「どうしよう。今朝は寝坊だよ〜。間に合うかな」
「もう、香穂子ったら落ち着きがない。5分でも早く起きればいいのに」

 立ったまま紅茶を飲む私に、お姉ちゃんはあきれ顔で振り返る。
 だけど、毎日、家に帰ってから譜読みをして、それにちょっとだけ宿題もして。
 正直、お姉ちゃんより、私の睡眠時間は短いって思う。
 朝の5分眠るのだって、すごくすごく貴重なんだから!

 テレビで時間を確認する。
 6時55分。あと20分で用意、できるかな?
 朝ご飯食べている間に、今日の占いを見て。天気予報を見て。

「えっと、今日の私の運勢は……っと。あ、お姉ちゃん、1位だよ。いいなあ」
「ふふっ。香穂子もきっといい日になるわよ」

 高校に入ったばかりの頃、占いだけを見て家を飛び出していた。
 だけどヴァイオリンを始めてからの私は、わりと熱心に天気予報をチェックする。
 今日の天気は晴れ。降水確率は10パーセント。
 だったら、ラッキー。
 今日は、ヴァイオリン用の防水ケースも、折りたたみの傘も要らないってことだよね。

 教科書よりも今は絶対忘れちゃいけないのが第4コンの楽譜。
 今日は『牧神』を中心にやるって土浦くんが言ってたっけ。
 第4コンまであと少し。楽譜と、お気に入りのマーカーペンだけはしっかり持って行かなきゃ。

 テレビ画面は元気いっぱいのお天気お姉さんを下からのアングルで映したあと、CMへと変わった。
 ワーグナー作曲、『双頭の鷲の旗の下に』が渋めのテンポで流れている。

「あれ……? は、はい!?」

 トランペットの音に改めて画面を眺めると、そこには見覚えのある人が背中を反らして相棒を奏でていた。
 
*...*...* Fifty 2 *...*...*
(あれって、やっぱり……。やっぱり、火原先輩、だよね?)

 私の手は何度もケータイのメール画面を開いては閉じている。
 天羽ちゃんなら知ってるかな、と思わないでもなかったけれど、それより、火原先輩にちゃんとお話を聞いた方がいいよね。

 だけど、昨日の火原先輩の沈んだ様子が気になる。

『ねえ、香穂ちゃん。大人になるってどういうことだろ? イヤだと思ってもガマンすること?』

 苦しそうな問いかけは、あのCMとなにか関係があるのかな。
 もしそうだとしたら、直接本人に聞くということは、火原先輩を追い詰めることになるのかもしれない。
 どうしたら、いいかな。

 ケータイ画面を見ながら歩いていたからだろう。
 正門前でふと顔を上げるとそこには、金澤先生と柚木先輩が立っている。
 柚木先輩は、おはよう、と優しい声をかけてくれながらも、目が笑っていない。
 え、えっと……?

「おはようございます! 金澤先生、柚木先輩」
「……お前ね、歩きながら携帯を弄ってないの。品がないし、第一危ないだろう?」
「は、はい!」

 耳元でのお小言に、一瞬金澤先生に気づかれたかも、と顔を上げる。
 すると、意外にも先生は、登校してくる生徒の顔を食い入るように見つめていた。

「なあ、日野。お前さん、火原を見なかったか?」
「火原先輩ですか? いいえ……」
「そう、日野さんも見ていないんだ。どこへ行ったんだろう」
「えっと、まだ登校してない、とか?」

 口ごもりながらそう言うと、金澤先生は口元に小さな笑みを浮かべながら、もう一度登校してくる生徒の波に目を当てた。
 そうだよね。火原先輩は普段は朝1番に登校するタイプだもの。
 8時過ぎのこの時間にやってくるってあまりない。
 それに12月に入ってからはずっと、自主練と称して7時過ぎにやってくることもあるくらい、で。

