*...*...* Magic 1 *...*...*
「ああ、よかった。お兄ちゃん、やっとつかまったよ」
「なんだよ。幹生(みきお)。人を不良呼ばわりして」
「あはは。母さんのマネしてみたんだ。ビックリした?」

 俺は壁に掛かっている短針と長針の角度で時間を見る。なんだ。まだ、7時前じゃないか。
 ニューヨークに住む両親、それに幹生、ここ日本との時差は13時間。あっちの方が日本を追いかける形になる。
 今、ここが朝の7時って、ことは、幹生はちょうど昨日の夕方の6時頃。
 ちょうど、スーパーでの荷物持ちのジョブが終わって、腹減らせて帰ってきたんだろう。
 後ろでにぎやかに夕飯をせっついている声がする。

「で? 最近はどうなの、お前。頑張ってる?」
「ああまあね。身体も大きくなったから、ジョブも楽になってきた」
「ふうん。お前、リーチが長かったからな。背も伸びるだろうと思ってたけど」
「うん。そうなんだ」

 幹生は声を弾ませる。
 3つ違いの弟は、まるで俺と3つ違いには思えないほどの身長差があって、それを小さい頃からずいぶん気にしていたっけ。
 と俺は、俺はようやく覚醒してきた頭を振った。

『お兄ちゃんのようになりたい』

 そう言って、俺のヴァイオリンの構え方から、食べ物まで、すべて同じようにしようとしていたことを懐かしく思い出す。
 ああ、そういえば。あのチョコレート味のジェリービーンズって、まだあっちでは普通に売ってるのかな?
 そうだ。あの菓子、香穂子、結構気に入ってたようだったし。今度荷物と一緒に送ってくれるように言ってみようか。

「そうだよ。だって、おれこの1ヶ月で1インチも背が伸びたんだ。
 今度お兄ちゃんに会う頃には、お兄ちゃんと同じくらいの背になっているといいなって思う」
「ふーん。ってまだまだ俺も成長期だからな。お前に追いつかれる前に、引き離してやるよ」

 トイレに行き、それから朝食の支度を整える。
 朝食っていっても簡単なものばかりだ。
 バナナに、牛乳。それに、コーンフレークス。
 大体、日本料理って凝ったモンが多いと俺は思う。
 毎日、ノーファイア、ノーストレスで、必要な栄養が摂れれば、それでいいんじゃないか。

「── え? なに? 母さん。……と、お兄ちゃん、ちゃんとご飯食べてるか、って母さんが」
「まあ、適当にな」

 学院から近いマンションを借りたからいいようなものの、だからといってそれほど時間にゆとりがあるわけでもない。
 多分、あいつ。
 香穂子は、今日も朝早くから、練習室でヴァイオリンに触れているに違いない。もう学校に着いてる頃じゃないか。

 まったく……。どれだけ練習が好きなんだろう。あいつは。

 出会ってからというもの、俺が1番見ているあいつの姿って言ったら、ヴァイオリンを奏でてる姿だろう。
 弾いているだけで、幸せだ、とでも言いたげな顔して。
 だけど、香穂子がしなやかに背中を反らしてヴァイオリンを弾いている姿を見るのは悪くない、って思う。

 俺は勢いよくジャージを脱ぐと、制服に腕を通す。
 この音楽科の白い上着を着るのも、あと半月、って香穂子が言ってたっけ。
 6月、日本には、『衣替え』っていう習慣があるんだよ? 素敵でしょう? って。
 ったく、入学してからこの2ヶ月、ようやく俺の目も香穂子の目も俺が音楽科の制服を着ているのに慣れてきた、っていうのに。
 夏が過ぎて10月。
 再びこの白い制服を着たとき、また香穂子は含みをたっぷり込めて笑うだろう、って予想がつく。

『うん、とても似合ってるよ』

 ってな。あーもう。考えただけで腹立ってくる!

