*...*...* Fifty 4 *...*...*
「はぁー。今日もまたいろいろ言われるのかなあ……」

 おれはガックリと肩を落として、手の中でパンの包みを丸める。
 やっぱり元気の源といえばカツサンドでしょ、とばかりに、今日はカツサンドを3コ平らげたけど。
 どうもおれの1番の好物は、どん底にいる気分を引き上げてはくれなかったらしい。

 人と話すのがおっくうで、最近はエントランスの端にあるベンチに座って1人で昼食をすましてばかりいる。
 むりやり笑顔を作らなくてもいいし、ムリに話さなくてもいい。
 ──── なるべく、1人になりたい。

「よ、火原! なんだお前、こんなところで。最近付き合い悪いなー」
「探したぜ? 火原」
「って、あれ? 青山に長柄?」

 普通科の2人。だけど、この3年間ずっとバスケをプレイしてきた仲間たちが、目ざとくおれを見つけたらしい。
 まるでダンクシュートでも決めそうな勢いでおれの前までやってくる。

「よぅ、有名トランペット吹き。今じゃ、ウチのクラスみんなでCMの紅茶飲んでるんだぜ?」
「そうそう。今日なんて、みんなで飲んで、その後ろで火原にBGM吹いてもらおう、なんて企画もあったんだよな」
「う……、そ、そうなんだ?」

 相づちとも質問とも取れるような微妙な返事をするおれの横、トランペットが不安げに固まっている。
 おれを見て、そしてトランペットに目をやった長柄は、何を思ったのかパチンと指を鳴らした。

「そうだ。最近付き合いの悪い火原クン。今からあのCMのトランペット曲を吹いてみてくれよ」
「え? なに言ってるんだよ。イヤだよ」
「おーい。星奏学院のみなさん! 今からあの紅茶のCMで有名な3年B組火原和樹さんの即興演奏が始まりますよ〜」
「お、おい、青山? ちょっと待ってよ。おれ、まだ吹くなんて言ってないだろ?」

 戸惑うおれの肩を青山は音を立てて叩く。

「なんだよ〜。お前、前に言ってたじゃん? 観客は多い方がいい。気分が盛り上がる、って。
 ほいほい、寄ってらっしゃい〜。火原和樹の即興ライブだよん?」

 悪友たちの騒ぎに2、3人の生徒が立ち止まる。
 人混みはさらに人を呼んで、気が付くと30人くらいの生徒がおれの周りを取り囲んでしまった。

「うーー。じゃあ、少しだけ、だよ?」

 逃げるに逃げられなくなって、おれはほんの少し、サビの部分だけ音を出す。
 『双頭の鷲の旗の下に』は、クラッシックに詳しくない人でも誰もが1度は耳にしている行進曲調の曲だ。
 最初、紅茶のCMには合わないと思った。
 今のCMに使われているあんな大人びた曲調は、却ってこの曲の良さを殺している気がする。

 30秒にも満たない演奏に、集まった人たちはあれ? と不思議そうに顔を合わせる。
 だけど、おれが一礼したことで、パチパチと勢いよく拍手をくれた。

「やっぱりホント上手いよな。火原って」
「本当にCMで見たとおりだったよ。さんきゅう! おい、青山、昼バス行こうぜ?」
「おう! 火原のトランペットで元気出た。ありがとな〜」
「あ、ああ……」

 おれは力なくトランペットをケースにしまい込むと、ため息をつく。
 最近ちょっと手入れをサボってるからか、こいつは今日も情けない音でしか応えてくれない。

「誰も気づかないんだな。CMの演奏がおれのトランペットかどうかなんて……」

 グシャグシャと頭を抱えて目を閉じる。
 堂々巡りだ、これじゃあ。

『和樹。ほらほら、男の子は泣かないのよ? はい、ノドの奥で息を止めるの。そして深呼吸! そうすると涙もすぐ引っ込むから』

 小さい頃よくアニキとケンカして、そんな風に母さんに注意されたことを思い出す。
 ダメだよね。こうすることで涙は止まるかもしれないけど、飲み込んだ分の涙は心に留まるから。
 そして、思ってもみないときに溢れ出すから、余計に苦しいのに。

