*...*...* Magic 2 *...*...*
「香穂子!」ヴァイオリンを守りながら、数段階段を滑り落ちた香穂子は右手を押さえて痛そうにうずくまっている。
普通科の制服を着たヴァイオリン弾きと言えば1人しかいない。
青いタイをつけた2年生の普通科の男は、自分の倒した生徒が学院の有名人だと気づくと すっと顔色を変えた。
「ああの! 日野先輩ですよね。大丈夫っすか?」
「お前、どうするよ。まじヤバいって! 日野先輩、あの、立てますか?」
連れの男は、身近に彼女なり女の姉妹がいるのだろう。
わりと慣れた様子で香穂子を抱き上げようとする。
俺は2人の中に肩から割って入った。
「お前ら、香穂子に何するんだよ。こいつは楽器を扱う人間なんだ。お前らとは違うんだよ!」
「やめて、衛藤くん。私、大丈夫だから……」
かっと頭に血が上りそうになったところに香穂子の声が届く。
そうか。今は香穂子の状態を確認するのが一番先だよな。
ったく、なんでこいつらこんなところで、ボール投げ合ってふざけてるんだよ。
と考えて我に返る。
そうか、ここは普通科だからか?
音楽科の生徒は、楽器を大切にしてるヤツらが多い。
だから、楽器に何かあったら、って、とっさの場合、自分の身体よりも大切に扱うこともあるくらいだ。
だけど、普通科の人間って、壊したら後悔しきれないほど大切なモノを持っているってことはあまり無いのかもしれない。
香穂子はぎこちない笑みを浮かべると、2人の男に頭を下げた。
「ごめんね。あなたたちはケガしてない? 大丈夫?」
「いや、俺たちは大丈夫っす。それより、日野先輩……」
「ありがとう。私、ちょっと保健室で見てもらってくるね。……衛藤くん、行こう?」
「あ、ああ」
忌々しい気持ちで先輩たちをにらみつけるも、当事者の香穂子がいなけりゃ意味はない。
俺は、むすっと黙りこくって香穂子の後を追った。
なんか、肩すかしを食らった、というのか。すっきりしない。
香穂子のヴァイオリンを持ちながら、俺は悪態をつき続けた。
「ったく危機意識ってのが、普通科にはないのか? どうしてあいつら、廊下でボール使って遊んでるんだよ」
「そうだね……」
「だから俺、普通科の人間ってキライなんだ。
目的意識がない、っていうか? なんかその日その日をふわふわと過ごしてるヤツらばっかりでさ」
俺の口走る言葉を最後まで静かに聞いていた香穂子は、保健室に着いたとき、目の端を朱くして俺を振り返った。
「香穂子、大丈夫か? そんな、泣くほど痛いのか?」
香穂子はかぶりを振ると、一言一言小さな声で話し始めた。
「今から半年くらい前ね……。吉羅さん、普通科と音楽科を分割する、って言ってたの」
「は? 暁彦さんが?」
「そう。それに、私と天羽ちゃんが反対して……。アンサンブルに参加してくれたみんなも一緒に反対してくれて。
そのときね、12月のアンサンブル頑張ったら、普通科と音楽科を分割するって考えを白紙にしてもいい、って吉羅さん、言ってくれたの」
「香穂子……」
「あのね、……私たち、一生懸命頑張ったんだー。ずっと一緒がいいね、って。
親友の好きな人がね、音楽科にいて。その子もすごく応援してくれて……。私、彼女の笑顔、見るの好きだった」
怒りでブクブクとラムネ菓子のようにふくらんでいた俺の頭が、すっと冷え込んでいくのを感じる。
なんていうか……。
ソルフェージュだろ? それに音楽理論。そういった音楽的知識は、今も俺は香穂子の3倍は持ち合わせてるって思うけど。
星奏学院としてのキャリアは、俺は香穂子の半分にも満たないんだ。そんなこと、今までハンデだなんて思いもしなかったけど。
ってハンデ、ってなんだ? ハンデ、じゃない。もっとこう、good imagination っていうの? この場にふさわしい言葉があるはずなのに。
香穂子は、急におとなしくなった俺に何か感じたのだろう。
優しい声でこう付け足した。
「── だから、あまり普通科のこと、悪く言わないでくれると嬉しい、かな?」
*...*...*
「あー、これは1度、大きな病院に見てもらった方がいいわねー。一応レントゲンを撮っておいた方が、安心でしょ?」最初は笑顔で迎えてくれた保健室のおばちゃん先生は、香穂子の右手首を見て、きゅっと眉をひそめた。
