*...*...* Future 3 *...*...*
目の前では、いつもと寸分違わない様子の吉羅が黙って机を指で弾いている。その落ち着きっぷりが、ヤケに俺の気に障る。
冷え切った夜の理事長室は、壁や柱に年代物の古さが染みついていて、いかにもファータやフェッロの住み処に似つかわしい。
「そうですか。……まだ日野君は見つからない、と。わかりました」
時折、職員室から理事長室に電話が入る。
合間を縫うようにして、吉羅の携帯にも連絡が入る。
どうやら、吉羅は自分の親戚だという衛藤に連絡を入れたらしい。
「ああ、桐也か。……ありがとう。もう夜も遅い。お前は自分の家で休んでいなさい」
理事長室の電話。吉羅の携帯。
2つの電話がかしましい音を立てる中、俺が白衣のポケットにツッコんでいる携帯は死んだように反応がない。
真っ黒な画面は、何度も着信を確認する俺をあざ嗤うかのように、冷ややかな表情で睨みつけてくる。
「まったく。どうせ行方不明というなら、金澤さんと一緒だと思ったのですがね」
「おい、吉羅」
「保護者がいる方がまだ安心だ。それが音楽に造詣のある人なら、なお良い。そう思ったまでですが、なにか?」
俺は、理事長室の壁にぶら下がっている掛け時計を見つめた。
夜の9時。
理事長室から見える正門前のファータは、うっすらと雪化粧を始めている。
日野の両親から娘が学院から帰らないという連絡を受けて、かれこれ1時間が経とうとしている。
「彼女から金澤さんへ連絡はないのですが?」
「ああ。まったく」
「今までこのようなことは?」
「ないね。俺に関すること以外は、あいつは品行方正だよ。どんなときだってな」
俺の言葉に、吉羅はおや? と言いたげにまぶたを上げた。
今まで何度かそれとなく当て推量をし、そのたびに明言を避けていた俺と、あっさり開き直った今の俺。
両者の違いを、今はっきりと感じたのだろう。
さらに鋭く切り込んでくる。
「彼女と金澤さんが他人よりも親密な関係であるということなら話は早い。彼女と連絡は取れないのですか?」
「ああ。何回ケータイに連絡しても、あいつは出ない」
「……事件、か、事故、か」
吉羅は腕を組むと、深いため息をついた。
「決断の遅れは時には致命的なミスにもなる。時間を区切りましょう。
あと1時間。10時になったら、家族の意向も聞いて、警察に届けましょう」
「って吉羅、ちょっと待てよ」
俺は息をのむ。
確かに、香穂が何らかの犯罪に巻き込まれていたらコトは重大だ。
俺や吉羅、学院と家族の中だけで済ますことができる問題じゃない。
だが、あいつは……、女、で。しかもヴァイオリンの世界では有名人ともいえる存在で。
もし、見知らぬ男たちになにかされていたりするのなら。
警察沙汰になんかしたら、あいつの経歴にキズがつく。
人の不幸は面白い。
1度、頂点を極めた者に対して、世間一般の人間は懐疑的だ。
どこかほんの少しの欠点でも引っ張り出し、さらけ出して、没落を祝う。
そしてそれを、今の自分の幸せを噛みしめる材料にするんだ。
……なんてな。数年前の俺自身をこんな風に振り返るなんて思わなかったぜ。
吉羅は俺の考えを見透かしたように、口元で笑う。
「ご心配なく。今の私には多少のスキャンダルを揉み消す力はありますよ?」
「って、お前、違うだろ。スキャンダルがどうとかじゃなくて、今はあいつの身体を気にすべきだろ?」
吉羅の冷静な態度がカンに触る。
どうしてこいつは、どんなときもこんな風に冷静にいられるんだ?
「いや。彼女の身体のことはあなたが心配しているから心配はない。
私は金澤さんの危惧していることが現実になったときのために、次の対策を考えているんです」
「あー。もういい。俺は、学院内をもう1回探してくる」
「さっきすでに、吉村先生が探してくれたはずですが」
「お前とここで、ジリジリ連絡を待ってても仕方ないだろ?」
半ばヤケになって言い返す。
吉羅はまたため息をついて、それなら私も一緒に行きましょう、と言った。
*...*...*
夜の校舎は、昼間の喧噪がウソのように静まり返っている。俺は懐中電灯を手に、吉羅と2人、廊下を歩き続けた。
教室には人影はない、と吉村先生が言っていたが、俺が自分の目で確かめたワケじゃない。
俺は普通科教室が集まる楓館に人気がないことを確認したあと、特別棟の柳館へを足を伸ばした。
練習室、音楽室を1つずつ見て回る。
どの部屋も、ピアノまで深い眠りについてるんじゃないかと思うほど閑散としている。
だが不思議と寒さは感じない。
「香穂……。お前さん、一体どこにいるんだ?」
この2年、あいつのことを見てきたが。
こんな風に忽然と姿を消したことは初めてで。
って、俺は香穂がいないことに対して、どうしてこんなに動揺しているんだ。
──── 俺は、香穂を手放す準備を始めてたんじゃなかったのか?
