「終わった、ね!」
「はい! 香穂先輩……。素晴らしいです」

 すぐ隣りにいた冬海ちゃんは、感極まったように鼻の頭を朱くしてクラリネットを握りしめている。
 私はといえば、演奏する直前まで気になって仕方なかった『モルダウ』が無事終わって良かった、という思いでいっぱいで、
 ほぼ満席になっている聴衆の反応を気にする余裕もなかった。
 月森くん、志水くんの2人が満足そうに目配せをしているのを見て、ようやく緊張がほどけてきた気がする。

 ──── よかった。なんとか、無事に演奏が終わって。

 冬海ちゃんは、私の手を握って微笑んでくれた。

「私、本番で、練習以上の演奏をできる人たちを今まで知りませんでした。香穂先輩は、数少ない人の1人だと思います」
 
*...*...* Waltz 2 *...*...*

「いやっほーーー。日野ちゃん。あんたたちスゴいよ。コンサートお疲れさま!」
「天羽ちゃん! 聴いててくれたの? ありがとう」

 文化祭の後夜祭には、必ずと言っていいほどカップルが誕生するんだよ。
 アタシがドレス? そんな時間ナイナイ。その暇があったら、私、新機種のカメラ新調するよ!

 コンサートが終わったあと、天羽ちゃんは威勢のいい声とともに、ピロティへとやってきた。
 首には大きな一眼レフ。ペンとメモも、胸ポケットで出番を待っている。
 最近は、ICレコーダーを買ったの。文明の利器ってこういうことよね、と言っていた小さな機械も、一緒に首に掛かっている。

 私と冬海ちゃんがいるここピロティでは、正装した男の子たちが目的の女の子を捜し回っている。
 ごつごつした手に、華奢なコサージュ。
 男の子が告白。女の子はそれを受ける側だ。
 承諾の意をもらった男の子は、1つの神聖なの儀式ように女の子の胸にコサージュをつける。
 そして、男の子は彼女の腕を取ってエスコート。女の子は、頬を赤らめながらそれに従う。

 入学して初めてこの話を聞いたときには、高校生ってなんて大人っぽいことをするんだろう、ってうっとりしたっけ。
 あ、クラスメイトの西川ちゃん、高3の先輩からお花、受け取ってる。……いいなあ。

 天羽ちゃんは興味津々、といった顔で聞いてくる。

「コンサートも無事すんだことだし? これで香穂も冬海ちゃんも、思い切り後夜祭楽しめるでしょ。
 どうなの? 誰かから誘いはあったの?」
「うーん……」

 私は、冬海ちゃんと顔を見合わす。
 そっか……。もし、私たちも今日のコンサートのような存在がなくて、その、部活で、とか、クラスで、という出し物だけだったら、
 この後夜祭に向けて、もっともっとなにか準備ができたかもしれない。
 だけど、少しの時間があれば、1人練習、2人練習。
 30分でも、みんなの都合が重なればアンサンブルの練習。そんな毎日で、ここ数週間は練習ばかりだったから、
 後夜祭だから、と言って、私も冬海ちゃんもなにも準備はしてなかった。
 ドレスも、その、後夜祭、というよりもむしろ、コンサートのために、って準備したものだったし。

 去年は1年生だったし、先輩たちの大人っぽさに目を奪われっぱなしだった。
 高校生の女の子って、1年生と3年生では、天と地との差があるって思えるんだもの。

「どうなの、どうなの? 冬海ちゃんは」
「あ、あの……。『誰か踊る相手はいるのか?』って聞かれただけで、あの、誰からも誘いは受けてない、です」

 天羽ちゃんの気合いに押されるように、冬海ちゃんは顔を赤らめて返事をしている。

「あちゃ……。オトコども、可哀相……。それって立派なお誘いなんじゃ……? そ、それで、香穂、あんたは?」
「冬海ちゃんと同じ、です……」

 そういえば、加地くんが一緒に踊ろう? と声をかけてはくれたけど。
 人気者の加地くんだもの。きっと、女の子側からの逆エスコートもあるような気がする。
 情けないばっかりだけど、相手が必要なことは、自分だけでどうにもならない、もん。
 今年は壁の花になってみんなの様子を見ていようかな……。

 あ、そうだ。乃亜ちゃんと須弥ちゃんはどうなんだろう。
 ヴァイオリンの練習ばかりしてて、乃亜ちゃんの新調した、っていう黒いドレスを私、まだ見てないハズ。
 もう、谷くんと一緒に講堂に行っちゃったかな?

