だが俺は、数日前から親友の小さな変化には気づいていた。
心ここにあらずといった様子で、教科書の表紙に手を置いている親友の横顔に目をあてる。
覇気のない顔は、第4コンが間近に迫っていることも、秋が深くなった空にも気づいていない。
*...*...* Fifty 3 *...*...*
さて、どうしたものか。数日前からの火原の様子から、火原がなにかを隠しているのは事実。そしてその隠しているモノというのはCM絡みであることも濃厚だ。
日頃、TVは邪悪なモノだといいたげな環境の中にいて、俺は火原のCMというのを見る機会がなかったけれど。
疑問が確信に変わったのは、妹の雅のケータイから流れる音を聴いてからだ。
『あら、お兄さま、まだ火原さんのCMを見てないの? ごらんになる?』
『へぇ。お前、データを持ってるの?』
『ええ。学校の友だちがメールに添付してきたの』
雅の学校でも火原のことが有名になっているのか、妹は携帯を取り出すと手際よく火原の映像を表示する。
『ふふ。火原、結構、格好良く映っているね』
『そうね。このBGMも素敵ね。紅茶とクラッシックってピッタリ合うわ。
どちらかというと弦の方が合うとは思うけど、トランペットも悪くないわ。もちろんフルートでも』
CGなのだろう。小さなシルエットの火原が少しずつクローズアップされていく。
背景は、今の季節。枯れ葉が散りゆくさまから、少しずつ粉雪が降るシーンに変わる。
BGMは『双頭』。かなり落ち着いた曲想だ。
(この音は……?)
改めて火原が手にしているトランペットを確認する。
シルエットの彼が吹いている相棒は、いつも学院で使用しているモノ。
映像と、音を見比べ、聴き比べる。
CMのディレクターは、音楽にあまり造詣がない人間なのか。
こんな壮年を越えて円熟に近いような音と、高校生の火原の映像を結びつけるなんて。
「……お兄さま? どうかした?」
自分に似た白い面輪が不思議そうに傾くのを見て、少しだけ安堵が広がっていく。
ふぅん。なるほどね。
実際の映像と音。2つの違いに気がつくのは、俺と火原の距離が近いから、か。
(火原……)
その日はあれこれと、とりとめのないことを考えている間に放課後になった。
音楽科というのは、1日の長さが曜日によって違う。
実技が多い曜日は、1日が数時間のように感じられるし、講義が多い日は1日が3日にも感じられる。
今日のような実技の多い日というのは、今の火原にとってはラッキーと言えるかもしれない。
今の状態について、1度直接火原に尋ねてみようか。
それとも、……昨日、火原の行方を捜しに行くと言っていた日野なら何か知っているか。
案外日野に近づいた方が、簡単に現状が把握できる、か。
日野が練習しそうな場所は、と俺は頭の中でシミュレートする。
ふふ。あいつにナビを付けておこうかと思ったのは夏休みが終わったばかりの頃。
それが今は、天気。それにあいつの顔色。
それに加えて、あいつが練習しそうな曲の習熟度を考えるだけで、だいたいどこにいるかわかる俺がいるのが可笑しい。
俺の足はあいつの背中を見つけると、忠実にその方向に向かう。
第4コンまであまり時間がない、というのに、今日の日野はどういうわけかぼんやりと譜面を見ては溜息をついている。
「日野。お前に少し話があるんだけど」
「あ、柚木先輩! ありがとうございます。私も、です」
「お前も?」
「はい。あの、火原先輩のことで」
「なるほどね。話したい内容まで同じってことか」
日野は大きく頷くと、パタパタと楽譜を閉じヴァイオリンケースを持ち上げた。
「できれば私、火原先輩と柚木先輩の2人とお話したいです」
「まあいい。火原を探す道々、お前の話を聞こうか? 火原がどうしたって?」
「はい? えっと、……それは」
「なに? 火原に口止めされてるの? じゃあ、俺の質問にYesかNoで答えてくれればこちらで適当に判断するよ。いい?」