 ──── 火原先輩、本当にどうしたんだろう……。

「おはよう、みんなそろってどうしたの?」

 金澤先生、柚木先輩、それに私の3人でファータ像の近くに立っていると、長身の男の子が近づいてくる。
 加地くんだ。
 制服にピアス、って本当なら校則違反だ、って厳しい先生なら文句を言いそうなくらいなのに。
 どうしてだか加地くんにはそう言ったクレームはつかない。
 だけど、つかない理由は何となく分かるような気がする。
 加地くんには、どこか人を引きつける魅力があるんだもの。

 金澤先生は、のろのろと加地くんの方に顔を向けた。

「ああ、加地か。ちょっと火原のヤツを探しててな」
「火原さん? 火原さんと言えば、驚いたよ。火原さんってCMに出てるんだね」
「そうなんだ。加地くんも、見たの?」
「ふふ、香穂さんも? だったらラッキー。僕たち、離れた場所で同じものを見ていたってことだね」

 加地くんは本当に嬉しそうに笑う。
 そんな加地くんを見るのは嬉しいけれど……。ごめん、今は火原先輩が気になるよ。

「火原さんのCM、今日が放映初日だって聞いたよ。朝の時間帯に流れたから見た人も多いみたいだね。周りも騒いでた」
「え? さ、騒いでたの?」
「まあね。自分の知ってる在校生がCMに出演って、ちょっとした話題だろうから。
 でもCMのトランペットの音……。香穂さん、気づいてた?」

 加地くんはちょっと声をひそめる。
 そして、私を見て。周りに金澤先生と柚木先輩の視線に気づくと、ふっと肩をすくめた。

「うーん、僕の聴き間違いかもしれないな。……それで当の本人の火原さんはどうしたの?」
「さっきまでそこにいたんだが逃げちまってな。ちゃんと戻ってくりゃいいんだが。
 まあ、いい。お前さんたちはそろそろHRの時間だろ? あとは俺がなんとかしとく」
「いえ、あの、私、火原先輩を探しに行ってきます!」

 いてもたってもいられないような気がして、私は手にしていたカバンを握り直すと、金澤先生を見上げた。
 昨日の火原先輩の言葉がよみがえる。
 私、今、ちゃんと火原先輩に会わなかったら、後悔する。そんな気がする。

 私の行動を見て、どういうわけか柚木先輩はほっと安心したような笑顔を浮かべた。

「……ああ、僕からもよろしく頼むよ」
*...*...*
「どこ、行っちゃったんだろう。火原先輩」

 私は1限目が始まったばかりの学院の中を走り続ける。
 加地くんにカバンを運んでもらえば良かったかも、と思わないでもなかったけど、
 机の上に、主のないカバンが置いてあるのもおかしいよね。

 火原先輩は、授業に使いそうな音楽室や、練習室。それに講堂にはいない気がする。
 きっと悩みを1人で抱え込んで、独りきりになりたがってる。そんな気がする。

 森の広場。人気のない中庭。観戦スペースの柱の影。
 半分諦めかけて、一番最後に行き着いた屋上に、火原先輩は居た。
 凍りそうなほど透き通った冬の空の下、彼は昨日と同じベンチに座って、ぼんやりと空を眺めている。

「……やっと、見つけた」

 そっと開けたつもりだったのに、屋上へと繋がるドアは鈍い金属音を立てる。
 その音に弾かれるように、白い背中はぴくりと肩をふるわせた。

「あ、香穂ちゃん! ど、どうしたのこんなところまで」
「火原先輩を、探してました」
「ははっ。おれのことなんか、別に探さなくていいのに」

 火原先輩は泣きそうな表情で笑い声を上げる。


 ──── そんな顔、見たいわけじゃないのに。


 私は昨日と同じように火原先輩の隣りに座ると、彼と同じ方向にある雪雲を見上げる。
 あと半月で第4コンがやってくる。クリスマスもやってくる。
 雪が降ってホワイトクリスマスになったなら、星奏学院を分割するって言ってる理事長にリリの魔法がかかるといいな。

