『私、香穂先輩のお手伝いがしたいです』
『ありがとう……。私、今の冬海ちゃんのままで十分だよ?』
『いえ、私……。1つ思いついたことがあるんです。今夜中に人数分、できるかな……』
『今夜中? 人数分……?』

 昨日の帰り道、なにか考え込むような表情を浮かべていた冬海ちゃんは、
 今朝、私に会うなり、真っ赤に書き込みをした楽譜の束を渡してくれた。

「こういうお仕事、『ライブライアン』っていうんですって。私、夢中でやっていて、お母さんに笑われました」
「すごい書き込み……。こんなに?」
「まだ始めたばかりですけど、この作業って、話すのが苦手な私に向いている気がします」

 見ると本当に細かく書いてある。ブレスの入れ方。ほかの楽器の入り方。
 昼休み、お弁当もそこそこに、私は何度も冬海ちゃんの書いた字を指でなぞる。
 午前中の授業の間、ちらっとでも見ることができたら良かったけど、今日は家庭科と体育、それに美術、という、
 実技系の授業が一気に押し寄せる日で、とても見る余裕なんてなかったもの。

 5時間目が始まる前、加地くんも紅葉のように赤く色づいた楽譜を持って戻ってきた。

「ふふ。なんだか僕、冬海さんに負けたって気がして悔しいな」
「加地くん……」
「君の役に立てること、って君を引き立てる演奏をするってことだけじゃないんだね。どうして僕はそのことに気づかなかったんだろう」
「ううん? あの、気持ちだけですごく嬉しいよ? ありがとう」
「ふふ。ねえ香穂さん。君、譜読みしたいんじゃない? そうだ。5時間目の古典の時間は、僕に任せておいて?」

 隣りの席の加地くんは、いつも本当に優しい。
 クラスメイトにどれだけ冷やかされても、どこ吹く風、という感じで、私のフォローをしてくれる。
 でも、加地くんの評価と私の実力の間にはすごく大きな隔たりがある、って思う。
 もう少し、上手くなれたらいいのにな。ヴァイオリン。
 加地くんの評価と同じくらい、上手になれたら、どんなに素敵だろう。

「ごめんね。頼りにしてます」

 私は、教科書の下に楽譜を押し込んで、ずっと頭の中で音を再生する。

 音楽科の人たちは、横文字も頭の中で日本語以上に豊かに変換されるらしい。
 だけど私からしてみると、英語ではない横文字は、ただの記号にしか見えなくて。
 英単語を覚えるように必死に覚えた直後、『rallentando』が『ra』って書いてあってまたわからなくなった。
 だけど、冬海ちゃんのくれた楽譜には、『だんだんゆっくり』と日本語で書いてある。

 ── これなら。なんとか、私、文化祭までに間に合うかもしれない。  
*...*...* Division 1 *...*...*
 文化祭まであと3日。
 放課後はいつにもましてにぎやかだ。

 今日明日と降水確率が0パーセントということが、さざ波みたいにみんなに伝わったのだろう。
 森の広場では、冬海ちゃんのクラスメイトが自分の身長よりも大きな立て看板を抱え、右往左往している。

 クラスの出し物。部活動の出し物。それに有志たちの出し物。
 みんな、年に1度のイベント、って感じで学院中が張り切ってる気がする。
 校風、なんだろう、って思う。
 それこそ入学したばかりの1年生の時にはその活気に驚いたっけ。
 事前にちゃんとした申請書を学院に出せば、費用の方は学院側がかなり負担してくれる、らしい。
 私が知っているだけでも、お化け屋敷や、甘味処、ダーツやミニバスケットなど、たくさんのイベントがあるみたい。

 去年、初めての学院祭を見て、大体の印象はわかっている。
 それに甘味処は、冬海ちゃんのクラスが頑張っているから、行きたいとは思うけど、
 どうにも、アンサンブルが気になって、気持ちがそわそわ落ち着かない。