「それは……。口止めされているわけじゃないですけど、私から言っていいことなのかわからないので」
だから言えないこともあります、と、珍しく日野は俺の問いかけに口ごもる。
素直な日野も可愛いと思うが、こういう誰に対しても律儀なところも嫌いじゃない。
俺は少しずつ包囲網を狭くしていく。
「昨日あれからお前は火原を探しに行った。そこで会った。話した、と」
「はい……。そうですね。合ってます」
日野は余裕なのか、まだ笑みを浮かべたまま俺の問いに頷く。
「多分、CMの話を聞かされた」
「え? あの、どうして……?」
「Yesなの? Noなの?」
「……それは、あの!」
「お前の動揺っぷりから、この問いもYesってことね。じゃあ次の質問」
俺は日野の行く先を遮ると、ゆっくりと口を開いた。
「言われたんでしょう? 『あのCM。あれはおれの演奏じゃない』って」
「な、なに言って……っ!」
「図星、ってことね。簡単に公表できないのはなにか契約絡み、ってところか……」
日野の今にも落ちそうなほど見開いた目を見て、納得する。
火原の沈みきった様子。褒められるたび、辛そうに顔をゆがめる理由はそこか。
「マズいな」
「はい? マズいってなにが……?」
「俺は、お前よりあいつとの付き合いは長いからね。火原の次の行動を想像するに、ちょっと急いだ方がいいなと思っただけ」
*...*...*
火原は1人きりになりたい場所を選ぶだろうかと、練習室を1部屋ずつ探して。森の広場に行ってみようかと足を向けたとき、エントランスの端から、天羽さんの甲高い声が耳に届いた。
「えーと、じゃあ火原先輩、次の質問行きますね。CM第2弾があったら出演したいと思いますか?」
「出演なんてしない。2度とごめんだよ。こんなの」
「え? ええ? どうしてですか? 学院中すっごく盛り上がってるのに??」
天羽さんの声に反して、親友の声は低くくぐもっている。
やれやれ、なんとか間に合ったみたいだな。
俺は日野と目を合わせると、2人の間に割って入った。
「あのさ、天羽ちゃん、おれが今から言うこと記事にしてくれる?
それか明日の昼休み、放送室、予約できるかな。おれが直接公表してもいい」
「ダメだよ? 火原」
「ま、待って! 天羽ちゃんも、火原先輩も。お願い、待ってください!!」
「へ? あ、わわ! 柚木先輩、それに、香穂? あんた、どうしたの、息せき切って」
俺たちは理由を言わずに火原を背後に隠す。
「天羽さん、取材の途中にごめんね。火原に話があるんだけど少し借りてもいいかい?」
「ごめん! 天羽ちゃん、また今度埋め合わせ、させて?」
日野は顔の前で手を合わすと、天羽さんにぺこりと頭を下げた。
そんな様子に天羽さんも感じるところがあったのか、はぁ、と盛大なため息をついて持っていた手帳をぱたりと閉じた。
「うーん……。このネタ、もしかしたらボツなのかもね」
「ボツ……?」
「そう。良いネタ、っていうのは、情報の方からこっちに向かってくるのよ。書いて書いて、記事にして、って。
だけど、火原先輩のCMネタはいつもこう、ジャマが入る、というか、ね? 昨日は金やんがソッコーで割り込んできたし」
「天羽ちゃん、ごめんね。本当にごめん」
「火原、ちょっと僕たちと一緒に来てくれるかい?」
少しだけ天羽さんには申し訳ないという気持ちも無いわけではなかったが。
ぎりぎりのところで間に合ったという感覚は、今の俺にとっては安堵の気持ちをもたらしてくれた。
俺は火原の手を引くと、屋上のさらに上、風見鶏が舞うフェンスの端に向かう。
日野はぎゅっと唇を噛みしめ、火原の背に手を添えるようにして着いてくる。
時折、風見鶏はカラカラと悲しげな音を立てた。
それにしても……。
日野が、ここまで火原のことを気にかけるのはなぜだろう?
