朝、私は洗面台の鏡の前で、自分の顔の配置をまじまじと眺める。
 元々、下がり気味の眉ってあまり好きじゃなかった。
 今日の私の眉毛は、自分の機嫌の良さを表しているかのように、さらに大きく下がってる。
 その事実をちょっと不満に想いながらも、浮かんでくる『嬉しい』って気持ちは抑え切れない。

「……本当に、良かった」

 12月の上旬。
 本当なら朝の布団から出ることさえおっくうになる季節。
 今日の私はお母さんに起こされることなく、布団を払いのけると勢いよく制服に着替える。
 そして、自分用の紅茶を淹れてゆっくりとダイニングテーブルに向かった。
 テレビは今日も、火原先輩のCMを流している。

『50年後、日野とおれは今と変わらずお前のそばにいることを約束するよ』

 昨日、火原先輩に告げた柚木先輩の言葉が浮かんでくる。
 火原先輩を慈しむように見つめていた柚木先輩の目の色も。

 ……嬉しかったんだ。

 先輩たち2人の姿がとても愛おしく思えたこと。2人の関係を羨ましく感じたこと。
 そして、それ以上に、自分が2人の先輩と同じ時代を生きていられることが、私、すごくすごく嬉しかったんだ。

「あれぇ? 香穂子、どうしたの? あんた、こんな朝早くに!」

 お化粧をすませたお姉ちゃんは、キッチンにやってくるなり恐ろしいモノでも見るかのように私に目を向ける。

「そ、そんなに珍しいかな? 私が朝、早く起きてるの」
「天変地異の前触れよ、これ。今夜は雪が降らないように傘の1本でも持って行かなきゃ」
「あはは、私も傘、用意しておこうかな」

 普段だったら、お姉ちゃんのそんなたわいない冗談にふくれっ面をしてお母さんにたしなめられるけど。
 今朝の私はどこまでもご機嫌。
 今日もまた先輩たちに会えるんだもの。話せるんだもの。雪でも何でも降ってきて、って気分だ。

 私はごちそうさま、と手を合わせると、カバンとヴァイオリンケースを持って立ち上がった。  
*...*...* Fifty 5 *...*...*
『君もヴァイオリニストなんだ。もっと指には気を使うべきだと思う』

 11月に入ったばかりの頃、月森くんにそう言われたことを思い出す。
 雪の降る前、って空気が音を立てて固まるんじゃないかっていうくらい、キンと冷える。
 私は弦を押さえる左手の指に息を吹きかける。
 明日から登校するときには、手袋、ちゃんとしなきゃ、だよね。

「ふふっ。香穂さん、おはよう。今日も早いね」

 後ろから優しい声がする、と思ったら、それは加地くんの声だった。
 加地くんは私の横顔を見ただけで、何かを察したらしい。
 さらにキレイな目を輝かせた。

「どうしたの? ひどく嬉しそうな顔してる。僕もラッキーだよね。こんな君に会えるなんて」
「うん! 昨日ね、その……、悩みが1つ解決した、っていうか、その、嬉しいことがあったの」

 加地くんも一緒にアンサンブルを組んでいる仲間だもの。
 昨日の柚木先輩と火原先輩の話ができたらいい、とは思うけど、やっぱり簡単に他の人に話せる内容じゃないことはわかってる。
 だから、私が今感じている『嬉しい』って気持ちを、言葉とか態度で加地くんに伝えられたら、いいな。

 加地くんはそんな私を見ると苦笑を浮かべている。

「ふふ。僕が君を喜ばせる原因になれなかったのは残念だけど。
 君が笑ってるのを今日1番に見ることができた、っていうのはラッキーだったかな」
「えっと、その、ありがとう……。そうだ、あの、今日の放課後の練習なんだけど」

 8時過ぎ、ということもあって正門前にはたくさんの生徒が行き交っている。
 私は熱くなった頬を隠すように手のひらを当てると、加地くんを見上げた。
 うう、加地くんって、どうしてこんな恥ずかしい言葉が流れるように出てくるんだろう。
 私は、いつになったら、加地くんのこういう言葉に笑顔を返せるんだろう……。

 私がカバンの中から昨日少しだけ書き込みを追加したヴィオラ用の楽譜を取り出していると、ふと、加地くんは森の広場の方へ顔を向けた。

「……うん? あれ、火原さんの音が聴こえる」
「本当?」
「ねえ、香穂さん、少しだけ行ってみようよ。森の広場の入り口かな? ……最近の音と少し違う」

 加地くんは何かに引き込まれるようにして、足を進める。
 どうしたんだろ、こんな強引な加地くんは、あまり見たことないかも。

 釣られるようにして足を進めた先、火原先輩は、CMのシルエットそのままにトランペットを鳴らしていた。
 朝霧の中に浮かぶ火原先輩は、少しだけ孤高で、自分とはずいぶん歳の離れた男の人みたいだ。

 演奏が終わったあと、加地くんはブラボーと言いながら火原先輩に声をかけた。

「火原さん、練習中でしたか?」
「うん! 今日はしっかり吹こうと思って。ここのところ気が滅入ることが多くてさ。
 こんなときはトランペットを吹くのが1番楽しいし気分転換になるんだ」
「火原先輩……」

 まだまだ学院内は火原先輩のCMの話でもちきりだもの。
 柚木先輩が懸命に火原先輩のフォローをして。火原先輩も納得はしてたように見えたけど、悩むことはあるかもしれない。

 加地くんはさらりと火原先輩の言葉を受け流して、火原先輩の言葉を肯定した。

「いいんじゃないですか? 楽しくトランペットを吹くのって火原さんらしい気がします。
 火原さんにしかできない演奏ですよ。華やかでダイナミックで」
「ははっ。そう? そっかなー」
「だから、CMはもったいなかったですね。どうして火原さんの演奏を使わなかったのかな?」
「え!? 加地くん、なんで? それ……?」

