*...*...* Welcome (1/2) *...*...*
『もう、今日さぁ、最っ高におれ、楽しかったよ。
 柚木と一緒に音楽やってきてよかった、って思う。アンサンブルのみんなに会えたこともよかった、って思う』
 
 12月の中旬。
 発起人の天羽さんを含む、アンサンブルメンバーのみんなに誕生日のお祝いをした火原が、
 今日は打って変わって沈んだ表情をしている。
 今は、3限目。
 2限目と3限目の間に、音楽史の谷山先生に呼び出されているのを目の端で見ていたけど。
 もしかしたらそれが原因、か。
 
 だとしたら、入試までにどうしたら成績を上げることできるか。
 なんて、いわゆる受験生らしい悩みを抱えてる、と言ったところか。
 
 飲み込みの善し悪しはあるものの、勉強というのは習慣性環境に左右される。
 ペーパーで求められるモノは、秩序だった知識の系統立てができるかどうかだ。
 
 ──── あいつは、どうするのだろう?
 
 昨日の火原の誕生会では、土浦と加地に囲まれて、彼らが熱っぽく語るのを楽しそうに聞いていたが。
 俺が、こうして、この時期になってもなお、音楽の世界に引き留められているように。
 あいつも、迷ったり、悩んだりしているのだろうか?
 
 昼食の時間になっても肩を落としたままの火原が気になって、俺は火原の席へ向かった。
 
「火原。どうしたの? もうお昼だよ? よかったら一緒に行かない?」
「あ、柚木……」
「どうしたの? 素直なところは君のいいところだけれど。
 昨日あんなに元気だったから、よけいに心配だよ。……大丈夫かい?」
「あの、さ……。柚木はどうしてフルートを始めたの?」
「は?」
 
 いきなり、突拍子もない質問をされて面食らう。
 って、曖昧な返事をするのも、本意じゃない。
 見上げてくる火原の目の色は真剣で、やはりそれなりの答えを用意しなくちゃいけない、か。
 それとも、さらりと流すのがいいのか。
 
「それは……。そう改まって聞かれると答えづらいな。それがどうかしたの?」
「うん……」
 
 火原は答えがまとまらないのか、頭の中に指をつっこむと、ぐしゃぐしゃと頭を掻いている。
 そして数秒の後、なにかを吹っ切るように頭を振ると、勢いよく立ち上がった。
 
「あーー、もう! 聞いておいてごめん。自分の中でまだ考えがまとまらないから、上手く言えないんだけど。
 ……でも、ちょっとほっとした」
「火原?」
「……柚木でも答えられないことがあるんだなあ、って」
「ふふ。僕も人間だからね」
「あ、昼メシの話だったね! もうこの時間じゃ購買は難しいから、カフェテリアにしようか」
 
 火原はいつも通りの明るさを取り戻すと、俺の前を歩き出す。
 
 ──── 俺がフルートを始めた理由、か。
 
 真っ先に思い浮かぶ考えは、『兄たちがフルートをやっていなかったから』という極めて消去法的な回答。
 理性の水面下に仕舞い込んだ感情は、本当はピアノを求めていたのだろう。
 たまに聴くピアノの旋律は、俺に幼い頃の泣き顔と、鍵盤の上に散らばった涙の跡の映像を連れてくるから面倒だ。
 
(何事においても、俺は兄たちを越えてはならない)
 
 それは、来年進学する大学にも同じことが言えるのだろうか。
 
「人を欺くより、自分を欺く方が難しい、か……」
「ん? ごめん、柚木。なにか言った?」
 
 廊下で会った級友と声高に話していた火原は、不思議そうに振り返る。
 俺は黙って首をふると、火原のあとを追った。
*...*...*
 放課後。俺は天気のいいことを理由に、観戦スペースまで来ていた。
 グラウンドで、サッカーの試合が行われている。
 気持ちに、自分では昇華しきれない澱(おり)があるときは、
 こうして人に紛れて、歓声に揉まれて。自分の中のノイズも消してしまった方がいい。
 
 赤いゼッケンをつけたチームが逆転したのか、ひときわ大きな歓声と拍手がこの場所を包む。
 
「多少、埃っぽいのは許容範囲、というところか」
 
 俺は背筋をピンと伸ばすと、自分の相棒に唇を寄せた。
 
 クリスマスコンサートまで、あと、2週間を切った今。
 日野自身の考えをまだ聞いたことがなかったけれど、今は大体6曲くらいをメインに練習している。
 その中で、これからの仕上がり次第で、3曲を選ぶ、という考えだろうか。
 俺は4曲のノリ番がある。
 これだけでもかなり大変だと思えるのに、日野は6曲。
 いや、さらに、俺の知らない曲も練習しているのだろうか。
 俺でさえ、ゆとりのないスケジュールの中、あいつは、どうやって時間を捻出していのだろう。
 ……ま、疲れが溜まる前にどこかに連れ出してやる、というのも悪くはない。
 
「ふぅ……っと」
 
 スケーターズワルツ、それに牧神と、2曲曲続けて演奏する。
 多少運動不足がたたっているのか、いや、あの堅牢な家で、息を潜めて暮らしているからか。
 ともすれば、ブレスが小さくなっているのを感じる。
 もう少し呼吸を見直す必要があるな。
 
(おや……?)
 
