*...*...* Division 2 *...*...*
「ん? 誰だ……?」

 ふぅ、という小さなため息とともにノックの音が聞こえて、私は書面から顔を上げた。
 午後5時か。
 秋の日暮れは、色濃く理事室の窓を彩っている。
 もうすぐこの学院の主たちはそれぞれの家路につき、それから、私たちの雑事が始まる。
 私は、30分後に開かれるであろう定例会に思いを馳せ、息をついた。

 風通しがいい、という言葉がある。また、風通しが悪い、という言葉もある。
 どちらも自然学的な言語だと思っていたのに、これはどうやら、人の性格を表現するのにも一役買っているようだ。
 教育者というのは、良くも悪くも堅牢な、風通しの悪い人間の集合体なのだと私が知ったのは、
 この学院に来て1週間も経つ前のことだろう。
 ── さて。今日は化石のような脳みそを持っている人間をどうやって封じ込めるか、が鍵となる。

 さすがに理事室の近くで、文化祭のイベントをやろう、と考えた勇者はいなかったのか、
 理事室は深閑としていて、室内の空調の音が低いうなり声を上げている。

「はい。どうぞお入りください」
「失礼、します」
「……誰かと思えば、君だったのか」

 やや固い声とともに、普通科の制服が滑り込んでくる、と思ったら、そこには赤い髪の女生徒が立っていた。
 ひどく髪が乱れているのは、そんなことにお構いなしに走ってきたからだろうか。
 身繕いをするだけの余裕がないのは、若さのせいか、それとも、今抱えている問題が、彼女にとって重すぎるのか。

 女生徒は、私を凝視する。心なしか私に腹を立てているようにも見える。

「あの、吉羅、さん、ですよね? お話したいことがあるんですけど、今、お時間大丈夫ですか?」
「……私はいつも溢れるほどの時間を持ち合わせているわけではないがね。5分だけ、君に時間を割こう。用件はなんだろうか?」
「どうして? どうして、学院を分割しようって思うんですか?」

 この子のことは覚えている。
 普通科のヴァイオリン弾きなど、あまり数がないことに加えて、ああ、そうだ。正門前で何度か見かけたことがある。
 だが、この子の演奏は大して印象には残っていない。まあ、星奏学院のヴァイオリン弾きといったら、月森くんか。
 学院の好イメージを存続させるためには、当面のところ、あの生徒1人が居ればそれでいい。

「その情報は……。なるほど、アルジェントリリの差し金、というところか?」
「え? リリちゃん、ですか? え? リリちゃん?」
「驚くことはない。私の一族は生まれつきファータを見ることができる体質を受け継いでいる」
「そ、そうですか。いえ、違います。リリちゃんからじゃなくて、あも……、ううん。友人からの情報です。
 あの、どうして、この学院を分割するんですか?」
「別段騒ぐことでもないだろう。別々の学校になるとはいえ、どちらも星奏学院の系列校であることに変わりはない」
「だ、だけど! 春から、その……、私、一緒に音楽をやってきて。
 その……、やっと音楽科と普通科、少しだけ垣根が低くなった、って思ってるんです。やっと、仲良くなれた、って思ってるのに」
「くだらない。それが君の思い込みじゃない、という確証は一体どこにあると言うんだね?」
「そ、それは……っ」

 私のこういう反応はこの女生徒にとって予想外だったのだろう。
 彼女は悔しそうに唇の端を噛みしめた。
 1つの会話に対して3つの回答を用意している私からしたら、この女生徒の口を封じることなど、赤子の手を捻るようなものだ。
 私は柱時計に目をやり、女生徒が飛び込んできてからきっかり2分が経過していることを知った。まあ、想定範囲内だ。

「では、日野君。用が済んだのなら出て行ってくれ。まだ何件かまとめたい構想があるのでね」
「……はい」

 女生徒は入ってきたときとはまるで違う風情でがっくりと肩を落とした背中を向ける。

 音楽科だ。普通科だ。仲が良いから。
 そんなのは、すべて学院の経営とはなんの関わりもない。
 学院はいわば、会社の1つ。如何に利益を上げ、投資をし、次世代へつなげていくか。
 子どもたちの学費を出す親に、いかにアピールするか。それがキーとなる。
*...*...*
「日野香穂子! 帰ることはないぞ。吉羅暁彦。まったくお前は何を言っているのだ!」

