(まったく。……騒がしい時間が始まるな)

 星奏学院の文化祭は、体育祭と並んで学院全体が盛り上がる行事の1つだ。
 まあ、他のヤツらがどんな風に騒ごうが、俺はこの手のことに特に深い思い入れなどないけれど。
 今年はなぜだか、気持ちがざわついているのを感じる。
 加地は練習時間であることもお構いなしに、転校生であることを大義名分に日野にあれこれ話しかけている。

「ふふっ、僕、星奏学院に転校してきて本当に良かったな。こんなに活気のある文化祭が体験できるなんて予想外の収穫だよ。
 その上、明後日の2日目は日野さんと一緒に演奏もできるし」
「そうなんだー。加地くんの行ってた附属高校も華やかだ、ってウワサ、聞いたことあるよ?」
「まあ。姉妹校の女子校との交流はあったけどね。なんて言っても、レベルの高い音楽に触れられることは大きいかな。
 1年前、君と同じ舞台に立てるなんて誰が想像しただろうね」
「そ、そっか。もう、明後日なんだね」

 俺は微笑を浮かべながら、さっきの加地の音を反芻していた。
 アンサンブルを始めたばかりの頃と比べたら、幾分マシとはいうものの、
 このレベルで果たして、『学院を分割する』と明言している理事長を果たして説得できるのか。

 僕は思案する。

 秋の初めに見た、この学院の収支決算。それに、マネーフロー。
 右肩上がりに増えている赤字を収束させるためには、思い切った策が必要なのだろう。
 化石のように頭が固くなった他の理事たちを言い含め、立て直す。
 眼光鋭いあの理事は一目で切れ者だと感じた。……まあ、以前の理事よりも力がある、ということだろうか。

「じゃあ、加地くん。日野さん。それに、土浦くん。もう一度、『謝肉祭』を合わせてみようか? 最後の変調がちょっと僕は気になるかな」

 いつまでも続きそうな加地の話を切るように、僕は3人を見渡す。
 何事も器用にこなしそうな男なのに、なぜだか加地の音は時折、上達することをあきらめたような途方に暮れた音を出す。
 別に加地の肩を持つつもりはないが、ともに演奏する以上、加地に対する批判は俺の評価にもつながる。
 ……気に入らないね。

「わかりました。じゃあ、最初からさらいますよ。加地、日野。行くぜ?」
「オッケー、土浦。こっちはいつでも」

 土浦の声に、日野は真剣な表情でヴァイオリンを肩に載せた。
 
*...*...* Waltz 1 *...*...*
「失礼しまーす。……あれ? 誰もいない……?」

 カラカラと教室のドアを引く音。それに続いて、日野の不安そうな声がする。
 特別教室棟の柊館。その1番端にある生徒会室は今は閑散としている。
 ときどき起こる笑い声が、昔見た夢のように明確な輪郭を持たないうちに消えていく。
 実行委員は必ず1人、生徒会室で待機しなくてはいけない。
 このぬかるみのような時間を、俺はあてもない考え事に費やしていた。

「おあいにくさまだったな。この時間は俺が留守番をしてるんだよ」
「あ、柚木先輩!」

 ここ数日の帰り道、俺が文化祭の実行委員にかり出されていること、暇なら手伝いに来るように、と伝えておいたとおり、
 日野はなにか手伝うことがあると思い込んでいたのだろう。
 手にはヴァイオリンケースと、それに加えやや大振りな鞄を持ってきている。

「お前、なにをそんなに持ってきたの?」
「え? えーっと、その柚木先輩から実行委員の手伝いって聞いていたので、荷物を運んだりする力仕事があるのかなあ、って。
 だから、エプロンとかタオルとか、あと、軍手、っていうのかな、手袋も。筆記用具も持ってきました。あの、よろしくお願いします!」

 日野は大事そうにヴァイオリンケースを近くの棚に置いたあと、鞄の中からするするとエプロンを取り出した。

「まあ、その思いは買うけどね。お前の仕事は別にあるよ」
「はい……?」
「俺の話し相手。……お前、そこに座れよ」
「え? そうなんですか?」

 日野はあっけに取られたように、エプロンを手にしたまま俺の示した椅子に座った
 だけどどうにも落ちつかないのか、窓の外を見たり部屋の備品に目をやったりしている。

 最近日野と会うときは、いつも誰彼かが周囲にいたからか、こうして2人きりの空間、というのは妙にぎこちない。
 だがそれは、避けて通りたいと思う存在ではなく、むしろ続きを求めたくなるような優しい存在でもあった。

「今年は、お前にとっては2回目の文化祭か。楽しめたか?」
「あ、はい! あのね、冬海ちゃんと志水くんのクラスで、お化け屋敷をやってたんです。
 私、怖いモノは苦手なのに……。冬海ちゃんに誘われて見に行ってきました」
「ふふ、どうだった?」
「……志水くんが、本当に怖かったです。突然カーテンの隙間から出てきたんですけど、私、全然気がつかなくて」

 日野はそのときのことを思い出したのだろう。寒そうに二の腕をさすっている。

「……あとで冬海ちゃんから聞きました。私の悲鳴のおかげで、志水くんたちのお化け屋敷は大盛況なんですって」

 悔しそうに言う日野に俺は思わず吹き出した。
 素直すぎる日野を驚かすことなど他愛もないことだろう。日野を驚かせたという志水くんも、さぞやりがいがあっただろうと思えてくる。

