なんだかさ。
 そりゃあ、柚木と香穂ちゃん。2人で演奏するの、っていつも気持ちいいって思ってたよ。
 すこーんと、心がほどけてく感じ、っていうのか。
 だけど、今日は、ちょっと違う。
 ほどけていった気持ちの先っぽたちは、ちゃんと、行き先を知っている。
 どの音にも、着地点って主張する。
 こっちの音は香穂ちゃんの耳に。あの音は、柚木の指先に、反映して広がっていく。
 ちゃんと受け止めてもらえる。そう信じられることが、心地良いんだ。
*...*...* Ever 3 *...*...*
 あわてて時間を確認しようとして、今日は腕時計を忘れたことに気付く。
 えーっと、今、何時だっけ? まだ、今日の放課後は残ってるのかな?
 柚木はおれの様子を見て、小さく微笑むと、優雅な仕草で内ポケットから懐中時計を取り出した。

「4時を少し回ったところだね。これから君はどうしたい?」
「練習! スコーンと明るい曲が弾きたいよ」
「そう? じゃあ、文化祭も近いことだし。僕と君との合奏ってことだったら『ドナウ』になるのかな?」
「オッケー!」
「いや……」

 柚木はそう言いかけたあと、あごに手を当てて考え込んでいる。

「なに? どうしたの? 柚木」
「いや。今日は聴いていてあげる。君のトランペットが聴きたいしね」
「柚木?」
「今日の実技の授業、気持ちよく吹いてなかったでしょう?」
「あ……」

 そうだった。
 午後からの実技、おれ、誰かがCMの音と違う、って気付くんじゃないか、って、気が気じゃなくて。
 あまり音楽に関心のない普通科の子ならわからないかも、だけど。
 音楽科の子なら簡単に見破るんじゃないか、って。

 自分の好きなことって、誰でも些細な違いに敏感だと思う。
 少なくとも音楽科の子は、とても音楽を大事にしている子たちばかりだ。
 だからおれ、みんなに見破られるのが怖くて、いや、軽蔑されるのが怖くて、思い切り吹けなかった。

 柚木と香穂ちゃんは、なにやら言い争いを始めた。

「私も聴きたいです。今日の、火原先輩のトランペット」
「日野は練習不足だろ? ずっと火原に気を取られてて」
「う……。た、確かにそうかも……。だ、だけど!」
「ふぅん。……そこまで言うんだったら、今日は2人で弾いてみたら?」
「はぁい……。聴き役さんに回りたかったな」
「なんだ。気の抜けた返事だな。いいからやってみろ」

 ちょうど香穂ちゃんが練習室を予約してあるとかで、おれたちは森の広場を通り抜けて、まっすぐに楓館へと向かった。

「よし。思い切り、吹いてみるね!」

 おれは楽譜台を立てるのももどかしく、ケースからトランペットを取り出す。

 合奏としてはルール違反なんだろうけれど、旋律が浮かぶたび、思ったままに音を作る。
 香穂ちゃんは、そんなおれを受け止めるかのように、静かにヴァイオリンを奏で続けた。
 ヴァイオリンは主旋律になることが多い楽器なのに。
 どんな曲でも、今日の香穂ちゃんはすべて伴奏に徹してくれている。

 柚木は、と言えば。
 腕を組んで。目を閉じて。
 静かな、穏やかな表情でおれのトランペットに耳を傾けている。

 3年も見てきたのに。
 そして、この親友は今まで何度だって、おれの音を聴いていてくれたのに。

 あー。なんか、おれ、バカだったな。
 考えてみれば、すごい可能性の中で出会ったやつ。
 おれ、たった今まで、その事実を『当然のこと』って捉えてたかも。

『君のすべてが君の取り柄だよ。火原』

 親友の優しい声が耳に残ってる。
 おれの一番大切で誇りである音楽の世界を、この親友はわかってくれているんだよね。

 う〜〜。どうしよう。目が熱い。
 でも、こんなとこで泣いたら、なんか、今日のおれ、情けなさ過ぎる。
 香穂ちゃんも見てるし、絶対泣けないよ。

 よ、よし。こんなときは、明るい曲に集中するしかない!
 ここで泣いたらカッコがつかない。
 陽気に行こう、とばかりにおれは目に力を込めると、今練習している『諸人こぞりて』を吹き始めた。

 ちょっと季節的に早いのかな。だけど、いいんだ。
 柚木と、香穂ちゃんと。そして、アンサンブルのみんなと。
 そりゃ、クリスマス当日は、みんな なにか用事があるかも、だけど。
 その前後でいいから、ぱーっとみんなで遊びに行けたらいいな。

 そんな思いを込めて演奏をする。

 気持ちが伝わったのかな。
 演奏を終えたあと、柚木は微笑みながらパンパンと小さな拍手をくれた。
*...*...*
 帰り道。
 一歩先を歩いているおれのあと、柚木と香穂ちゃんは2人で並んでゆっくりと歩き続ける。