「っと、場所替えたからもう大丈夫だよ。お兄ちゃん」

 幹生の背後でドアの閉まる音がする、と思ったら、どうやら幹生は自分の部屋に電話を持ち込んだらしい。
 さっきよりもずっと伸びやかな声が聞こえてくる。

「お兄ちゃんの食事のことは、なんでも、叔母さん、暁彦さんの母さんとこの間、たっぷり電話で話したらしいんだ。
 それで、あまりお兄ちゃんが暁彦さんのウチに寄ってないってわかったみたいだね」
「だってさ、叔母さん。あまり体調がスッキリしないんだろ? だったら、1人で食べた方が気楽って感じがするじゃん」
「まあね。わからなくもないけど」

 幹生は思慮深そうな声で返事をする。
 小さい頃は、俺の後ばかり付けてベソをかいていたヤツなのに、こうして話していると、やっぱり兄弟っていいな、って思う。特に男同士の兄弟ってさ。

「悪い。幹生。俺、そろそろ、学校に行く支度をするよ」

 ある程度の話って、耳と肩の間に携帯をハサミながらでもできるけど。
 ベルトを通したり、未だに慣れないタイを結んだりするのって、両手が空いてないと難しい。
 ……とはいえ、なんだかんだと自分に言い訳をして、今日もあの黒いタイを結ばない俺がいることも知っているんだ。
 ちゃんと結んだのって入学式くらいじゃないか? あと記念撮影。カメラマンのでっかい声に押されて、しぶしぶ結んだ。

 日本人って律儀だ丁寧だ、って思うけど、こと式典に関してはホントうるさい。
 っていうか、どうしたって、あのタイは俺には似合わない。
 似合わないことを自分でも知っていて、それでもなお窮屈そうにタイを結んでいる土浦さんは、賞賛に値するって俺は思う。

 電話口の声は、ふっと息を詰めて尋ねてきた。

「ねえ、お兄ちゃん。夏にニューヨークに来てくれる? また、その……。そのとき、おれのヴァイオリンの練習、見てほしいんだけど」
「ん? そうだな。俺、初めての高校生活だろ? まだ夏休みの予定が立ってないんだ。
 そうだ。なんだったら、お前が日本に来いよ。1ヶ月くらい俺の部屋で過ごしたって問題ないだろ?」
「本当? ありがとう。じゃあ母さんに相談してみるよ。ごめんね、忙しい時間に。お兄ちゃんも気をつけて学校行ってきて?」

 俺がそう提案したとたん、幹生は明るい声をあげて電話を切った。
 ってか、我が弟ながら、こういう素直なところってすごく可愛いヤツだって思ってしまう。

 昼からの日差しは強い。
 俺は南に面している窓のカーテンを音を立てて閉めると、部屋の中を見回し、ヴァイオリンケースとカバンを手にする。
 ── まだ、この部屋に香穂子を連れてきたことはない。
 なんていうか、俺の場所に香穂子を入れることに抵抗があるわけじゃない。
 その、……なんだ?
 いつか、一緒にいることが普通になって、当然になって。
 あいつは俺のそばにいて当たり前だ、……って、刷り込みされてしまうのが、シャクなんだよな。
*...*...*
「へえ。衛藤くんの弟、さん?」
「そう。幹生っていうんだ。歳は3つ違い。素直で可愛いヤツなんだよ」
「そっか−。衛藤くんはお兄ちゃんなんだ」

 その日の放課後、俺は普通科棟にある香穂子の教室まで顔を出しに行った。

 なんでも星奏学院は、『良い環境を高学年に』なんてモットーがあるらしく、学年が上がるにつれ、教室のフロアも上がっていく。
 そんなわけで音楽科1年の教室から、普通科3年の教室って対角線上、っていうのか? 1番遠いところに位置している。

 俺は、普段香穂子が見ている窓の外の景色に目を当てた。
 そこには薄曇りの空が、遠くの海をさらに重くしている。
 もうすぐ雨が降りそうな色。ああ、そうか。こういうのを梅雨、っていうんだ。