「……って、香穂……」
「ん? 天羽ちゃん、どうかした?」

 今まで賑やかに話をしていた天羽ちゃんが、突然あっけにとられたように私の背後を見つめている。
 横にいる冬海ちゃんも私と同じ、不思議そうな顔をしている。
 なんなんだろ……?

「日野さん、ちょっといいかい。これを、君にね」
「ゆ、柚木、先輩!?」

 そこには普段、音楽科の制服を着てるだけで十分すぎるほど目立つ人が、藤色のコサージュを手に立っていた。
 さっき一緒にコンサートをしたときの式服。白っぽいタキシードは、さらに周囲の注目を集めている。

 柚木先輩が、白いタキシード。それはいい。
 注目を集めている。それも分かる。
 コサージュを持っている。それも、分かるのに。
 ──── どうして、このコサージュを送る相手が私なの?? ……私、で、いいの……?

「どうしたの? 驚いた顔をして。そんなに意外?」
「意外、です」
「……即答だな」

 柚木先輩は私にだけ聞こえる声で相づちを打つと、天羽ちゃん、冬海ちゃんに聞かせるようににこやかに話し続けた。

「僕にだって、ワルツの相手を選ぶ権利はあると思うよ。受け取ってもらえたら、嬉しいな」
「えっと……」
「さっきの件もあるし……。お前に拒否権はないよな?」
「う……。は、はい」

 鋭さを増した目で見つめられ、私は思わずうなずいていた。
 そうだった。さっきのモルダウ、最後に気が抜けたのか、私はちょっとだけ、入りを急いでしまった部分があった。
 一瞬慌てたあと、それを補うようなフルートの音が聞こえてきたんだ。
 冬海ちゃんはちょうど袖に戻っていて気づかなかったみたいだけど。
 なんとか上手くやりすごせたのは、柚木先輩の力があったからだと言っていい。

 柚木先輩は、よく妹さんの服を選んでいる、と言ってたことを思い出す。
 目の前の人は手際よく私の胸元に藤色のコサージュをつけると、冬海ちゃんと天羽ちゃんににこやかに笑いかけた。

「よく似合うよ。じゃあ、彼女を借りていくね。ふたりとも素敵な夜を」
*...*...*
 喧噪の中、滑るような軽やかなウィンナワルツの旋律が響く。

 ──── 緊張、する……。

 そうだ。さっきの大盛況のコンサートだって、こんなに視線は集めてなかったと思う。
 講堂に入った瞬間、女の子の視線全部が私の上に集まってきた気がした。
 しかも、これ、絶対好意じゃないもん。

 柚木先輩は手慣れたように知っている人に微笑みを返すと、私の手を取ってゆっくりと踊り出す。

 簡単なワルツステップ講習会、っていうのが開催されていたのは知ってたけど……。
 今日のコンサートの曲がキチンと弾けるようになるように、ってそればっかり考えて、講習会なんて出てないもの。
 どっちの足を出したらいいかもわからない。

(えっと、こう、かな……?)

 うう……。今、ここで、柚木先輩の足を踏んだら、あとで何を言われるか分からないよーーー。
 すがるような気持ちで柚木先輩の顔を見上げて、あまりの距離の近さに、私はまた下を向いた。
 どうしたら、いいのかな。
 上手に踊れない自分も、近すぎる距離も、どうしていいのかわからない。

 気がついたら、背中に柚木先輩の手が回っている。
 直接触れられているような感覚は……。そっか、このドレス、背中が開いてるから?

「どうしたの? さっきから言葉少なだね。気分が乗らないなら休むかい?」
「は、はい! ぜひ!!」

 考えてみたら……。そう。コサージュをもらってから、なんだかろくにお話もできないまま、講堂に来てしまって。
 それで、わけもわからないまま踊ってるから、余計混乱してるのかも。
 ここは、まず、柚木先輩から離れて、それで、ちょっといろいろ考える時間があれば……っ。

 そうしたら、今1番大きな場所を占めている『恥ずかしい』って気持ちを少しだけ小さくできるかもしれないもの。

 何度も必死に頷いたのにも関わらず、柚木先輩はしなやかに講堂の中央へと足を進めた。

「……なんてね。聞いてみただけだよ」
「は、はい? お休み、しないんですか?」
「やれやれ。ワルツを楽しく踊らないでどうするの。せっかく俺がリードしているんだ。お前を最高に美しく見せてやるよ」

 少しだけ、周囲の声が耳に届いてくる。いろいろ、聞こえる。
 言葉は、文章としては響いてこない。届くのは単語ばかりだ。

 『柚木サマ』。『日野さん?』。『あんな子と』。そして極めつけは、『いつまで踊り続けるのかしら』

 うう……。絶対、これ、祝福の声じゃない。──── 怖い。
 柚木先輩の息が額にかかる。……いったい、私、どうしたら、いいの……?