「火原先輩ってすごい人なんですね……」
「……いったい なにがすごいの? 語彙の貧困さは、音楽の表現力にも比例する。
 大体、すべての事象を『すごい』って言葉で表すのはどうかと思うぜ」
「だって……。コワい柚木先輩を見ても、普通に受け止めてるんだもの。
 わ、私なんて、初めて柚木先輩の怖い顔見たとき、3日間くらい、ほとんどご飯食べられませんでしたよ?」
「へえ。それはまた可哀想に。俺に同情して欲しいんだ」

 香穂ちゃんは口を尖らせて、柚木をにらんでいる。

「なにか文句でも?」
「柚木先輩、全然悪いって、思ってないでしょうーー!」
「当然。お前は、俺にからかわれるためにあるの。いわば、俺のおもちゃ、ってところ?」
「おもちゃなんてごめんです!」
「ま、お前はいいように俺にあしらわれておけよ。……おや? なにか聞こえない? 2人とも」

 柚木はふと顔を上げて、音のする方へと首を傾けた。
 秋の夕暮れは、親友と大好きな女の子の面輪をオレンジ色に輝かせている。
 寒くもなく、暑くもない、とっておきの時間に相応しいような、優しげな音色がふわりとおれたちの間の空気を柔らかく包んでいく。

「ああ、ストリートパフォーマンスの演奏かな? とぎれとぎれだけど綺麗だね」
「はい! この辺って、星奏の卒業生も多いって聞きますよね?」

 今流行っている歌らしい。香穂ちゃんは嬉しそうにハミングをしている。

「そっか。おれ、ここのところずっとテレビ見ないようにしてたから、知らないんだよな。最新の流行歌」

 そういうと香穂ちゃんは柚木と顔を見合わせて、痛そうな顔を見せる。
 ホント、いい子、で、いいヤツ、だよな。
 とおれは、今日1日中とは違う意味で、また涙腺が緩んでくるのを感じた。

「あ! えーっと。全然気にしてないから! 2人も気を遣うこと、ないよ! うん」
「……そう? わかったよ。火原」
「いえ、あの……。ごめんなさい」
「あー、もう。いいっていいって」

 今まで移動教室のたび、教室で勉強しているたび、柚木と2人でいるのに、全く違和感がなかった。
 けれどなんだろう。
 おれと香穂ちゃんと、柚木。
 この3人でいることが、すっごくしっくりくるのは、どうしてなんだろ。

 今、この瞬間は、おれたちの間に香穂ちゃんがいてくれることがすごく嬉しい。
 2人が、おれのそばにいてくれることがこんなにも嬉しい。

「また聴こえた。今度は、クラッシックだね。ああ、これなら、すぐ主旋律は追えるかな。日野はどう?」
「はい! ソソファミファソ……、で合っていますか?」
「ヴァイオリンは主旋律を追うことが多いから。これくらいの音感がなきゃ、奏者失格だな」
「柚木先輩、相変わらずキツいです……」
「俺にとっては、他愛もないメロディだけど」
「柚木先輩は、特別なんです!」

 ありのままの柚木と香穂ちゃんって、ボケとツッコミの関係なのかな。
 聞いてると、すっごく楽しくて、話はなかなか終わりそうにない。
 おれは笑いながら、香穂ちゃんに助け船を出す。

「ねえ、この曲、明日、3人でちょっと合わせてみない? 指慣らしに」
「いいね」
「はい……。ぜひ!」

 そうだ。どんなものにだって耳を澄まして歩く。
 あらゆるモノに気づくことができるように。失わないように。
 今、おれのそばにいてくれる、人。音楽。そして……。

「火原? ── もう、大丈夫かい?」

 さりげなく添えられる言葉が嬉しい。
 そう、おれはもう1人じゃない。
 これから先の未来もずっと、支えてくれる友だちがいる。だから。もう。

「うん! 全然平気!」
「そう」
「……よかった、です」

 おれたちの間を駆け抜けていく夜は、確かに何かの意味を持って、おれらを強くしていくんだ。きっと。
 だから。
 ── おれは、これからも頑張れるんだと思う。



 2人はおれの返事に安心したように頷くと、また、こつりと一歩を踏み出した。
 香穂ちゃんが作った靴音が、特別な意味を持って、おれの中にこだまする。

 優しく微笑む柚木と。
 涙目になった自分を隠すかのように横を向く香穂ちゃん。

 どっちも大好きで、どっちも大切で。
 ふと、このトライアングルが崩れるのがコワくて、どうして香穂ちゃんは女の子なんだろう、って思ったりもしたけど。
 いや、香穂ちゃんは香穂ちゃんだから。
 だから、おれは好きになって。こういう仲間になれたんだ。

「わ……っ! 火原先輩?」
「こらこら。火原?」

 おれは柚木と香穂ちゃんの間に滑り込むと、2人の肩に腕を回す。



「ありがと、ね?」
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