとも俺を捜してるのか。いや、俺と火原以外の誰かを求めているのか。
ため息をつきつつ、日野と火原を見つめていると、小さな影は怯えたように足を止めて、近くの木陰に入り込んだ。
── あんな風で、隠れたつもりになっているのだろうか。あの子は。
「君は、あきれるほど正直だな」
「な、なに言ってるの? 柚木……」
身振りで説得しようとしたのか、火原は目の前でぶんぶんと手を振っている。
その仕草に俺は頭を振ると、じっと火原の目を覗き込んだ。
「そんな風だから、また、君は……」
(また、馬鹿正直に傷ついて悩むんだろう?)
気の良い親友を、これほどまでに悩ませている理由。
初めてCMを聴いたとき、不思議に思った。老成したトランペットの音。
火原の持ち味の天真爛漫さがみじんにもない、ちょっとくたびれた旋律。
俺は火原を日野が隠れている樹木の近くまでいざなうと、小声で問い詰めていく。
「君の悩みを当てようか?」
「え? なに、柚木」
「CMのトランペット。あれはお前の演奏じゃないだろう?」
「ええ??」
「お前もわかってるんでしょう? 隠れてないで出ておいで?」
木に向かって話しかけると、ようやく観念したのか、日野はバツの悪そうな顔で飛び出してきた。
「か、香穂ちゃん……」
「ごめんなさい。私、朝からずっと火原先輩の様子が気になって。昼休みもあわてて桜館に行ったんですけど、会えなくて」
「いいよ。日野。わかってる」
俺は火原の目を見つめながら口を開いた。
「僕は、CMの演奏を聴いてすぐに気づいたよ」
「柚木?」
「隠していたってわかるさ。君の演奏はCMの演奏者の音とは違う」
火原は気が抜けてしまったのか、がっくりと肩を落とした。
「トランペットがおれの取り柄なのに。別の誰かが吹いていることに誰も気づいてくれなくて……」
日野はヴァイオリンを握り締めて、黙って火原を見つめている。
震えている口元とはうらはらに、さらさらと涙が頬を伝って、形の良いあごへと滑り落ちていく。
見ていて思ったのは、こんな風に火原も、自分の中に溜めているモノを吐き出せたら楽になるのだろうか、ということ。
個々の性格というのもあるだろう。
それに加えて、男は人前で泣くのはどこか気恥ずかしいという思いもある。
泣きたくても泣ける場所がないことだってある。
「よほど辛かったんだね。……だけど僕たちが君についてるだけじゃダメかな?」
「柚木……」
俺は音楽の道へは進めない。
音楽に向かう、真摯な姿が、羨ましくないと言ったら嘘になる。
でもだからと言って、親友の落ち込んだ顔は見たくない。
「取り柄というなら、君のすべてが君の取り柄だよ。火原」
「柚木?」
「僕はアンサンブルで音を合わせるというなら、まず君を選ぶよ。……日野。お前も、そうだよな?」
「はい! もちろんです!」
「……香穂ちゃん」
火原の表情が柔らかくなったのを察して、俺は火原の背を押した。
泣くことができない火原が、今の気持ちを。
いや、今日溜めていた汚い気持ちも何もかも、音にしてしまえたら、少しは楽になれるんじゃないか。
そう、思えたから。
「さてと。そういうことで、練習でもしよう? ── 一緒にね」