*...*...* Need 1 *...*...*
「タッタタ、タタターン、っと。ここで、香穂ちゃんと加地くんが入る、っと。
 ……香穂ちゃんの音って優しすぎてアクがないんだよね〜。月森くんも入るといいのにな」

 プッチーニの『誰も寝てはならぬ』の曲を口ずさみながら、おれは放課後の廊下を歩いていた。

 新学期が始まった頃よりもずいぶん弱々しくなった日差しが、廊下の埃をつぶさに映し出す。
 儚げな光が、モミジやカキの実をあんなに色づかせるなんて、考えてみれば不思議だ。
 おれから見たら、秋に色づくいろいろなモノが、太陽のパワーを吸い取っているんじゃないか、って思えてくる。
 まあ、すっかり涼しくなって、なに食べてもおいしい、っていうのはイイコトだよね。

 ジャコモ・プッチーニはやっぱり偉大な作曲家だ。どの旋律もスコーンとおれの中に入ってくる。

 好き嫌いが分かれるかも、だけど、おれは彼の作品の中では『トスカ』が1番好きだ。
 『歌に生き、愛に生き』というフレーズどおり、恋人のマリオが死んだあとを追うように、ヒロインのトスカも自ら命を絶つ。
 動きのあるストーリーは、感情を入れやすいし、その、オペラに興味のない人も、足を止めてくれるような気がするんだよね。

 今度の文化祭に演奏する曲として、香穂ちゃんは悩みに悩んで、最終的に『ドナウ』と『モルダウ』と『謝肉祭』を選んだ。
 おれの乗り番は1曲だけ。せめてもう1つ乗ってみたかったけど、こればっかりは仕方ないかな、って思う。
 弦の香穂ちゃんには弦のメンバーが似合うものね。
 あ── 。あれ? でも、柚木、3曲とも乗る、のか。いいな、ちょっと羨ましい。

「火原先輩」
「あれえ? 香穂ちゃん! どうしたの、こんなところで」
「講堂に行ったら誰もいなくて。先輩たちならいらっしゃるかな、って」

 音楽科の階段の踊り場で、ちょうど鉢合わせになる格好で、俺は香穂ちゃんと会った。
 香穂ちゃんは、柊館の中、普通科の制服を恥じるかのように、少し照れくさそうに微笑んでいる。

 俺たちの年って、なにかにこんな風に一生懸命になることに、少しだけ羞恥心を覚える年頃なんだってことを最近知った。
 別に悪いことじゃないのに。ううん。むしろ、素敵なことだって、おれは思うのに。
 文化祭の準備に夢中になる人間がいる一方で、どこか白けたようなつまんない顔してるヤツらもいる。
 だけどそんなヤツらに言ってやりたい。
 どんなことも、楽しんだ方が勝ちだよ? って。
 だから、どんなに大変でも、いつも笑って頑張っている香穂ちゃんって素敵なコだと思うんだ。
 もっとも、受験勉強についてはおれ、全然エラそうなこと言えないけど。

「おれ準備バッチリ。今日の練習場所は講堂なの?」

 トランペットケースを振り上げてそう言うと、香穂ちゃんは大きく頷いた。

「もう少しで本番だから……。その、場所も、講堂のステージだといいかな、って思って。
 ほら、あそこだと、音楽科の人もいっぱいいるでしょう? その、演奏が良くないと、途中でいなくなっちゃうのが悲しいけど」
「そうだね……」

 香穂ちゃんの言うこともわかる。
 良くも悪くも音楽科の生徒って、耳が肥えてる。
 これは、と思った曲には足を止めるけど、ヒドイ音を作ったときには評価も辛辣だ。
 『ここをこうしたら?』なんて優しい言葉をかけてくれるヤツはあまりいなくて。
 むしろ聞かなかったフリをして、その場を去っていくヤツも多い。

『ヘンな音を聴くと、自分の音まで狂うから』
 なんてことを案外真面目に信じているヤツもいる。
 だから両刃の剣なんだ。自分たちの演奏に落ち込むことも自信過剰になることも、あの場所なら簡単にできてしまう。
 だけど、なんて言っても香穂ちゃんが楽しく演奏できれば一番だ、って思うから、おれは彼女の提案に同意した。

「オッケー。講堂ね。あ、じゃあちょっとだけ購買に行ってもいい? 飲み物調達してくる!」

 おれは歩き始めていた方向とは反対に脚を向ける。
 香穂ちゃんも、じゃあ私も、と言ってあとをついてきた。
 なにしろ講堂って、1年中湿度も温度も変わらないのは良いけど、弦楽器のことを考えてか、いつ行っても空気が乾いてる。
 思い切り相棒を吹き込むとどうしてもノドが乾くんだよね。
 あ、でも同じ管って言っても、柚木がおれみたいにゴクゴクと水分を摂るところって今まで見たことないかも。
 ……柚木って、ノド、乾かないのかな。

