どこまでも高い秋の空の下、『クロツグミ』の旋律は、煙のように細く彼方へと吸い込まれていく。
 ともすれば、自分の身体ごと今なら飛び立てるのかもしれない。
 ── こんなに伸びやかな気持ちでフルートを構えるのは久しぶりだ。

(とりあえずは、現状維持、か)

 昨晩、廊下を小走りで走る母の足音に気付いて時計を見ると、針は12時少し前を指していた。
 勉強中だということを気にしているのだろう。
 障子の向こうの影は、何度かためらったあと、ため息とともにそっと隙間を開けた。
 聞けば、今、家族全員が祖母の部屋に集められていると言う。

『お祖母さまの部屋に?』
『そうよ。大事なことだから雅も起こして集まるように伝えたの。梓馬さんも急いで支度なさいね』

 共に住んでいる父や母はともかく、今は独立している2人の兄、そして眠っている雅まで呼びつけるとは珍しい。
 かなり深刻な内容、ということなのか。
 そしてそれは、吉と凶、どちらなのだろう。

 俺は、和服の襟元の位置を確かめると、姿勢を正して祖母の部屋に滑り込んだ。
 
*...*...* Result 1 *...*...*
 薄暗い踊り場と、日の当たる屋上。
 天気の悪いときはそれほどの違いは感じられないが、そうではないとき。例えば今日のような晴天のとき。
 視力が周囲に馴染むまで、周囲は水晶を砕いたような光に包まれることがある。
 日野は勢いよくドアを開けた後、水晶に囚われたのだろう。
 俺の姿を認め、やがてまぶしそうに目を細めて笑った。

「こんにちは。やっぱり柚木先輩だった」
「……ああ、またお前か。お前はよく人の考えごとを邪魔するヤツだね」
「はい……。えへへ。鳥みたい、ですか?」
「メシアンはたいそうな親日家だったらしいからな。それが理由ではないにしろ、彼の旋律は俺に合う気がする」

 どういうわけか、俺がメシアンの『クロツグミ』を吹くと、鳥たちは楽しそうに俺の周囲に集まってくる。
 今も、屋上のフェンスの上、黒い羽根をした鳥たちが、黄色いくちばしで気持ちよさそうにお互いの羽根の手入れをしている。
 日野は鳥のような軽やかな足取りで近づいてくると、俺の顔を見て はっとしたように笑いを止めた。

 鈍いクセに、鋭いヤツ。
 言葉にして伝えなくても、やはりこいつには、自然に伝わる何かがある、ということなのだろうか。
 俺はフルートを降ろすと、建物の影にいた日野の近くに歩み寄った。

「まあ、お前と火原には心配をかけたから教えておこうか」
「はい……。なんでしょう?」
「……俺の家はひとまず会社の防衛に成功したよ」
「え!?」
「後始末には時間がかかるが、大勢には影響はないだろう」

 俺は淡々と話し続けた。
 今回の件が影響したのか、祖母が倒れてしまったこと。
 将来は、柚木の家の事業を継ぐように言われたこと。
 俺も、それに応えたい気持ちがあるということ。

「じゃあ……。じゃあやっぱり、柚木先輩は、音楽は辞めちゃう、ということですか?」

 日野は思い詰めた口調でそう言うと、じっと俺の顔を見守っている。

「いや。別の視点からしたら、俺が何かしなくても経営自体は成り立って行くということだからね」
「はい……」
「どんなものでも変化しないものはない。だから、可能性があるものを最初から諦めるなんて俺はしたくない。
 たとえ最終的にその可能性を選ばなかったとしてもね」
「一度は完全に失ってしまった選択の機会を思いがけずもう一度与えられたわけだから。
 俺は、自分のやりたいことについてもう一度よく考えることにした、ってこと」
「じゃあ、柚木先輩……」