 小さい頃、雨のことをうっとうしいとしか思ってなかった俺だけど。
 最近、雨にはいろいろな名前があるってことを香穂子から教えてもらった。
 養花雨、桜雨、甘露雨、霧雨。それに梅雨。
 英語じゃ雨についてこんなにたくさんの言葉を知らない。
 だから思ったんだ。
 こういう細やかな考え方ができる日本人、ってある意味誰もが芸術家なんじゃないか、って。

「衛藤くんの弟、ってどんな感じなんだろう……」

 香穂子は、嬉しそうな顔をしてあれこれ想像をして笑ってる。

「えっと、衛藤くんに似て、すごく自信家さんなのかな? 『黙って俺のヴァイオリンを聴け!』
みたいな感じ?」
「は?」
「えっと、じゃあ……。従兄弟繋がりで、吉羅さんに似てるとか?
『やることやっていれば問題はないだろう。なにか意見があるなら聞こうか?』って感じ?」
「馬鹿。どちらもハズレ。あんた、なにいい加減なことばっかり言ってるんだよ」

 口では強いことを言いながらも、楽しそうな香穂子の表情に見とれてしまう。
 ってか、こいつこれで本当に高3なんだよな。

 それでもって、普通科でありながら、今年の新入生歓迎会では、コンマス張って。
 俺がファーストネームで香穂子のことを呼ぶからだろう。
 いまだに1年の中では、俺から香穂子の情報を引き出そうとするヤツがちらほらいる。

 付き合ってるとか、steady だとか。
 そんなのあっちの国では、大した問題じゃなかったのに。
 あーあ。中学でも周りが子どもっぽい、って思ってはいたけど。
 どうやら高校生になってもこの状態は変わらない。

 ってことはなんだ? 俺の周りだけじゃない。日本って入れ物自体が全体的に幼いんだ。
 って、そんなことはともかく。

 こうして2人一緒にいると、俺は香穂子がそこそこのヴァイオリニストだってことを忘れてしまいそうになる。
 いつまでたっても、気負いがなくて、素直で。
 そんなところがまた可愛い、なんて1年生中でウワサになってること、あんた多分知らないだろ。

 ── あ、なんか腹立ってきた。
 こうなったら、何が何でも教えてやるもんか。
 俺の弟は、あんたみたいに素直で良いヤツなんだよ、なんてさ。

「ほら、香穂子。そろそろ無駄口叩いてないでそろそろ練習始めようぜ? 俺、練習室予約してあるんだ」
「あれ? もうそんな時間?」
「ああ。俺、今日はすごくあんたのヴァイオリンが聴きたいんだ。ほら、急げよ」
「うん!」




 今思えば、この香穂子との会話をもう少し、引き延ばしていたら、とか。いや、もう少し早く切り上げていたら、とか。
 いや、階段の踊り場でふざけていた2年生たちが、香穂子にぶつからず俺にぶつかればよかったのに、とか。

 もっともっと言ってやろうか。
 ── 俺が香穂子を迎えに香穂子の教室まで行かなかったら。

 香穂子はふざけながら歩いていた男にぶつかることも。階段から転げ落ちることも。
 だから、ケガすることもなかったのかな、なんて。

 この前香穂子の英文法を教えていたときのことを思い出す。

『衛藤くん、英語得意なんだよね。あのね、仮定法過去、と、仮定法過去完了の違いってなんだろ……?』
『過去完了の方が、後悔の気持ちが強いんだよ。もう取り返しがつかないことに対してよく使うんだ』
『あはは。取り返しがつかないなんて、なんだかこわいね』



 クチの端をかみながら、香穂子は右の手首をつかんでいる。
 今のこの香穂子の状態は、仮定法過去? それとも過去完了? 取り返すこと、できるのか?

 俺は目の前で起きたことを認めたくなくて、香穂子の近くに駆け寄った。