 おれは自販機でスポーツドリンクを買って、香穂ちゃんを振り返った。

「香穂ちゃんは? なんにするの。おごってあげるよ?」
「え? あの……。ううん、私、自分で」
「いいのいいの。臨時収入が入ったから」

 大学生のアニキは、バイト料が入るといつも少しだけおれに小遣いをくれる。
 アニキから聞くバイトの話は面白くて、おれも無事大学生になったら、こんな生活が待ってるのかな、なんて気分にさせてくれる。
 そうだな。おれだったら身体を動かす仕事がいいな。できればイベント系。それに音楽が組み合わさったらどんなに楽しいだろう。

「ありがとうございます。じゃあ、あの、私、ミネラルウォーターを」
「了解っと」

 おれは香穂ちゃんが指さすパネルを押す。
 ミネラルウォーターに、大人の飲み物、という定義はないのかもしれないけど。
 って、香穂ちゃん大人っぽい飲み物が好きなのかな?
 おれだったら、味がついてない飲み物を買おう、って気を起こしたことって、今まで1度もない気がするけど。
 だけど、香穂ちゃんが飲むなら、きっと美味しいのかな。明日こっそり買ってみようか。
 おれは自販機から2本のペットボトルを取り出すと、香穂ちゃんを振り返った。

「よしっと。じゃあ、早く行こう? 加地くんとか、もう待ってるかもしれないよ?」
「はい。……、あ、あれ?」
「なに?」
「しーーっ、です。火原先輩」

 香穂ちゃんがおれの口元にそっと白い指を伸ばす。
 距離の近さに絶句していると、香穂ちゃんは、おれの手を引いてそっと柱の影に隠れた。
*...*...*
「……うん、わかったよ。だけど大丈夫? それは生徒会の仕事じゃない?」

 優しい声が聞こえてくる。おれがよく聞いている声。
 授業の最中に聞こえてくると、ハッと引き込まれるし、おれに対してだけ向けられているときは、すごく安心できる。好きな声。
 おれはパブロフの犬みたいに、じっと親友の声に聞き入った。
 柚木の声、だ。

「香穂ちゃん……」
「ごごめんなさい。あわてて隠れちゃったんですけど、ど、どうしましょう?」

 お互い声をひそめるから、その声を聞き取るために、おれと香穂ちゃんの顔が最高記録、っていうくらい近くまでやってくる。
 声を抑える分だけ、自分の頭が熱くなってくるのを感じる。
 柚木は、顔をおれたちの方に向けているものの、おれたちの存在には気づいてないらしい。
 あごの高さできっちり2つ分けにした髪型の、女生徒に話しかけている。
 普通科の子だ。1年生かな。顔は知ってるけど、名前は知らない子。
 直立〜って感じで柚木の言葉を『賜ってる』って感じの彼女の背中は、真面目そのものだ。
 その気力に押されるようにして、親友は小さなため息をつきながら言った。

「……そうまで言うなら、僕も精一杯頑張らせてもらうよ」
「はい。柚木先輩ならそう言ってくださると思っていました。ありがとうございます! 生徒会のみんなにも伝えてきますね」
「ああ。よろしくね」

 柚木は小さな微笑を浮かべながら、彼女を見つめている。
 背中越しの彼女の声は、『喜色満面』。
 あれ? でもでも『喜色満面』って、『声』に使っていいのかな? どうなんだろう。
 おれは、おれたちの方に近づいてくる柚木から目を外すと、意味もなく天井を見た。
 香穂ちゃんも釣られるようにして、天井を見ている。
 この学院の天井って、結構凝った造りしてるんだ。縁の方なんか、細かい彫刻でできてる。
 ふとおれと香穂ちゃんの手と手が触れ合う。な、なんだろ、改めてドキドキしてきたっ。

 カツリ、ときれいな足音がする。
 おれのスニーカーじゃ、絶対出せない音。真新しい音だ。
 おれはおれのあごの下にいる香穂ちゃんと目を合わす。
 出て行くべきか、このままあと少しだけ、息をひそめ続けるべきか。ああ、おれってハムレットみたいだ。
 それもかなりささやかな世界で悩むハムレットだ。

「── 隠れていないで出ておいで? 火原も。日野もいるんだろう?」
「え? あ−。なんだ。柚木にバレてたの?」
「あ、あれ? 柚木先輩、知ってたんですか?」

 おれと香穂ちゃんはイタズラが見つかった子どものように、へらりと笑って柚木の前に出た。
 バツが悪くてもぞもぞする。おれ、金やんに叱られたって、これほど居心地は悪くないよ。
 柚木は、さも面倒くさそうに口を歪ませている。

「あの連中はもう少し自分たちでなんとかすることを覚えるべきだね。
 協力するのは構わないが、人の都合も考えず次から次へと持ち込んで。……そんなに俺が暇に見えるのかね」