アンサンブルの先輩。仲間。いや、もっと、それ以上の感情があるのだろうか。
強引にここまで引っ張ってきたからだろう。
火原は不審そうに俺の手をほどくと、ふてくされたように俺と日野を見上げた。
「どうしたの? 2人とも、こんなところまでさ」
「火原、CMの演奏のこと、今、学院中のみんなに公表しようとしたでしょう?
CMに著作権が存在するのは知ってるよね。君も何か契約書を書かされているはずだ。余計なことは話さないって」
単刀直入に問いかける。
親友は一瞬だけビクっと肩をふるわせたものの、それがかえって力を抜くには良かったのか、堰を切ったように話し始めた。
「友だちも先生もみんなCMのこと褒めてくれる。おれの演奏、すごいねって。
やめてほしくて、おれ、何度も叫びそうだった。あれはおれの演奏じゃないって」
「今更公表してどうするつもりなの? 誰も喜ばない。傷つくのは火原だよ」
「それでもいい。イヤなんだよ。今のままの方がおれには辛い。おれ、やっぱり今すぐ天羽ちゃんに言ってくる」
「火原。ねえ、お願いだから、思いとどまってくれないか?」
「ごめん、柚木。柚木がおれのことを心配して言ってくれてるのわかってる。だけど……」
「火原先輩、もう少しお話しましょう?」
日野は必死に火原を説得する。
だが火原は駄々っ子のように頑なに首を振った。
3年間付き合ってきたのだからよく分かる、火原の真っ直ぐな性格。
だから、今の状態が火原にとって苦しいのもよく分かる。
だが、このときの俺は、この素直さが羨ましくて、妬ましかったのかもしれない。
──── 日野に、心配されている。
そのポジションにいる、親友のことが。
「いい加減にしろよ。さっきから聞いてれば傷ついただの、辛いだの。お前、高3になってそんなことしか言えないのか?」
「柚木先輩! そんな言い方は!」
「日野、お前はいいから黙ってろ。……火原は結局自分がスッキリしたいだけなんだろう?
お前が思ってるほど世間は甘くない。一度公表すれば、CMの関係者はもちろん、お前の代役や、この学校まで巻き添えを食う。
お前、そこまでの覚悟はできているんだろうな?」
「先輩、それ以上はダメです!」
俺の剣幕に日野は怯えたように顔色を変える。
しかし健気にも俺から火原を守るかのように、2人の男の間に身体を滑り込ませてきた。
自分より小さな身体が精一杯両手を広げている姿に、火原は顔をクシャクシャにして日野の肩を掴んでいる。
「……柚木」
「こんなところは一生、日野以外に見せるつもりはなかったんだけど。驚いた?」
火原は小さな子どものようにこくりと首を縦に振る。
その様子は本当に幼くて、つい、俺と親友は同級生だってことを忘れそうになる。
「でも……。おれのこと心配してくれてるってこともよくわかった」
「そう。じゃあ、僕の話を聞いてくれるね」
俺は筋道を立てて説明する。
今すぐ公表はしなくてもいいこと。自暴自棄にならないこと。
他に納得できる方法があること。
周囲にとっても火原にとっても最善の道を選ぶことこそ、大切だということ。
「だけど、柚木……」
「君が今、思い描く方法よりも、きっともっと良い方法がある。僕たちと一緒に考えよう? 火原」
俺たちの成り行きをオロオロとした様子で見守っていた日野は、ようやくここで緊張が解けたのだろう。
ふわりと嬉しそうに微笑んだ。
「きっと、そうです。その……。私はあまり頼りにならないけど、でも。
柚木先輩がいてくれたら、3人分どころか10人分の知恵が集まりそうです」
まだ、日野の両肩に火原の手が乗っている。
それが気に入らなくて、俺は日野の小さな鼻を摘んで言い返す。
「ふふ、『知恵』を『悪知恵』と言わなかったところは、評価してあげるよ」