 ふと、観戦スペースの入り口に目をやると、普通科の制服がトボトボと俯いて歩いてる。
 俺の立ち位置が柱の影になっているからか、俺にはまったく気づいてない様子が、面白くもあり、面白くない。
 
「なんだ、日野。お前も今日はここで練習?」
「はい……」
 
 ここ、観戦スペースは広い。
 日頃は、寒さも手伝って、最近は室内で。
 そうじゃなければ、正門前で練習することが多いから、こんなところまでやってくるのは珍しい。
 日野も、俺に見つけられたのが心外だったのだろう。
 バツが悪そうに見上げてくる。
 
 しょげきったように肩を落としている様子に、俺は周囲に人がいないことを確認すると、つかつかと日野の近くに寄った。
 
「日野、一体どうしたっていうの。その情けない顔は」
「いえ……。なんでもない、です」
「馬鹿。そんな顔されたら、いやでも気になるだろう。いいから、言ってごらん?」
 
 アンサンブルメンバー内でなにかトラブルでも起こったか。
 それとも、午前中、少し様子がおかしかった、火原がどうかしたのか。
 この落ち込んだ雰囲気から、……あの吉羅理事長になにか言われたか。
 めまぐるしく頭の中が動き続ける。
 
「やれやれ。お前が言い出せないなら、尋問するよ。まず、お前をこんな状態にしたのは誰?」
「ん……。『人』じゃないです。『噂』、かな……」
「噂? お前に関する噂? それともお前以外?」
「えっと……。私、以外、です」
「お前以外の噂、って、つまり、人の噂だよね。お前、そんな人の噂に構っていられる余裕があるの?」
 
 からかいを込めて言ったつもりなのに、日野は半ベソをかきながら黙りこくっている。
 
「日野。最後まで聞いてやるから言ってごらん?」
 
 言い出しにくいことなのか、日野は顔を赤らめながらなかなか言い出そうとしない。
 ……普段だったら苛立ちが増すはずの、時間の流れが心地いい。
 俺たちは、ただ黙って目の前で繰り広げられているサッカーに見入った。
 
「柚木先輩……」
「なに? ようやく言う気になった?」
「はい。……待っていてくれてありがとうございました」
 
 日野は固く結んでいた口から ふぅ、と息を吐いた。
 
「あ、あの、思い切って聞きます。……婚約したって本当ですか?」
「は? 誰と誰が?」
「柚木先輩と……。女の人は、その……、その、お嬢さまです!」
 
 怒ったような、それでいて恥じらっているような。
 目の端に涙を浮かべながら尋ねてくる様子が可愛くて、
 でもそれを告げたら、今度は怒り出すだろうから、黙っている。
 こんないろんな表情を見せる日野は、俺にとっては愛玩すべき価値のある人間に思えてくる。
 
 笑いを堪えながら順を追って話を聞けば、それはどうやら、2年生の女子が言い出したことらしい。
 
 柚木の家の事業が持ち直したこと。それには大口の融資先の援助があったこと。
 その融資先には俺と釣り合いの取れた娘がいること。
 そして、その娘と俺が婚約したこと。
 高校卒業を待って婚約。大学卒業を待って結婚。
 嘘と噂は大きい方が面白いけれど、よくもここまで考えついたモノだと、ある意味、驚愕に似た思いが浮かぶ。
 
「ふふ。お嬢さん方の想像力は素晴らしいね。自分のことながら楽しませてもらったよ」
「ううん、笑いごとじゃなかったです。私、その話を聞いてからずっと落ち着かなかったです……」
「へぇ。お前、真に受けたんだ、その話。真に受けるだけじゃなくて、ショックを受けたとか?」
 
 いつもみたいに笑うか。それも声を上げて笑うか。
 そう思っていたのに、意外にも日野は弱々しくうなずくと、深いため息をついた。
 
 
 
 このとき、去来した想いはなんだったのか。
 可愛さ、では足りない。好意よりも強い想い。
 愛しさ、という言葉を使おうとして、俺はまだ誰に対してもその言葉を使ったことがないことに気づいた。
 
「すみません。柚木先輩。私、噂話を勝手に信じてました」
 
 ようやく、噂話は誤解だと納得が行ったのだろう。
 日野は花が咲くように笑うと、2人練習のときのように一歩俺に近づいた。
 俺は目の前で飛び跳ねている朱い髪に手を伸ばす。
 
 
 
 
「……お前、可愛いところあるじゃないか」
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