「うう、柚木先輩も笑いますか……。もう、天羽ちゃんからも、冬海ちゃんからも、加地くんからもさんざん笑われたの」

 俺は、照れくさそうな笑いを浮かべている日野の顔を改めて見つめた。

 日野はまだ高2、か。
 だからあと1年、こいつには一歩大人に近づく前に、猶予時間があるということになる。
 俺が高2だったときの文化祭は何があったのだろう、と思い返して、俺は何1つ記憶がないことに驚く。

 俺とこいつを比較するのは意味のないことだとはわかっている。
 だけど、来年の今頃。
 ──── 日野は、高2の文化祭のひとときを、俺と過ごした、ということを覚えていてくれるだろうか。

「まあ、お前はお前なりの文化祭を楽しんでいるようだね。それはなにより」
「た、楽しんだかどうかは微妙だけど……。ん……。やっぱり楽しかったかな? 冬海ちゃんがあんなに笑ったの、私、初めて見たから」

 ふいに、秋の日差しが鱗雲に覆われて教室全体が暗くなる。
 いきなり訪れた沈黙に、日野は聞こえない音を探すかのように首を傾けた。

 …・…そうか、こいつを形作っているものの中で、俺が気に入っているもの。
 俺は自分自身の中にしっかりとした着地点を見つけたような気がした。


 ──── そうか。俺は、だから、お前が。


 日野は柔らかな笑顔を向けると俺に尋ねてきた。

「えっと、柚木先輩はどうですか? 文化祭、楽しんでいますか?」
「楽しんではいないかな」
「はい?」
「……今日のところは、ね?」

 わけがわからないといった表情を浮かべている日野に、俺は話し続けた。

「俺の楽しみは、明日のお前とのコンサートだよ。決まってるだろう?」
「……いよいよ、ですよね」
「熱くなるなんて柄じゃないが、少なくとも俺は今年の文化祭をずっと忘れないと思う」

 日野の目をのぞき込むようにして告げると、日野は急に不安になったのだろう。
 ごそごそと鞄の中から明日使う楽譜を取り出した。

「柚木先輩の乗り番は、3曲……。『ドナウ』は、柚木先輩と火原先輩について行く気持ちで頑張るとして、
 『謝肉祭』は重点的に練習したから、きっと大丈夫ですよね」
「お前が1番不安なのはなに?」
「『モルダウ』かな? 月森くんと志水くんの弦に囲まれて、私、足を引っ張らなきゃいんですけど……」

 日野はモルダウの楽譜を広げて、指使いを確認している。
 うつむき加減の人の顔というのは、無遠慮に見つめても気づかれることはない。
 俺は日野の睫が、思いの外長いのに目を見張った。

 こんな少しの語らいでは全然足りない、と、飢えるような感情に我ながら呆れる。

 俺が日野に対して浮かぶ感情はなんなのだろう。
 恋とか愛とかいうのとはまだほど遠いような気がする。
 だけどもし、日野の周りに俺以上に思う男がうろうろしていたら、面白くない、というこの気持ちは。

 俺と日野の間に沈黙が流れていく。
 普段の俺だったら、なんでもいい。なにか相手が気持ちよくなることを話そうと無意識のうちに考えているものなのに。
 ──── やれやれ。ありのままの自分でいられることがこれほど心地良いものとはね。

「……ん? 柚木先輩、どうかしましたか?」
「いや。なんでも? そろそろ交代の時間かな?」

 『モルダウ』の譜読みを終えたのだろう。日野は満足そうに顔を上げると、黙っている俺を不思議そうに見つめた。
 俺は内ポケットの奥にある懐中時計に目をあてる。
 午後3時。あと少しで、代わりの委員たちが戻ってくる頃、か。

「あ、ごめんなさい。ここって、実行委員の人たちのための部屋ですよね。私、もう帰ります」

 日野はふわりと椅子から立ち上がると、俺に向かって頭を下げた。



 もし、ここが、教室ではなくて。
 もっと、日野が、その手のことに慣れていて。
 そしてもっと、日野が、人の機微というものに鋭い感覚を持っていたなら。
 俺は果たして今の理性を持ち続けることができたのだろうか?

「ああ、あわてる必要はないよ。俺が引き留めたことにしておくから」
「え? あの、大丈夫なんですか?」
「日頃の行いが良いからね。こういうときは大丈夫なんだよ」

 俺は日野との時間を引き延ばすべく、立ち上がった日野の肩に手を当てて再び椅子に座らせる。
 日野はたわいなく椅子に戻されると、不安そうにドアを見つめた。
 どうやら、俺の親衛隊を名乗る女たちと、生徒会役員たち。どちらも近づかない方が得策だ、とでも考えているみたいだ。

「そうだ、お前、文化祭はもう全部見て回ったの?」
「えっと……。そうですね。見たいなあ、と思ってて、まだ見ていないところがもう1つあるんです」
「見たいところがあるなら、俺が付き合ってやるけど」
「わぁ……。いいんですか?」

 明かりが灯ったかのように嬉しそうな顔で笑う日野に、俺も釣られるようにして笑いを返す。
 離れがたい思いが、浮かんでは消える前に、また浮かぶ。
 この思いが少しでも長く続くなら、続けばいい。




(だから、今はここにいろよ)
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