 どうか早く、そして贅沢を言えば、『私の』ノーミスで、アンサンブル、終わることができるといいなあ……。

 ほかのメンバーは、もう1週間も前から、ほぼ完璧な演奏をしているというのに、私は何度弾いても『モルダウ』が上手くいかない。

 一緒に練習していた火原先輩は、そっと相棒から唇を離すと気持ちよさそうに肩を回した。

「よっし。今日はもうこれくらいにしよっか。ごめんね香穂ちゃん。おれ、今からオケ部の様子、ちょっと見てきたいんだ」
「あ……。ごめんなさい。私今日も少し、ミスっちゃって」
「平気平気〜。香穂ちゃんは、3曲もノリ番があるから大変なんだよ。大丈夫。きっと本番は上手くいくって!!
 じゃあ、また明日ね?」
「はい! ありがとうございました」

 火原先輩は にこ、っと笑うと、背中の布を膨らませてここ森の広場から音楽室へと駆け出していく。

『大丈夫だよ。きっと上手くいくよ』

 火原先輩はいつもそう言って励ましてくれる。
 だけど、私はそのたびに不安になる。

 火原先輩がウソを言ってる、とは思わないけれど、このままで本当に上手く行くの、かな……?
 この前テレビで見た、フィギュアスケートの選手を思い出す。
 1日12時間も練習する、って。だけど、どんなに練習を多くやっても、結果がすべてなんです、って。
 練習量が足りないって自覚がある私はそれだけで、スタートラインには立ててないような気がする。

「……日野」
「あ、あれ? 月森くん?」

 呼びかけに振り返ると、そこには苦虫をかみつぶしたような月森くんの顔があった。

「あ、あの。月森くん、会えて良かった。あの、『モルダウ』、練習、お願いできる?」

 私は月森くんの鋭い目つきに、おどおどしながら口を開いた。

 これはきっと……。火原先輩と2人練習をしていた私の演奏を、聴いた……、ってことだよね。
 ううん。聴いただけじゃない。私のミスにも気づいてる、ってこと、だよね?
 月森くんは、ため息をつきながらヴァイオリンケースからヴァイオリンを取り出すと、私の目をまっすぐに覗き込んだ。

「── 君はアンサンブルをどのように考えているのだろうか?」
「え? えーーっと……。みんなと弾けて楽しい……、かな?」
「そんな小学生レベルの回答を俺は期待しているわけではないのだが」
「は、はい……」

 私はうなだれて、月森くんの声を聞く。
 さわさわと風は森の広場の木の葉を揺らし、赤い葉っぱが1枚ひらりと舞った。

「アンサンブルは、その曲をソロでも完璧に弾きこなすことができる。そこが始まりだと俺は思ってる」
「そう、だよね……」
「君の努力は買う。けれど、今の君のままでは聴衆に失礼だ」
「はい……」
「あまりこういうことは言いたくはないが、火原先輩は君に対して評価が甘い気がする」

 月森くんの言葉1つ1つは、とても厳しくて。
 だけど、月森くんの言葉にはウソがない。私がずっと感じてきたことそのままの意見だったから。
 それに。
 月森くんの薄い唇とは裏腹に、彼の指はまるで精密機械を扱うかのように正確に、そっとペグを回していた、から。
 私は彼に再び頭を下げて練習をお願いする。

「あ、あの……。月森くん。練習、よろしくお願いします」
*...*...*
 思い切り弾いたあと。
 練習前よりも少しだけ柔らかい表情を浮かべた月森くんが、肩からヴァイオリンを外した。

「……驚いた。君は飲み込みが早いんだな」
「ううん? そんなこと、ないの。ほら、見て? あ、もしかして月森くんも、この楽譜、冬海ちゃんからもらってる?」

 私はとっておきの種明かしをするかのように冬海ちゃんのコメントでいっぱいになった楽譜を、月森くんの目の前に広げた。
 2度3度頷くと、私の言葉を待っている。

「恥ずかしいけど、私……。書いてある言葉がわからないときがあって」
「言葉?」
「あの……。譜面の言葉、っていうのかな。音楽用語のことなの。
 ほら、Allegro、とか、Vivaceとか。英語じゃない、っていうのはわかって、イタリア語っていうのも調べて知って。
 だけど、『Al』とか『Vi』とか省略されているともう、混乱しちゃって」
「とはいえ、君は、春にコンクールをやってきたのだろう? 今更か」
「うん……。今更、なの。わからないところは、耳で覚えてたの」