 日野は、両手を口に当てて、驚きとも喜びとも判断できないような表情を浮かべている。
 困ったように下がってる眉は、なぜだか俺をひどく安心させる。

 喜ぶ人の数で、自分の進路を決める気はさらさらないが。
 俺が選んだ音楽という道。その道の後ろを、こいつが着いてくる。
 そう思えば、俺は今まで以上のより豊かな音楽が作れる気がする。

「『天の与うるに取らずんば、かえってその咎を受く』というしね。せっかくの機会を無駄にしたりしないさ」
「はい……」
「ねえ。第1、俺が音楽を辞めるなんてこと、火原もお前も納得しないだろ?」
「納得、しません! よかった……。私……」

 日野のどこにこんな涙が隠れてたのだろう。
 伝っては落ちていく涙の跡が、冷える暇もなく、こいつの頬を温め続ける。
 ハラハラと涙が頬を伝っては、コンクリートの床を濃い色に染めていく。

 今まで、人の泣き顔を綺麗だの可愛いだの感じたことはなかったのに。
 涙はただの体液。必要に応じて出てくるだけの存在に過ぎないと思っていたのに。
 日野の涙は、春の柔らかな雨のように、俺の気持ちを静めていく。
 俺はこいつの涙に触れたいとさえ、思った。

「……やれやれ。なにもお前が泣くことはないだろうに」

 伸ばした指が、あと数センチで日野の頬に触れようとした瞬間。
 日野はひどく真剣な面差しで俺の顔を見上げた。

「あ、あの! このこと、火原先輩にお話しましたか?」
「いや。俺の親友はどこかの誰かみたいに、俺の考えごとの邪魔をしないからね」

 話そうと思えば話せないこともなかったが、今日の授業は専科ばかりでなかなか火原とゆっくり向き合う機会はなかった。
 昼休みは、火原が身体を動かす大事な時間でもあったし。
 それほど急がなくても、火原となら話す機会はいくらでもある。

 甘えのような意地悪を取り混ぜてそう言うと、日野は一瞬身構えたものの、笑いながら応戦してくる。

「う……。あ、えっと、だけど、すぐお話しましょう? 火原先輩も、聞いたらすごく喜ぶと思います!」

 俺は懐中時計を取り出した。まだ、3時を少し回ったところだ。
 当たり前か。放課後1番に、俺は誰よりも早く屋上に来たのだから。

 それにしても……。
 俺はそのとき、ふと浮かんだ黒い疑問に答えを見い出せないでいた。

 どうして日野は、これほどまでに俺のことを火原に伝えたいと思うのだろう。

 火原を安心させたいから?
 そう尋ねれば、日野はさも当然という顔で頷くだろう。
 俺の質問の意図さえ、理解しないままに。

 日野のこの喜びようは、俺自身の進路が嬉しいというわけではなく、火原が安心するのが嬉しい、ということなのだろうか。
 それとも。
 俺が落ち着くことで、アンサンブル練習がよりスムーズに進むことを喜んでいるのか。

 そもそも、日野は俺のことをどう思っているのだろう。火原のことは?
 いや。俺と親友、2人の名前を出すのは的違いで、日野の想いは俺たち以外にあるのかもしれないのに。

「早く、行きましょう?」

 日野は今にも走り出しそうな勢いで、俺の手を取る。
 無意識に繋がれた手が、思いのほか小さいのを、俺は改めて知る。

 ヴァイオリンを構えているとき、弦を押さえているときのこいつの手を、俺はそれこそ毎日のように見ている。
 知っているつもりだったけれど、知らなかったことが、ここにある。
 いったい俺は、日野のなにを理解しているというのだろう。

「あ! ごめんなさい。つい……っ」

 俺の視線に気づいたのか、日野はあわてて手を振りほどこうとする。

 まったく。親友とこいつの共通項は『お人好し』の一言に尽きる。
 俺は手の中に収まっている日野の指を握りしめた。



「── 馬鹿。俺がみすみすこんな好機を見逃すと思う?」
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