 やや投げやりな口調に、今度はおれの方が息を呑む。

 柚木ってば、明後日の文化祭、乗り番3曲だし。
 それてもって、音楽科でありながら、普通科の授業も独学でマスターしているし?
 さらに、おれたちは高3で。受験勉強もしているワケで。
 もっと言えば、あれ? この頃、柚木の家の話、ってあまり本人から聞かなくなったけど。
 もう解決してるのかな? えっと、なんだっけ? 買収がどうのこうの、って話。
 香穂ちゃんのおかげで毎日、柚木と音を合わせてるからか、
 数ヶ月後、おれたちが卒業するときになって、柚木が音楽から離れるなんてことは考えられなくて。
 柚木の話を聞いたのは創立祭のときだったっけ。もう1ヶ月も前か。
 この文化祭が一息ついたら、ちょっと踏み込んで聞いてみようか。
 ── それにしても、今日の柚木は、ちょっと攻撃的? な、感じ? ヤケにトゲトゲした雰囲気を醸し出してる。

「……柚木でもそう考えることがあるんだ。なんだか新鮮だね」
「ま、俺は、本当はこんなヤツだってことさ。……なに? 火原、がっかりしたの?」

 柚木は今までおれが見たこともないような卑屈な目でおれを見上げている。
 その暗い色を見たとき、おれの中になんだかよくわからないマグマのような塊を感じた。

 この感じって、確か前も感じたことがある。
 確か創立祭だ。舞台袖の端っこのパイプ椅子。独り言か、語りかけかわからないような、とりとめのない柚木の言葉。
 そして、音楽への思い。
 そうだ。今は、おれがしっかりしなきゃ、なんだ。
 今まで助けてもらった分。支えてもらった分だけ。

「そんなことないよ! 柚木が感情的にになったとこ、あまり見たことはないからビックリはしたけどね」
「感情的になってるせいじゃない。俺はこういう人間だよ。お前も気づかなかっただろう?
 こんな俺はこいつ以外、誰にも見せてなかったからね」

 そう言って、柚木は香穂ちゃんに視線を投げかけている。
 香穂ちゃんは、心配そうに、柚木を見て、おれを見て、を交互に繰り返している。
 多分、柚木が言うとおり、香穂ちゃんと柚木、2人きりの間では、香穂ちゃんはこんな柚木の態度を何度か経験していたんだろう。
 今香穂ちゃんが気にしているのは、柚木のおれへの態度みたい。不安げにおれの顔を見上げてくる。

「……うーん、そうだなあ」

 柚木と香穂ちゃん。鋭い視線と、おろおろと見守る視線の中、おれは急いで考えをまとめる。
 ああ。おれって、現国も苦手だったし、小説も新聞もほとんど読まないけど、このとき思った。
 国語、ってさ。今、自分の中に浮かんでくる言葉を、自分らしく、伝えたいと思う相手に伝えるために学ぶんだ、って。
 届いたとき、伝わったとき、言葉は特別な魔法みたいに、柚木の気持ちを柔らかくしてくれるかも、しれないんだから。

 おれは一言一言、柚木に伝わるように、と念じながら口を開いた。

「たぶん、今でも柚木のこと、全部わかってるわけじゃないと思うよ。
 だけどさ、おれの知ってるとこも知らないとこも、何もかもひっくるめて柚木ができあがってるんだよね」
「火原……」

 うう、もっと、なんて言うんだろ。高級な言葉が使えたら、もっと、いいのに。説得力、出てくるのに。
 なんか、おれの言葉、小学生でも知ってるフレーズばっかりじゃない?
 上唇を舐めながら、おれは考え続け、話し続ける。そうでもしないと柚木がそっぽ向きそうだよ。

「だったらさ、おれの知らないところまで全部含めてまるごと柚木だよ。おれの友達の。
 ねえ、香穂ちゃん。香穂ちゃんもそう思うよね?」
「はい……。あの……っ」
「香穂ちゃん?」

 親友びいきの香穂ちゃんのことだから、すぐにでも元気な返事が返ってくると思ったのに。
 意外にも目の前の女の子は涙ぐんでいる。
 あ、あれ? おれ、なにか、ハズしちゃったのかな? おれ、自分に及第点をあげたいくらい、頑張ったよ?
 おれの脳細胞フル出場させて、いろいろ考えたのに!
 柚木も驚いたように香穂ちゃんを見つめている。
 どうして、今、ここで香穂ちゃん、ウルウルしてるんだろ。


 やがて香穂ちゃんは、おれたちの視線に気付いたのか、おれの大好きな微笑を浮かべて言った。
 ……そう。おれがいつもずっと見ていたい、って思うような幸せそうな顔で。



「── 私も、すごく、そう思います」
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