 今までは自分のパートのヴァイオリン譜だけを見ればよかったけれど、アンサンブル譜っていうのは本当に難しい。
 第二コンまでは、選曲も1曲か2曲。それも短い曲ばかりだったから、耳で聴いてなんとか解釈できたけど。
 今回は3曲。しかもどれも今までより長めの曲ばかりだ。

「いや……。君の耳なら、いいところまでいくだろう」
「ありがとう……」

 うわ。褒められたの、初めてかも。
 じわりと熱くなる頬をどうしてだか見られたくなくて、私ははたはたと風を送った。




「あ、あれ? あの走ってくる子、天羽ちゃん……?」


 突然、視界の端っこに、すごい勢いで走ってくる白いスカートが見える。
 天羽ちゃんは元気で、陽気で、おしゃべりで。
 だけど、なんていうのかな。
 私が楽器を抱えているときは、絶対、というほど話しかけてこない。
 クラスメイトの1人は、『あの人に伝わると何もかも学院中、筒抜けになっちゃうから苦手』と私に耳打ちするけれど、
 私は、天羽ちゃんの芯の通ったところ、とても素敵だと思っていたから、気にしたことはなかった。

 そんな天羽ちゃんが、血相を変えて私と月森くんの間に飛び込んでくる、って、なんだろう……?
 あ、もしかして、演奏者の誰かがケガをした、とか?

「日野ちゃん。それに月森くん!! ごめん。練習中だってことわかってて割り込んでる! 今、ちょっとイイ?
 大変な話を聞いてきたんだよ」
「……俺たちに何か関係のあることなのだろうか?」
「なにかあったの? 天羽ちゃんが練習中に声をかけてくるなんて珍しいもの」
「はあ……っ。月森くんもいてくれて助かったよ。実はさ、昨日、学院の理事会があったことは知ってる?」
「理事会……?」
「そこで、あの吉羅ってヤツが新しい理事長に就任したんだよ」

 私はぼんやりと昨日のことを思い出す。
 たしか正門のファータ像の前で、私、大人の男の人とぶつかったんだ。
 その人は、私よりもヴァイオリンを心配してた。
 今日の調弦は注意をしてやるように、と、曇った空を見上げて言ってた。音楽関係者の人だ。しかも、弦の。
 理事室で見たことがある人。確か、あの人……?

 天羽ちゃんはようやく呼吸を整えると、私と月森くんと交互に目をやった。

「あのオトコ、普通科と音楽科をバラバラにして別々の学校にするつもりだ、って宣言したらしいの」
「え……?」
「天羽さん、それは本当のことなのだろうか?」

 すごく冷静に判断しても、私は今まで、それほどこの星奏学院に愛校心があるじゃなかった。
 学院を選んだ理由も、家から近いことと制服が可愛いこと。
 仲の良い友だちができたらいいな。素敵な人に会えたらいいな。
 そんな不純な理由で、学院を選んだ。
 だけど……。

(柚木先輩、火原先輩。……土浦くんも、志水くんも。冬海ちゃんも)

 春のコンクールで、初めてヴァイオリンを知って。音楽科の人たちを知って。
 最初はリリをうらめしく思ったこともあった。
 だけど、セレクションが終わったとき、私は次の日の過ごし方を忘れてしまったような気がした。
 だから夏休み明け、今度はコンサートが開かれるって聞いたときは、アンサンブルが不安だったけど、少しだけ嬉しかった。
 ── 夏休み前の続きがまた、始まるような気がして。

 文化祭2日目のコンサートだって。
 普通科の友だちから、何枚もチケットを欲しい、って依頼を受けて。
 そのたびに、加地くんはマネージャーさんばりに張り切って渡してくれてた。
 そんな些細なことが、とてもとても嬉しかったのに。
 普通科のみんなが、音楽を聴きに来てくれることが、すごく嬉しかったのに。

 ……分割。なの?
 別の学校になっちゃうの?

「香穂? あんた真っ青だよ。大丈夫?」
「吉羅さん、理事室かな? 私、もっと詳しく聞いてくる!」

 月森くんはきれいな眉を寄せて、重々しく息を吐いた。

「俺も一緒に行こうか?」
「ありがとう。これ以上月森くんの時間を取るわけにはいかないもの。私1人で行ってくる」




 私は勢いよくヴァイオリンを片付けると、柊館へと走り出した。
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