*...*...* Future 4 *...*...*
「ねえ、土浦。なんて荘厳な式だったんだろう。僕、自分のことながら胸がいっぱいになったよ」
「って加地。お前相変わらず大げさすぎ。なあ、香穂。お前もそう思うだろ?」
「うーん……。でも私も泣いちゃったから、加地くんのこと、言えないかも」
「ふふっ。香穂さん、僕のことよくわかってくれてる。そういう土浦も、ちょっと目がうるっときてるよ?」
「っておい。人のこと引き合いに出すなって」

 加地くんは肩をすくめながら、土浦くんと私に目を当てている。
 目の端が少し朱いのは、慌てて涙をぬぐったから?
 そういう私も、鏡を見てはいないけど、きっと加地くんと同じ顔してる。
 加地くんと、土浦くん。それに、遠くウィーンに離れている月森くんも。
 今日晴れて私たちは星奏学院を卒業する。

「って、葵さんも土浦さんも情けないの。卒業式くらいでそんな涙目になるなんてさ」
「あ、衛藤くん」
「香穂子、卒業おめでとう。俺、あんたのあと、しっかりついていくからな」
「うん……。ありがとう」
「……初めてなんだ。俺が誰かの音色に捕らわれるなんて。
 自分で自分のことが説明できないなんてシャクだろ? だから、待ってて。俺は絶対あんたに追いついてやる」
「ふふっ。じゃあ、その間のエスコート役は僕に任せて?」
「は? なに言ってんだか。1番危ない人間に任せられるワケないだろ?」

 式典が終わった、午前10時の正門前は、あちこちに小さな輪ができている。
 卒業生と在校生の違いは、胸元の生花の有無。
 ううん。違うかな。
 さっきまで私たちの近くにいた土浦くんは、今はサッカー部の後輩に胴上げされて、胸元の生花なんてもみくちゃになってる。
 胸元の生花なんて無くても、ちゃんと卒業生に見えるのは……。
 とびきりの笑顔で、今、この場所にいるからだと思う。

 私はファータの銅像の近くに立つと、そっと手を添える。
 石ってずっと冷たいモノだって思ってたのに、今日この銅像は暖かい。
 普段だったらすぐにでも飛び出してきてくれるハズのリリは、今日は姿を見せない。
 卒業式の挨拶でお疲れの吉羅さんに、ねぎらいの言葉をかけに行っているのかもしれない。

 土浦、加地くん。それに月森くん。
 みんなと一緒に、私は今日、星奏学院を卒業する。

 リリに会えた。音楽に会えたから、みんなに出会えた。
 それに……。
 音楽に会えたから、金澤先生にも出会えた。
 『この人が好き』っていう初めての気持ちに気づいた。

 ときどき、尻込みをするかのように距離を置こうとする金澤先生に、不安を感じたこともあった。
 周囲の友だちには誰にも相談できなくて。
 私はウィーンにいる月森くんに相談に乗ってもらっていた。
 もちろん、金澤先生のことは内緒にして。

 返ってきた答えはとてもシンプルだった。
 『かつての俺がそうだったように、高め合う恋愛は、いつか自分の糧になる』
 それが月森くんの答えだった。

 音楽を通して、みんなと友だちでいられること。それが真理なら。
 私も、私も、金澤先生と別れることになっても、もっと先。もっともっと時間を重ねた先では、
 この世界に音楽がある限り、先生と生徒の関係に戻れるのかな。そう思った。

 だったら……。

(リリ、応援してて?)

 私はファータの像を、自分の頭に焼き付けるような気持ちで見上げた。
 私が選んだ音楽の道。進んだその先には、必ず金澤先生がいてくれる。そう信じてる。
 これから先、つまらないことで心が壊れそうになったとき、ここに来る。
 その時は、助けてね。

「吉羅さん、素晴らしい式辞をどうもありがとうございます。」
「ああ。どうも。君たちも無事卒業おめでとう。これからの活躍を期待しているよ」
「吉羅さん。音楽科転科の際はご協力ありがとうございました。感謝しています」
「……才能ある生徒を育てる。私は私の、君は君の責務をまっとうしたまでだが、なにか?」

 加地くん、土浦くんの声に振り返ると、そこには、普段どおりきちんとスーツを着込んだ吉羅さんが立っていた。
 吉羅さんのうしろにもスーツ姿の人がいる。
 あまり見かけない人。あ、今日の式に参列した副理事の人かな?

「……って、金澤先生? どうしたんですか? その格好」
「は? 金やん? げ、マジかよ……」
「って、土浦、加地。その言い方は失礼だろ〜。
 卒業式って、『式』って名が付くもんに、白衣姿で列席するワケにいかんだろうが」

 金澤先生はひょい、と吉羅さんの後ろから姿を見せると、誇らしげな表情を浮かべている。
 ぴっちりと身体に張り付いたスーツ。
 いつも1つにまとめている髪の毛はすっきりと切られている。
 ……本当に、金澤先生なの……?

 金澤先生は加地くんや土浦くんと軽口を叩いたあと、最後にじっと私と見つめた。
 こんな風に、人前で、真っ直ぐ見つめられるのは初めてのような気がする。
 頬が熱を持ったように熱くなる。
 そんな風に見たら……。ダメ、みんな、気づいちゃうよ。

「ひゃっ!」

 金澤先生は私の思いに気づくことなく、ぐっと私の手を引いた。

「みんな、いいか。はっきり言っておく。香穂は売約済みだからなー。今後は手出すなよ〜」
「は、はい?」

 ──── 隠してるんじゃなかったの?
 ううん、違う。もっと言えば……。私とは、離れる準備をしてたんじゃなかったの……?