 目を閉じていたからだろう。カツンとエントランスの床を歩く音がやけにリアルにおれの近くにやってくるのを感じる。
 うっすらと目を開けると、そこには親友の姿があった。

「火原、大丈夫?」
「柚木! 今の、おれの独り言、聞いてた……?」
「うん?」
「あー、いや、別になんでもない。大丈夫、ってなんのこと?」

 わざわざ自分で墓穴を掘ることもない、と軽く言い返してみたけれど、柚木はいつもおれより何枚も上手だ。
 親友はじっとおれの顔を見下ろすと、ふいに声をひそめた。

「CMのことだよ。話題になってしまって、君には堪えるだろう」
「あ、ああ、そのこと? ううん、そんなことない。……えーっと、ただ、おれの下手な演奏なんかで有名になっちゃって申し訳ないな、って」

 柚木はおれの答えにふっと、全部を見透かしたような薄い笑みを浮かべた。

「なるほど、ね。じゃあ言い方を換えようか? 今の火原の悩みはなに?
 ああ、日野もそんなところに隠れてないで出ておいで。気になってるんだろう?」

 柱の影、普通科の制服の華奢な肩がぴくりと震える。
 よほどバツが悪かったのだろう。
 香穂ちゃんはおれの視線を避けるかのように、ちょこちょこと近づいてきた。

「ご、ごめんなさい! あの、隠れてたワケじゃなくて、先輩たちの前に出るタイミングが掴めなかった、というか……っ」
「結果としては同じだな。いいからもっと近くに来いよ。他人に聞こえても面倒だ」
「な、なに? 柚木。3人でこんな近くに顔寄せて」
「火原、はっきり言っておくよ」

 柚木はじっとおれの目を覗き込みながら口を開いた。

「俺はこいつからお前のCMの秘密を聞いたわけじゃない。1度CMの演奏を聴いただけですぐわかったよ」
「柚木?」
「……お前の音だからね」

 親友の言葉に耳を疑う。

 昨日は確か、柚木と香穂ちゃんがいきなりエントランスにやってきて。
 それで屋上に行って。
 おれ、てっきり香穂ちゃんが柚木に『音の差し替え』の話をしたんだと思ってたのに……?

 おれの顔色を見て考えてることを察したのだろう。
 柚木は、呆れたような、だけど、少しだけ誇らしげな顔で笑う。

「隠していたってわかる。お前の演奏はCMの演奏者の音とは全然違う」
「ん……」
「お前の音はお前の音だよ。……俺は、聞き間違えない」

 あーー、もう! やっぱり、母さんの教えは正しくない。
 さっき懸命にこらえた涙が勢いを増して、止まらなくなってくる。
 おれは唇を噛みしめながら思いを吐き出した。

「おれ、さ。トランペットだけがおれの取り柄なのに。別の誰かが吹いていることに、誰も気づいてくれなくて」
「火原」
「おれの取り柄ってなんなんだろ、って。だってそうでしょ? トランペットを取ったら、おれにはなにも残らないのに!」

 柚木はおれの言葉に頷くと、おもむろに腰をかがめる。
 そしてベンチに座っているおれの視線を受け止めるかのようにゆっくりと口を開いた。

「俺たちがお前のそばにいる。それだけじゃダメか?」
「あの、私も、同じ気持ちです! 私、火原先輩が元気になるまで、ううん、なってからもそばに、います。だから」
「ご、ごめん……。2人とも。ヘンなとこ見せちゃって」
「お前の思いは、全部俺たちに吐き出せばいい」

 柚木はいつもの貴公子スマイルで笑うと、人少なになったエントランスに目をやった。
 マズい。もう、予鈴が鳴った? ここから教室までは距離もあるし、午後の授業、間に合うかな?
 おれは袖でごしごしと目を擦るとベンチから立ち上がる。

「ごめんね、遅くなっちゃったね。そろそろ教室に行こうか?」
「ああ、そうだね。でも1つだけ訂正。お前は思い違いをしているよ」
「へ? 思い違い??」

 なんのこと? と目で訴えながら柚木を見る。
 親友はやれやれと言いたげに肩をすくめた。

「取り柄というなら火原のすべてが火原の取り柄だろう?」
「柚木……」
「俺はアンサンブルで音を合わせるというなら、まず火原を選ぶ。日野もそうだよね」
*...*...*
 次の日の午後。
 今日は管の練習をメインにやりたい、という話になって、おれと柚木、それに香穂ちゃんと冬海ちゃんで練習をする。
 午後5時の正門前は少しだけ寒い。
 演奏を止めたとたん、すっと首筋が冷え込むのを感じる。