俺も背後から香穂子の右手首を覗き込む。
細い、白い手首は、動脈と静脈が、それこそ糸のように透けて見える。
こんな華奢じゃ、男みたいなダイナミックな音は出せないよな……、と思うものの、
じゃあ、俺に香穂子のような繊細な音を出せるかと言われれば、怪しい限りだから黙っている。
こいつの身体が作り出す音楽、ってこいつしかできないんだよな。代わりが利かないんだ。
「あの、香穂子の状態、そんなに悪いんですか?」
「んーー。たぶん大丈夫だと思うけど、念のため、ってところ? だって日野さんだから」
「え? 私、だから……?」
先生は豪快な足さばきで、ぐるりと回転いすを動かすと戸棚から湿布薬を取り出した。
湿布の臭いって、いかにも保健室にふさわしい臭いだよな。ちょっと俺の居心地を悪くする。
「まあね。日野さんは楽器をやる子だから、音楽科の子と同じ処置でいいのかな−、って思ったのよ」
「そ、そういうものですか?」
香穂子は不思議そうな顔をして、言われるままに右手首の処置をしてもらっている。
「そうね。もう10年以上、ココで養護教諭しているの。ココって、科は、普通科と音楽科、2つあるけど、
共通部、って多いでしょ? 図書館とか、視聴覚室とか。まあ、保健室も共通部の1つなんだけど」
「はい」
元々話し好きな先生なのだろう。それとも香穂子が話しやすい生徒だと把握したのか。
日頃俺1人ではけっして引き出せないような人間たちの反応に俺は改めて驚く。
「で、アタシは普通科と音楽科、2種類の生徒を見てきたワケよ」
「えっと、なにか違いがあるんですか?」
「大ありも大あり!」
先生は手際よく湿布を貼り、手首の可動部分にプラスチックのようなプレートを取り付け、くるくると包帯を巻いて話し始めた。
生徒比率の違いもあるのだろうが、まず保健室に駆け込んでくるのは普通科がほとんどだということ。
音楽科の中には、爪が欠けただけで、その指を保護するためのガーゼが欲しいという輩もいること。
音楽科がやってくる理由としては『頭痛』が1番で、ケガは滅多にないこと。
『頭痛』の理由は、音に耳が疲れてしまってるのが原因だと考えていること。
「音楽科って大変ね。音を聴くのが仕事だもの。なるべく静かなところで過ごしてね、って言えないじゃない。
と、まあ、悪い意味じゃなくて、音楽科の子は取扱注意、っていうのかな?
音楽科普通科それぞれに少しずつ違う気遣いが必要、ってことね。
だってねえ。みんなこれからの子たちでしょう? ケガが理由で人生あきらめて欲しくないじゃない」
「先生、優しい……」
「がはは。ヒューマニズムに生きなきゃ、こんな戦場のような職場はムリよ」
先生は、包帯を巻いた香穂子の腕をそっと持ち上げると子細に巻き方を確認し、すまなそうに腕時計を覗き込んだ。
「ごめんね。アタシ、実はこれから会議に出なきゃいけなくて。
あとは、そこの男子。日野さんをちゃんと家なり、病院なりエスコートするように」
「は?」
「彼女には荷物持ちが必要でしょ? よろしくね」
そう言って、身体には似合わないほどの敏捷な動きで少しくたびれた鞄を持ち上げると、そそくさと保健室のドアをすり抜けて行った。
香穂子は申し訳なさそうに眉を下げている。
「ごめんね。あ、あと、30分くらい、練習室、空いてるね。あの、私1人で大丈夫だから、練習……」
「香穂子、携帯貸して? 俺、カバン、教室に置いたままなんだ」
「え? あ、はい」
俺は手渡された携帯を適当に操作し、ある人に電話する。
絶対俺は選びそうにない、かわいらしいピンクの携帯。
そこから、不機嫌そうなな呼び出し音が2回続いたあと、これまた不機嫌な声が響いてきた。
『……日野君。私は今、仕事中なんだが』
そのいかにもぶっきらぼうな言い方は、俺とどこかよく似てる気がして笑えてくる。
そう。ヴァイオリンをやっていることと、このぶっきらぼうさ以外はまるで似てない従兄弟だ、ってしょっちゅう思えてくるからな。
「悪い。暁彦さん。桐也だけど。ちょっと車出してくれない?」
「え? 吉羅さん? あ、あのっ! 衛藤くん。私、もう大丈夫だと思うから、その……っ」
「あんたはいいから黙ってて」
慌てて椅子から立ち上がった香穂子の肩を、押しとどめる。
肩の下でふわりと揺れた髪からは、いつもの香穂子の匂いがした。