その問いに、俺自身が呆然となる。
香穂が高校に在学している間は、このまま秘密裏に関係を続けて。
そして、香穂が大学に入るのを機に、さりげなくフェードアウトする。
そう決心してたんじゃなかったのか?
羽ばたいていく香穂。この地に留まる自分。
歌い方を忘れた鳥は、静かに元のぬかるみに戻っていく。なんてな。
吉羅はカフスの奥にある腕時計を取り出してつぶやく。
「9時45分、ですか。あと15分ですね」
「いいって。分かってるって」
「……金澤先輩のことだ。こうして念を押しておかないと、時間になったときに反対されそうですから」
「反対?」
「警察へ連絡を入れることを、です」
すべての棟を見終えて、俺は講堂へと向かう。
普段は300人強の人間が入ることができるこの場所は、火が消えたようにひっそりとしている。
って、用もないのに、香穂がこんなところに来るはずない、か。
無事でいてくれさえ、すればいいんだが。
ケータイに目をやる。10時まで、あと10分、か。
「ん? なんだ?」
──── そのとき。
俺の耳はかすかにヴァイオリンの音を捉えた。
これは……? この時間に? 誰だ? 香穂か?
俺は後ろにいる吉羅を振り返った。
「おい、吉羅。お前、聞こえるか?」
「金澤さんにもこの音が聞こえるんですか?」
「ああ。……かすかだがな」
「……ということは、これはあの輩たちの悪戯ではない、と」
「あの輩?」
「ああ。失礼。こっちの話でした」
走る俺のあとを、吉羅も追いかけてくる。
走っている間に、音が途切れないように。
そうだ。香穂が初めてヴァイオリンに触れたと言ったその日から、俺は、この生徒の成長を心待ちにするようになった。
4回のセレクション、4回のアンサンブル。
香穂の音はいつも俺を一つ上のステージに導いてくれた。
まだ、お前にもチャンスはある、ってな。
俺は講堂のリハーサル室の前に辿り着くと、強引にドアノブを引っ張る。
音の主は驚いたように演奏を止める。
ドアを叩く。
ドアノブを回転させようとしても、まったく動く気配がない。
「香穂。香穂だろ? そこにいるの!」
「……金澤先生? 私……」
「待ってろよ。もう大丈夫だから。おい、吉羅。これどうなってるんだ?」
確か1年くらい前、1度香穂と2人、このリハーサル室に閉じ込められたことがあった。
あのときは、俺のケータイで同僚に電話して施錠を外してもらったんだっけ。
「金澤さん、ちょっと落ち着いてください」
「吉羅……」
壊すほどの勢いで強引にドアを開けようとする俺に、吉羅は落ち着いた態度で、胸ポケットから鍵を取り出すと、鍵穴に挿した。
「ってお前さん、どうしてこんな鍵の束を持ってんだ?
確か、就任したときに星奏の電気系統を一元管理するようになったって言ってたじゃないか」
「デジタルというのは、時にして不便であることもあるんですよ。停電時、災害時。今回のような、なにかしらの有事の時にね」
ドアを押し開ける。
暗闇からは香穂が半泣きの顔で飛び出すと、まっすぐに俺の胸の中に飛び込んできた。
「金澤先生!」
「こんなに冷たい身体して。お前さん、大丈夫か?」
「怖かった……。携帯の調子も悪くて。連絡もできなくて」
よほど寒かったのだろう。香穂の身体は小刻みに震えている。
背中に回した腕に思い切り力を込める。
施錠とともに、明かりも空調も消える部屋。
4時間もこんな場所に閉じ込められて、こいつはどれほど不安だっただろう。
「香穂……。柄にもなく心配したぜ? 俺は」
「ごめんなさい。私、時計を見てなくて。突然、ガタンって音がして、電気が消えて。
慌ててドアを開けようとしたんですけど、もう閉まってて」
「まあ、お前さんが無事ならもういい」
「……再会の瞬間に水を差すようですが」
「え? あ、ああ。なんだ? 吉羅」
「私の前ではともかく、他の人間の前では、一介の教師と生徒に戻ってください」
「は?」
「ご、ごめんなさい! 私……っ」
この時初めて、俺はずっと吉羅の前で香穂の身体を抱きかかえていたことに気づいた。
香穂の身体を温めることが第一優先だと考えた。
……恥ずかしいとか、教師と生徒の間柄だとか、そんなことはこれっぽっちも考えてなかった。
香穂はこれ以上もなく顔を赤らめると、両手を伸ばして俺の胸から離れていく。
って、まあ。香穂が無事見つかったんだし、吉羅も口が堅いヤツだ。
それにどんなに後悔したって、時間が戻るわけでもないしな。
吉羅は俺に鍵の束を手渡すと、ふっと俺たちに背を向けた。
「……ちょうど10時ですね。私は一足先に、日野君が見つかったことを副理事たちに報告してきます」
「おう。いろいろありがとな、吉羅。頼んだぜ?」
「──── 少し、妬けましたがね」