「あ、あの! すみません。先輩方……。私、ちょっとオケ部に顔を出してこなくちゃいけなくて!」
「そうなの? 冬海ちゃん。ごめんね、オケとこっちと両方大変だよね」
「いえ、香穂先輩……。私、どちらもとても楽しいんです。だから、平気です。ごめんなさい。すぐ戻ってきますから」
「ああ。冬海さん。気をつけて行っておいで」

 すまなそうに頭を下げる香穂ちゃんの横、柚木は助け船を出すかのように冬海さんに声をかけている。
 春に出会ったばかりの頃の冬海ちゃんは、どこか小動物みたいにオドオドしてて、自分の意見を言えるような子じゃなかった。
 だけど、8ヶ月、って時間のせいかな。
 今は、わりと自分の気持ちを話してくれるようになったって思う。

 柚木は夕焼けが濃くなった空に顔を向けた。

「今朝のニュースは知ってる? この冬は流星群が見られるらしいね。特集をやっていたよ」
「へえ、そうなんだ。知らなかったよ」
「おや? テレビは見てないの? 火原」
「うーん……。どうしても、ほら、CM見ちゃうからさ。だから最近は、テレビ見ないことにしてるんだ」

 香穂ちゃんはハッとした顔でおれを振り返った。

「ごめんね。ちょっとは考えたんだよ。2人に言われた少しは前向きに考えなくちゃって。でもまだどうしても……」

 ごめん。と口の中でつぶやいた言葉は2人には届かないかも。
 あー、おれダメだよね。あんな風に励ましてくれた2人に、なんにも返せてないっていうか。
 こんなところを見せちゃうなんて。

 柚木はおれを励ますような優しい口調で、おれが思ってもみなかった考えを聞かせてくれる。

「ねえ、火原。CM出演はお前にとって決してマイナスなだけじゃない。
 音楽家としてやっていくなら世間に名を知られる機会はやっぱり貴重だ。この際だから利用させてもらうのも1つの手だよ」
「利用……・。そんなこと考えられないよ。やっぱりすごく苦しいんだ。みんなにウソをつき続けるのって」
「ウソでも構わないだろう。『嘘から出た誠』、というじゃないか。お前の音楽は本物だよ。火原」

 香穂ちゃんは柚木の言葉に付け足すように、真剣な顔で訴えてくる。

「私……。火原先輩のトランペット、すごく好きです。きっと私と同じこと考えてる人、たくさんいると思う。
 だから、火原先輩も先輩自身の音楽を信じていいと思うんです」

 香穂ちゃんは強い眼差しでおれを見つめてくる。
 冬の初めの残照に照らされた香穂ちゃんは、普段以上に可愛くて。
 そしてなんだか頼もしい。

 ……なんか、ヘンなの。
 本当はおれの方が1つ年上なのに。オトコなのに。
 ホントなら、落ち込んでいる香穂ちゃんを励ましたり、慰めたりするのはおれの仕事のハズなのに。

「冷静になって考えてみろよ。火原は自分が信じられない?」
「信じられない? どういうこと?」

 柚木はあごに手を当てると諭すようにおれに話し続ける。

「たとえ、あのCMに虚構の部分があったとしても、今のお前の音楽に偽りはないんだよ。
 いつか本当にお前の音楽が認められる日がくる。お前は俺が認めたライバルなんだから」
「柚木……、そんな、おれなんか柚木の足元にも及ばないよ。ライバルなんて、さ!」

 しどろもどろな言い訳を口にしながら、おれは少しだけ親友の言葉の中の本音を知る。
 いつもスマートで、華やかで。
 おれのことを『ライバル』だなんて思ってたなんて、直接聞いた今でも信じられない、けど。

「まあ、お前がどうしても納得できないなら、今、ひとつ良い方法を思いついたぜ」
「な、なに? どんな方法? 教えて!」

 柚木が思いついた、っていうなら、きっとスペシャルな考え方に決まってるよな。
 今のおれの悩みもどこか飛んじゃって。それでいて、CM関係者にも迷惑がかからない秘策。
 どんな方法なんだろ?