 ドアを開けようとする日野君の前に、金の粉が降ってくる。
 と思ったら、そこにはせわしげに羽を動かし続けているアルジェントの姿があった。

「リリちゃん……」
「吉羅暁彦!! 日野香穂子の言うとおりなのだーー。
 日野香穂子ら、コンクール参加者のおかげで、この学院はようやく1つにまとまりかけているのに。
 お前のやっている行為は全くの破壊行為、なのだーー!」
「はっきり言うが、アルジェントリリ。お前のやり方は古いんだ。
 創立当時はそれで良かったかもしれないが、今は時代が違う。
 ま、時間の概念のない生き物に、こういうことを言っても時間の無駄か?」
「な……っ。人の心に新しいも古いもないのだ。とにかく我輩は学院の分割には反対なのだ!」

 私の剣幕に驚いたのか、日野君は、言葉を発することはなく。
 だが、私に反意を持っていることは明らかで、アルジェントリリの言葉に頷くと、じっと私の顔をにらみ続けている。

 ── ほう。
 会えばいつも幸せそうにヴァイオリンを奏でているか、仲間内と笑い転げているか。
 屈託という言葉から1番遠いところにいそうな女生徒に、こんな表情ができるとは。
 なかなか面白い物を見せてもらった、とでも言えようか。
 笑い顔が良い、という人間は男女を問わず数が多いが、物怨じ顔もなかなか見せる、という人間はさほど多くはない。
 私は改めてこの女生徒に興味を持った。

「春のコンクールを通して、ようやく学院全体が1つにまとまったというのに……」

 アルジェントリリは うなだれて日野君の肩に止まった。
 春からの思い出がよみがえったのだろう。心なしか日野君の目の縁が赤らんでいる。

「その話はさっき日野君からも聞いたよ。そう考えているのは、日野君とアルジェントリリだけなのではないかね?」

 日野君は、激しくかぶりを振ると、必死に反論を始めた。

「それは……。それは、あの! 具体的に数値化しろ、証明しろ、って言われたら難しいことはわかっています。
 だけど、事実、なんです。今まで私……。音楽科の人のこと、ほとんど知らなかった。
 どんなカリキュラムで授業を受けているかも。音楽科で運動部に入る人もほとんどいないし。
 どんなことを考えて生活してるのか、って知らなかったんです」
「ほう」
「だけど……。みんなそれぞれの場所で何かに向かって頑張ってるんです。
 それは音楽だったり、バイトだったり、受験だったり、人によって違うんですけど。
 だけど、私、知り合えて良かった、って思うんです。音楽科の人たちと」
「── 話にならないな。君は取るに足らない感情論を私に聞かせるつもりかね。
 そもそも、コンクールの参加者の音楽が、学外でどれだけ通用すると思っているのか聞かせてもらいたいものだ」
「そ、それは。あの、10月にやった教会のコンサートもそれなりに、あの、評価をいただいた、って思ってます」
「教会? ああ……。100人にも満たない素人の評価を鵜呑みにするのか? 君は」

 話しているうちに感情が高まってきたのか、女生徒は涙目で私を見つめている。
 それを認めて、私は内心舌打ちをした。

 まったく……。
 年端もいかない女の子を泣かせる趣味を私は持ち合わせてはいないが。
 こういうところが、私が女性というファクターを持つ人間を好まない理由、であったりもする。
 討論の最中に泣かれでもしたら、私は男というだけでハズレクジを引かされるようなものだ。
 別段、男尊女卑という凝り固まった思想はないが。
 私は上手く涙を使い分ける女性という生き物を信じていない部分がある。
 泣くくらいなら、わざわざここにやってきて、私に議論を吹きかける資格など、無い。

「これからは専門教育に一層力を入れて、実績を上げて行かなくてはならない。
 少子化も手伝って、学校は余剰体制に入る。なにかしらの付加価値がない限り、顧客にはアピールできないからな」

 ずっと成り行きを見ていたアルジェントリリが、彼女の意志を代弁するかのように声高に叫んだ。

「とにかく、とにかくなのだ。とにかく学院をバラバラにするなんてそんなことは絶対にさせないのだ!」
「やれるものならやってみるがいい。アルジェントリリ。私は負けないという自信がある」

 私は再び柱時計に目をやる。4分40秒経過、か。もう、彼女たちに割く時間は No need、No value だ。
 私は書類を手にして立ち上がった。




「さて、日野君。私が君に割り振った時間はもう終わりだ。速やかにここから出て行ってくれたまえ」
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