 CMの話が出た途端、火原先輩の肩が強ばる。
 そして何かを確かめるかのように、火原先輩の視線はゆっくりと加地くんから私に移る。
 私は、否定の意味を込めて必死に首を横に振る。
 どうしよう。私、今、顔色が変わってるかもしれない。

 加地くんは淡々と話し続ける。

「なんでって。正直な感想ですよ。もったいなかったと思いますけど」
「あー。うーん、そうじゃない。そうじゃなくてね、CMの演奏のこと、聞きたいんだ」
「火原さん?」
「どうして加地くんは、あの演奏、おれじゃないってわかったの?」
「僕、耳だけは無駄にいいですから」

 火原先輩の質問に、加地くんは自嘲気味な表情を浮かべて笑う。

「実は聴いたときから気になっていたんです。やっぱり音が全然違いますよ。
 なんて言ったらいいのかな。火原さんの音の方がちょっと若いですね」
「そっか……。誰も気づいてないワケじゃなかったんだ。あー。ありがとう。びっくりしたけど、嬉しいよ。なんかホッとした」
「ふふ、イヤだな。まさか火原さん、みんなに言えずにずっと悩んでたの?」
「う、うん。実はそうなんだ。もう胃がイタくてさ」
「なら、1つ僕の感想を言いましょうか? 火原さんの演奏はCMの演奏に全然ヒケを取っていませんよ」

 加地くんの言葉に火原先輩は声も出ないみたい。
 うっすらと唇を開いて、今の言葉が信じられないかのような表情で加地くんを見つめている。
 火原先輩の頬が少しずつ赤らんでいるのを知って、私まで胸が熱くなる。

「僕、火原さんが演奏者に選ばれたのは分かる気がするんです。
 だって火原さんにはオーラのようなものがある。人を元気にさせる、とびきりのね」
「オーラ? そんなのあるわけないよ。おれ、芸能人じゃないし」
「火原さん?」
「えっとね、褒めてくれるのは嬉しいんだ。だけどさ、やっぱり今はおれ、トランペットのこと、褒められたいなって思うんだよ」

 火原先輩は言いにくそうに口ごもると、愛おしそうに手にしていたトランペットをさする。
 そして真っ直ぐに加地くんと私を見ると、気持ちいい笑顔で笑った。

「おれって、今まではトランペットを吹くこと、楽しければいいって思ってたんだ。
 気の合う仲間と、楽しくトランペットを吹けたら幸せって。だけど、今回のことでよくわかったんだ。おれにはこれしかないって」

 火原先輩の口調は熱を帯びてくる。

「誰にも聴いてもらえなかったり、見向きもされなかったり、そういうのイヤだよ。
 できればおれの演奏、きちんと誰かに受け取って欲しい。ねえ、香穂ちゃん。こういうのって欲張りかな?」

 私は髪の毛がくしゃくしゃになるほど首をブンブンと横に振る。
 言葉ってもどかしい。ちゃんと伝わるように、と思いを込めて伝えてみるけれど、それでもまだ足りない。
 身振りからも伝わるように、と首を振る。

「そんなこと、ないです! 誰だってそう思うと思います」
「ええ、僕も賛成ですね。認められたいなんて当然の欲求でしょう?」

 加地くんは、そういえば、と前置きをして、無邪気に火原先輩に訊いている。

「どうして火原さんは学外のコンクールに出ないんです? とても不思議ですよ。僕でさえ出たことあるのに」
「コンクール……。考えたこともなかったな」
「コンクールならたくさんの人に聴いてもらえる。自分の正当な評価にも繋がります」
「うん。そうだよね。悩んでる場合じゃないよな。うん!」

 加地くんの助言に火原先輩はさらに顔を輝かせて、トランペットを握りしめる。
 握っていた指にさらに力が入ったのだろう。
 寒さにさらされていた白い指は、地が流れ込んだように赤くなった。

「よーし。頑張るぞー。おれ、今からもう少し練習頑張ってくる!」
「火原先輩!? あと5分で授業、始まりますよ??」

 腕時計を見ながら助言するけれど、今の火原先輩には何を言っても届かないみたい。
 火原先輩は一気に森の広場の奥まで走っていくと、私たちの方を振り向いてトランペットを持った手を思い切り振った。

「ありがとー。2人とも!! おれ、一生懸命やるね。絶対頑張るから」

 火原先輩がいったんああいう状態になったら、もう私には止められない。
 多分、金澤先生にも柚木先輩にも止められない。
 私は加地くんと顔を見合わせて笑った。

 柚木先輩だけじゃない。加地くんも、火原先輩の音に気がついていて。
 何も言わずに、見守ってくれていて。コンクール参加への助言もくれて。

『この話がとっておきの笑い話になるときまで』

 最初この話を聞いたばかりのころ、問題はとてつもなく大きくて、50年後しか笑い合えない。そう思ってた。
 だけど、火原先輩のあの様子を見ていると。
 CMに関する事実は50年先まで話せないかもしれないけれど、笑い話になる日はそんなに先のことじゃないのかもしれない。

「ふふ、行っちゃった。ね、香穂さん。あれこそ火原さんのオーラだよね」
「ありがとうね? 加地くん、ありがとう……」

 何度もお礼をいう私を加地くんは不思議そうに振り返って笑う。

「僕も、今なら言えるかな」
「え? なにを……?」






「──── 僕も、香穂さんに会えたこと。アンサンブルの仲間に会えたこと。音楽に会えたことは本当に良かったって思ってるよ」
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