 柚木は内緒話をするかのようにさらに声を落として話し続ける。

「こうしたら、どう? 今から50年経ったら、本当のことを世間に公表するんだ」
「50年?」
「ああ、そのころにはさすがに時効だろう? CM関係者だって文句は言わないさ」
「うーん。なんか、分かるような分からないような……」

 なんだか考えれば考えるほど、柚木のアイデアっていうのは、詭弁っていうの? こじつけ、って言ったら失礼かな?
 おれの悩みを根本的に解決する、ってモノじゃない、気もする。

 柚木は、おれの屈託にかまうことなく話を続けた。

「いいかい。50年後だよ。そのときがきたら、世間にちゃんと真実を知ってもらうんだ。
 だから、そのときまでは事実は事実として大事に胸の中にとっておけばいいんだよ」
「うん……」
「……この話が、とっておきの笑い話になる時まで。わかった?」
「うん。そうだね、50年経ったら言えるかも。そのときまで、か」

 おれは目の前にいる柚木の50年後を想像して少し笑う。
 高校に入ったばかりの頃、1度だけ柚木のお父さんを見たけれど。
 柚木のお父さん、いかにも品の良さそうな、髪の毛の豊かな人だったことを覚えてる。
 だけど50年後、外見はどんなに変わったとしても、中身は今の柚木のままなんじゃないかな。そう思える。
 ──── こんな風に、おれのこと気遣ってくれる親友のままなんじゃないかな。

「50年後かー。そのとき、おれ、どうなってるのかな。もうおじいちゃんだよな。香穂ちゃんもおばあちゃんだ」
「ん……。自分の姿はあまり想像したくないけど、そう、ですね」

 女の子っていうのは年齢に対してオトコとはまた違う考え方があるのかな。
 香穂ちゃんはいかにも複雑そうな顔をしている。

「万が一、そのときまだ世間がお前を非難しても、日野とおれは今と変わらずお前のそばにいることを約束するよ。ね、日野?」
「柚木」
「ふふ。もちろんそのときは俺たちもすっかり歳だけど、そんな味方じゃ火原は要らない?」
「……ううん、まさか! すごく嬉しい。おれも一緒にいたいよ。今も、50年後も」

 胸の奥に満ちてくる優しい気持ちが、少しずつおれの痛みを溶かしていく。


 ──── もう、いっか。もう、いいよな。

 こうして、おれの音楽のことをわかってくれる仲間がいて。悩んでくれる仲間がいて。
 話せば、答えてくれる。話さなくても、察してくれる。
 そんな仲間と50年先も一緒にいる約束さえできた。

 って考えるとなに?
 おれがCMに出たことには価値がある。
 柚木や香穂ちゃんと50年も近くにいることができるという約束を手に入れたという価値があるんだ。


 柚木は、おれの様子に安心したかのようにほっと表情をゆるめると、香穂ちゃんの方を振り返った。

「それじゃあ、今度は3人で合わせようか。日野、お前、4楽章後半、少しだけピッチが遅くなっていたよ。
 後半、管の人間は大変なんだ。お前がテンポを遅めてどうするの?」
「そ、そうでした、ごめんなさい。もう1度やらせてください!」
「もう少し、俺や火原に気を遣ってほしいものだね?」

 香穂ちゃんは柚木のお小言に、ちらりとおれを見て笑っている。
 おれが笑い返すと、さらに大きな笑顔になる。
 そんな香穂ちゃんとおれを見て、柚木も困ったように笑い返す。

 あーー、もう。
 今、おれの近くにいる2人に、どんな言葉を伝えたらこの想いは伝わるのかな?
 『ありがとう』? 『感謝してる』?
 ダメだ。そんなんじゃまだ足りない。どんな感謝の言葉を言ったとしても、伝える自信がない。
 だから、その代わりに、おれは今の思いを音にする。
 これからも2人の気持ちに気づけるように。失わないように。

 おれは柚木と香穂ちゃんの間に身体を滑り込ませると、2人を見て笑った。





「おれ、今、すっごく練習したい。ね、早く3人で練習しようよ!」
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