 土浦くんは突然のなりゆきに、面食らった顔をしている。

「は? 金やん。どうしてそうなる?」
「なあに。お前さんたちはまだ若いんだ。これから運命の女なんてなんとでもなるだろう?」
「いや、運命とか、なんだとか……、いきなり金やん、なに言ってるんだよ」

 金澤先生の迫力に土浦くんは二の句が告げられないらしい。
 加地くんは金澤先生と私の繋がれた手を見て、やれやれと首を振った。

「まったく、大人ってやだな。吉羅さんはこのことを知っていたんですか?」
「私からはノーコメントだよ」
「ふふっ。大人って、良くも悪くも賢いよね」
*...*...*
「ま、待ってください。もう、走れないです……っ」
「って、今日は結構暑いな。走ったら汗かいちまった」

 私は金澤先生に引っ張られるようにして校門を出ると、行き先もわからないまま走り続けている。
 手に、金澤先生の手のひらを感じる。
 見上げたところにある金澤先生の後ろ姿。
 すっきりとした襟足と、それに続く肩のラインが見慣れない。
 本当に、金澤先生、だよね……?

「もう、ここまで来れば追っ手は来ない、ってか」
「追っ手?」
「いや。特に加地なんか、ちょっとやそっとじゃお前さんのこと諦めてくれなさそうだからな」
「あはは、それは金澤先生の考えすぎだと思いますよ?」
「んなワケあるか。この1年、お前さんを見るたびに、加地と目が合ってたんだから」

 金澤先生は街角の交差点を大きく右に曲がると、走る速度を弱めた。
 あれだけ走ったのにも関わらず、胸元の生花は、張り付いたように私の胸元を飾っている。

「よし。俺にしては上出来。調べておいて良かったぜ」
「はい? なにを……?」
「教会。昨日のウチに開いている時間を問い合わせておいたんだ」

 緩やかなスロープの先にある、古めかしいドアを開ける。
 そこは高2の秋。初めて、アンサンブルコンサートを開いたことのある懐かしい場所だった。
 石畳の床。壁。
 100人にも満たない、観客。
 金澤先生の乾いた拍手と、『ブラボー』の声が響いてくる。

 髪が乱れていたのだろう。
 金澤先生は手櫛で私の髪を整えると、真っ直ぐに祭壇に向かった。

「いや。もう俺たちは教師でも生徒でもない。そう思ったら、がーっと気持ちが先走っちまってなー」
「私、びっくりしました。その、先生が……」
「うん?」
「その、みんなの前で、私のことを呼んだから」
「いや。この前、お前さんが行方不明になったこと、あったろ? あれからかな」
「あれから?」

 金澤先生は淡々と話してくれる。
 去年の夏。手術の結果が思わしくなかったことに対する葛藤。
 そして秋。私がコンクールで入賞したことに対する思い。
 冬。金澤先生自身と私が、どうしたって釣り合わないと考えて続けていたことを。

「俺自身と付き合ってることで、香穂がくだらないスキャンダルに巻き込まれるんじゃないか、ってさ」
「金澤先生……。それは違う、と思う」
「香穂?」
「スキャンダルじゃないよ? 私は、真剣だったから。……全然、スキャンダルじゃない」
「やれやれ。……その細っこい身体の一体どこに、お前さんの『強さ』ってのは、詰まってるのかねえ」

 金澤先生はスーツの内ポケットから、金色の光る輪っかを取り出した。
 それは教会のステンドグラスの中、リリのくれたE弦のような静かな輝きに満ちている。
 金澤先生の体温が移ったその指輪は、私の指にすんなりと落ち着いた。

「よ、っと。ぴったりか?」
「はい。……すごい。計ったことなんてなかったのに」
「お前さんの身体で俺が知らないところなんて、どこにもないだろ?」

 祭壇の上、神様が1番近い場所で、どうしてそんな恥ずかしいことを言うのかわからない。
 どう返事を返したらいいのか分からなくて、とっさに唇をかむ。
 金澤先生は、真剣な面持ちで私の顔をのぞき込んだ。

「香穂……。俺はどうやらお前さんよりずっと弱い人間みたいだからさ。今ここで宣言しておく。
 以前、言ったことがあったろ? 俺が立ち止まったり、つまずいたりしているときは先に行ってくれてかまわないって」

 私は頷いた。
 確か1年前。付き合いはじめたばかりの頃の先生もそう言ってた。
 でもその時には、のどの手術が成功して、元の通り歌える。そんな希望があった。
 希望を失ってからの先生は、以前ほどではないにしろ、どこか寂しげな表情を見せることが増えてきていて。
 そのたびに、歯がゆかった。何もできない自分が情けなかった。

 指輪に、新しい体温が宿る。
 先生と、私。2人の体温が伝う金の輪っかは、私と先生との新しい繋がり。

「これから先もそんなことがあったらさ、思い切り蹴飛ばしてくれ。
 そうしたら、この俺も、気づくだろ? そんで、お前さんの背中を追いかけていくさ」




 先生は私を抱きかかえると、1人納得させるようにうんうんと頷いている。
 それが少しだけクヤしくて、私は回した腕に力を込めた。

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