 私の考えを知り尽くしているように、柚木先輩は、いじわるな声を響かせ続ける。

「何を気にしているんだ? お前がそんなに自意識過剰だったとはね」
「わ、私、庶民だもの。柚木先輩と違って、こんなに注目されたことなんてないんです!」

 思わず顔を上げて言い返すと、柚木先輩は喉の奥で小さく笑った。
 うう、絶対絶対からかわれてるに決まってる!

「安心しろ。誰も見ちゃいないよ。お前なんか」
「ひ、ひどい……」

 誰も、私が柚木先輩にこんな事言われてるなんて、想像もつかないんだろうなあ……。

 自分を卑下したってなに1ついい考えは浮かばない。
 そう信じているから、なんだっていい風に考えれば、道は開けるかも、って単純な考えてで今まで来たけれど。
 純粋に振り返ってみれば、柚木先輩と私なんて星奏内の認知度で言ったら、天と地との差があること、わかってる。

(だれもお前なんか見ちゃいない)

 だけど、それを本人の口から直接聞くなんて、やっぱり、かなり寂しい。

「ひゃ……」

 元々息がかかるくらい近い距離にいるのに、柚木先輩は私の背中に回していた手に力を込めた。
 上半身が密着する。
 途端に、周囲から黄色い声が上がったような気がした。

「──── だからお前は、俺だけを見て踊ればいいんだよ」
「ま、また、そんなこと、言って……」


 からかってるんでしょう? と言いかけて顔を上げると、そこには思いもかけず優しい目の色をした柚木先輩に出会う。
 この目の色を、私はよく知ってる。
 厳しいアドバイスをくれるとき。相談に乗ってくれるとき。
 口は悪いのに、こんな目をして笑ってるから、余計、戸惑う。

 少しずつ、周囲の喧噪が消え、ウィンナワルツの旋律が消える頃、柚木先輩は私の耳元にささやいた。

「なあ、俺がお前のどこを気に入ってるかわかる?」
「へ?」
「色気のない声を出さないの。……そうだな、性格以外で。顔、なんて言うなよ」
「えっと……。ごめんなさい。全然見当もつかないです」
「ふふ。……考えてごらん?」

 なぞなぞのような問いかけに、私はまた混乱する。
 私の……? どうしたってわからないから、心の中で自分自身が好きなところを挙げてみる。

「えっと……。指、ですか?」

 最近はヴァイオリンの練習ばかりで、以前よりも少し筋ばった形にはなったけど。
 私は自分の手を見ることが結構好き、だった。
 右手に甘やかされた左手はいつも、のんきそうな顔をして弦を押さえてる気がする。

 柚木先輩は意地悪な表情を浮かべて私を流し見た。

「……はずれ」
「じ、じゃあ、どこなんでしょう?」
「この俺が正解なんて教えると思う? ……ん? 意地悪で結構」

 『勝ち目』なんて言葉がどこにもない会話の中、大きな拍手が起こった。
 そっと周囲を見回すと、1回目のワルツがいったん終了したらしい。
 踊っていたカップルは、会釈をしたり、握手をしたりと、花が咲いたような明るい雰囲気に包まれている。
 確か天羽ちゃんが言ってたっけ。ワルツは2回あるんだよ、って。
 2回目は、コサージュは渡せないし受け取れないけど、案外2回目もカップル誕生の可能性があるんだ、って。


「あ、あの。踊ってくれてありがとうございました。あと、コサージュも」

 急に背中を覆っていた温度が低くなる、と思ったら、彼の手が離れていく。
 少しだけ淋しい気持ちを抑えて頭を下げると、柚木先輩は優等生然としたさわやかな笑顔でささやいた。




「もちろん、2回目も、お前は俺と踊るんだよ?」
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