「……私、今日は火原先輩と一緒に、サボりです」
「香穂ちゃん?」
「火原先輩が話してくれるまで、授業はのんびりサボることにしました」

 私に釣られるように火原先輩は小さく笑う。
 笑うことで人の唇は柔らかくなるのかな。
 2、3分の沈黙のあと、ようやくぽつりぽつりと火原先輩は口を開いた。

「……CMに流れてるトランペット、あれはおれの演奏じゃない。別の演奏家のプロの吹き替えなんだ」
「ごめんなさい。あの、紅茶のCMですか? 今朝、少しだけ聴きました。『双頭』が流れてる……」

 『CM』という言葉が出たとたん、火原先輩は堰を切ったように話し始めた。

「うん。もちろん、イヤだって言ったんだよ? でも、CMの監督さんがおれの演奏は使えないって言い返されて。
 君はシロウトでただの高校生なんだから、そんな演奏、全国に流せないだろ? って」

 私は先輩の言うことを頭の中で咀嚼する。
 つまり、それは……。
 トランペットを吹いている映像は火原先輩そのもので。
 映像と一緒に流れている音楽は、火原先輩の音じゃない、ということ?

「おれ、てっきり自分の演奏を収録したの、使ってくれるんだとばかり思ってた」
「それは、そうです。そんな、映像と音声、別々のを使うなんて思いませんよね」

 考えれば考えるほど怖くなる。
 これだけいろいろな機器が発達した今、TVに映っていることは真実だ、って確信を持って言えるモノはないのかもしれない。
 私が毎日見ているニュースだって。
 事実は事実として報道されていたとしても。
 それは200パーセントに拡大解釈されていたり、10パーセントに過小評価されていたりするのかもしれない。

「おれ、CMの演奏を褒められると苦しいんだ。みんなを騙してるみたいで。できればみんなにホントのこと言いたい」

 火原先輩の言葉に大きく頷く。
 先輩の音色はどこまでもまっすぐで、迷いがなくて。
 『ウソ』という言葉から一番遠くにいるような音なんだもの。

「だったら、その、みんなに伝えたらどうでしょう? あの音は差し替えなんだ、って。おれのじゃないんだよ、って」
「だけどね、おれ、言いたくても言えないんだよ。CMの秘密を守るって約束、秘密保持契約ってヤツ、結んじゃったから」
「あ……!」

 難しい単語の羅列をすぐには理解できなかったけれど。
 苦しそうな火原先輩の横顔と、『契約』という言葉が、私の胸を突く。
 これは、周囲の人に簡単に伝えてもいいって話じゃない。

 きっとCMを褒められれば褒められるほど、火原先輩は苦しむことになる、ってこと……?

「だから、ごめん、この話は内緒にしておいて」
「は、はい! それはもちろんです!」
「今朝、正門通ったら、もうCMのことで もちきりでさ。おれ、一生懸命笑おうってしたんだ。でも上手く笑えなくて……」

 気が付いたら、ここにいたんだ、と、火原先輩は淋しそうに肩をすぼめた。


 ──── 今まで、火原先輩のことを、好きだとかキライだとか考えたことはなかった。
 笑顔でいてくれるのが当然で。元気いっぱいのトランペットが当たり前で。
 当たり前のありがたさに、私、全然気づいてなかった。

 火原先輩に笑って欲しくて、私はむりやり笑顔を作る。
 そして朝の金澤先生の様子を彼に伝えた。

「そ、そうだ。あの、朝ね、金澤先生と柚木先輩が心配してましたよ? 火原先輩が逃げちゃった、って」
「ははっ。逃げちゃった、か〜。大正解だよ」





 先輩の口から白い息が浮かぶ。
 細く小さく、白い空に吸い込まれていく様子は先輩の心細さそのものだった。
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